日本周遊紀行

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紀行(66)霧多布 「湿原と縄文海進」



「霧多布」は、名前の通り霧が多く発生するところらしい・・、


根室市街から花咲半島を横切る形で「花咲港」へ出る。
根室港(現在の根室地区)と合わせ、日本北東端の要港として重要港湾に指定されている。 
港に面した商店は「花咲カニ」の看板が賑やかである。
この地より北海道は南部に面した太平洋岸を巡ることになる。

「昆布盛」、「落石」を過ぎ、全く清閑な道道142を暫くすると「霧多布」の浜中町である。
広大な湿原を右手に見ながら、岬へ向かうべく新川のT字路を左折する、霧多布の家並みをぬけて丘陵地へ到ると馬が放牧されたなだらかな草原、彼方に広がる薄青い海、まずは霧多布の東海岸、浜中湾に面した展望台へ到着した。


岬の突端間近に「湯沸岬灯台」が在る・・、 

灯台表のローマ字表記では、touhutumisaki(とうぶつみさき)と書かれてある、「とうふつみさき」という表現も、現地での看板で見かけたが、何故、「湯沸」と言う変わった名称のを当てているか名前の由来は定かでない。
ただ「霧多布」の名前の通り「 湯が沸き立つように霧が発生するところ 」、と勝手に解釈したのだが・・?。
事実、この辺りの海域は霧の発生する日数は年間100日を超えるという。 

霧の発生は春から秋、特に夏場に多く、これは、暖流(黒潮)の影響で温かく湿った南風が、寒流(親潮)によって上空で急激に冷やされることによって凝結し霧となるためらしく、一般に内陸部で朝に発生しやがて消えていく「放射霧」とは異なり、終日消えないのが特徴らしい。
「湯沸灯台」は、北海道で始めて小型・軽量で高光度の灯器が使用されているといい、霧が多い日は霧笛が鳴り響くという。 


「霧多布湿原」のド真中を車は走る・・、


ということは、湿原の中に車道をこしらえたことになるが、昔だから許されていたが世界のお墨付きを頂いた今日(こんにち)では想像もつかないことであろう。
湿原の中心を流れる琵琶瀬川を渡ると河口の琵琶瀬漁港のすぐ向いに大きな島が見渡せる、「嶮暮帰島」(けんぼっきしま)というらしい。

1876年(明治9年)に岩手県出身者が移住し、コンブ漁を営んでいたという記録があるが、今は無人島らしい。
その後、動物作家のムツゴロウこと「畑正憲」氏が1971年(昭和46年)から約一年間定住したことにより嶮暮帰島の名は有名となったという。

畑正憲氏は九州・日田市出身で、娘が魚の命を奪って食べることを拒絶するようになったことに衝撃を受け、もっと深く生の自然に触れさせて表面的な生き物好きの虚弱精神を払拭させて育てることを決意し、東京を離れて浜中町の嶮暮帰島に移住したという。 
更に対岸の浜中町に移り「ムツゴロウ動物王国」を開園している。 

この道道沿いにその看板そして施設が在ったようだが、中標津町にも広大な牧場やログハウスの自宅を有したムツ牧場を開園しているという。
「ムツゴロウ動物王国」は、テレビ番組でも人気番組になったりしたが、ここの動物王国は原則非公開だった。 
このため、都会の人々に動物に触れ合ってもらうと2004年、東京都あきる野市の東京サマーラド内の約9万m2の敷地に観光施設としての「東京ムツゴロウ動物王国」を開園している。 
事実上「ムツゴロウ動物王国」は東京都に移転したことになるが。



海岸よりの琵琶瀬展望台より霧多布湿原


道内三番目の広さをもつ霧多布湿原・・、

霧多布湿原が程よく見渡せる高台になっているところが「琵琶瀬展望台」である。
昨年、訪れた時は、その名のとおり霧が深く見通しは皆無であったが今般は納得の大展望が得られた。そこからの眺望は海側も湿原側もなかなかのものであった、特に中央を琵琶瀬川が大きくウねっている姿が良い。 

湿原は、この辺りの幌戸湿原、厚岸湖(湿原を含む)と合わせてラムサール条約(水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)の登録指定地である。
タンチョウ等、野鳥の観察にはこの地の中央に在る、「霧多布湿原センター」がよさそうである。
霧多布湿原(きりたっぷしつげん)は北海道の東部、釧路と根室のほぼ中間の太平洋岸にある。南西から北東に延びる海岸線に沿って長さ約9km、奥行き約3kmに広がる。 

これから訪れる釧路湿原、あの弾丸道路が延びる道北のサロベツ原野に次いで国内3番目に広い湿原であり、春(6月)から秋(9月)まで、さまざまな花が順番に咲いて湿原を彩るため、花の湿原とも呼ばれている。
今は季節柄、茶褐色の枯草色の草原が果てしなく広がっているが。

湿原中心部の泥炭(石炭の成長過程にあるもので、植物遺骸が十分分解されずに堆積して形成されている)で形成された高層湿原部分が4分の1を占め、これらの地域は「霧多布泥炭形成植物群落」として国の天然記念物に指定されている。 

また1993年にラムサール条約にも登録され、湿原の環境保護のため地元の有志を発起人とした”霧多布湿原トラスト”が作られ、湿原を保全し後世に残すよう活動を行っているという。

「トラスト」とは、歴史的建築物の保護を目的として英国において設立されたボランティア団体のことで、正式名称は「歴史的名勝と自然的景勝地のためのナショナル・トラスト」(National Trust for Places of Historic Interest or Natural Beauty) といい、一般にはナショナル・トラストと略されている。


(※)縄文海進とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことである・・、


「霧多布」はアイヌ語(キイタップ:霧が多い地域・・?)の当て字であるが、実際、霧の多い土地であることは先に記した。
湿原の中心を横断する道(道道808・琵琶瀬茶内線)は湿原保存のため道の下を水が通る構造になっているという。この道はMGロード(Marshy Grassland Road)の愛称が付けられ、歩道が整備され、各所に見晴らし場所や記念碑が設けられている。

湿原の生成については、約6000年前の縄文期に遡るといわれる。 
季節は世界的に今よりも温暖で、極地の氷床が大量に溶けて海水面が上昇したことが知られている(※「縄文海進」という)。 

当時は霧多布湿原も釧路湿原も陸に大きく入り込んだ湾であった。 
その後 気候の冷涼化に従って海水面が低下したが、霧多布では海岸部に砂丘があったため内陸側に沼が残り、この沼が水はけの悪い低地となりアシ、スゲ類(ワタスゲ)、ミズゴケなどが繁茂して湿原が形成されていったという。

地球は、その46億年の歴史の中でダイナミックな気候変動をくり広げ、寒い地球(氷期)・暖かい地球(間氷期)をくり返してきた。 
このことは縄文時代の地層や貝塚に残された貝を詳しく調べることにより、当時の海岸線の移動の様子や海辺の変化、環境を知ることにつながるといわれる。

今から2万年近く前、地球は厳しい寒さに包まれ南極・北極・高山の上に厚い氷河が凍りつき、海は氷河に水を取られて今より何十mも海面が低くなっていた。 
日本はアジア大陸とつながった半島で、ナウマン象やそれを追う人々が行き来していた。
 
寒さがピークを過ぎ、一転して暖かくなってくると氷河が溶け川を流れて海に注ぎ、海面がしだいに上がり、地殻変動とともに日本は大陸から切り離され「日本列島」となったという。
上がり始めた海面の勢いはそれでは止まらず、例えば関東地方では極寒期には東京湾が陸地になり利根川、荒川、多摩川を合わせた大河が深い谷を刻みながら流れていたらしい。
しかし一転、温暖期で海面が上昇すると東京湾が復活し、さらに谷に沿って現在の栃木県あたりまで海が進入したという。
この現象を「縄文海進」と呼んでいる。

候の温暖化は他にも多くの変化を招き、関東地方は現在の北海道のような針葉樹林と草原に覆われていたものがコナラやクヌギなどの落葉広葉樹林に変わり、草原を闊歩していた大形の獣は姿を消し、猪や鹿が森に潜むようになった。

因みに、現在の気温を標準(0度)とし、日本列島に人類が定住するようになった年代で比較すると、一万年前の縄文早期の頃は地球寒冷期で、現在と比して「−5度」くらいであったという。 

九千年前と言われる鹿児島の上野原遺跡が、その時期で傾向が見られるという。 
上野原遺跡は鹿児島県霧島市上野原にある縄文時代早期の集落遺跡で、「縄文文化は東日本で栄えて西日本では低調だった」という常識に、疑問を呈する遺跡ともなった

その後、暖流が日本海に入り日本風土形成された頃が「−3度」で、六千〜七千年前の時期の青森・三内丸山遺跡の時期である。 
以降、温暖化が進み、温帯落葉樹林が列島に拡大し、「縄文海進」のピークを迎える頃は「+2度」であった。 

その後は一進一退を繰り返し、二千年前の弥生期で稲作が西から北進する頃は現在に近い気温とされている。
だが、いま起きている地球温暖化は、人為的な要因が大きいと考えられ、温室効果ガスである二酸化炭素の濃度により、現在すでに「過去数十万年間に起きた数値」を大幅に上回っているとも言われる。



厚岸は、「あっけし」と言う・・、


火散布沼(ひちりっぷとう)は、緑豊の深い森に包まれていて原始の面影をとどめ、静かに眠っているようである。 
すぐ近くに藻散布沼(もちりっぷ)もあり、時にはタンチョウが散策し、冬にはハクチョウが群れをなして飛び交っていて生物たちの楽園だという。 

地域的には、他にも養老散布(ようろうちっぷ)・渡散布(わたりちりっぷ)などの“チリップ系”の地名が存在している。 アイヌ語のチュルプ(アサリ貝)からきていると言われていて、アイヌ期の時代からアサリの豊富な地域だったのだろう。 
尤も、今でも天然アサリの有数の産地には違いないが、特に有名なところが、これから向う「厚岸」でもある。


写真:厚岸湖と街並み

その厚岸湖大橋を渡ると間もなく「道の駅・厚岸グルメパーク」に来た。
ここの展望室から見る厚岸湖は雄大である。 
厚岸湖は全国的にも牡蠣・アサリの特産地として有名であるのは周知だが、 湖の北側に広がる湿地・別寒辺牛川(べかんべうし)を中心とした大湿原地帯からの豊饒な栄養分がカキやアサリを良く育てるのである。

厚岸湖は北から伸びる砂嘴によって厚岸湾と隔てられた海跡湖で、湖と湾の境にあたる水路には厚岸大橋がかかり、潮の干満による海水の流出入が大きく、湖水の塩分濃度は高いという。
従って、実質的には海湾であるといってもよく、漁業法上でも海面として扱われている。

流入河川 は 別寒辺牛川の他に尾幌川、トキタイ川、東梅川、イクラウシ川などである。 
北部には別寒辺牛川上流地域、その支流を含めて厚岸湖の数倍の別寒辺牛湿原が広がる。 
又、この湿原周辺には大草原があって牧畜も盛んであり、この間を国道272号線が横断するが、別名を「ミルクロード」と称している。

次回は、「釧路」

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紀行(67)釧路 「釧路市と釧路町」



釧路市のすぐ隣に釧路町・・?、


国道44号線(根釧国道)は道東の幹線道路であり、さすがに交通量は多い。 
既に釧路町に入ったようである・・!、釧路市ではない。
れっきとした行政区分上の町制の町である。大正期に釧路町(現・釧路市)より分離独立し、昨今、国の市町村合併促進奨励にて、両「市」、「町」は再び合併のための協議を進めていたが、どうやらホゴ解散になってしまったようだ。

釧路市と釧路町の因果は、1920年に当時の釧路郡釧路町が北海道区制(明治30年5月に明治政府が定めた北海道における地域区分制度、北海道区制,一級町村制及び二級町村制が公布された)が施行された際に「釧路区」と「釧路村」に分離し、それが現在の「釧路市」と「釧路町」になったという。

北海道では、1899年(明治32年)頃に札幌と函館に区制が施行され、それぞれ札幌区、函館区になった。 
その後、小樽区、旭川区、室蘭区、1920年には釧路区が誕生している。

区になるためには、人口が集中する市街地の割合が大きいことが条件であり、釧路は当時から人口に比して面積が大きかったために要件を満たさず、逆に人口が少なく面積が広い地域を分離することで市街地の比率を増し、釧路区の実現を果たそうとした。
旧釧路町(釧路市)としては、釧路川より東の山間部の別保地区だけを分村しようとしたものの住民は、当時は湿原だった雪裡太(せちりぶと)地区も含めることを要求し、旧町側もいろいろと検討した結果、要求どうり2地区を分村した。

現在の姿は、釧路市愛国地区と隣接する釧路町雪裡太地区が市町境界線になっていて両地域とも住宅、商業地域として急速に発展したために、現釧路町が2万を超える人口を有する町となっている。
釧路市としては、この雪裡太地区を譲り渡したことが、後になって悔やまれる結果となっているようである。

釧路史によると、分村は旧釧路町(釧路市)役場と北海道庁との間で非公式に進められた秘策だったため、それが表に出るや地区住民が猛反発して大問題となり道庁が仲裁に入って解決に至ったという曰く因縁がある。

釧路町(現釧路市)に区制が施行されるため、当時11万円の年賦助成金を受けて釧路村が分村独立したといわれ、釧路町民に言わせれば、「手切れ金を貰って分かれてやった」・・、と。 
尚、分離された釧路村は、1955年に、沿岸部の昆布森村と合併して新・釧路村となり、1980年には町制が施行され、現在の釧路町になっている。

今時、平成の大合併推進で平成15年、釧路地域では六市町村合併協議会が結成され、釧路市、釧路町、阿寒町、鶴居村、白糠町および音別町の広域合併に関する協議を行われ、検討されていたが、旧来の因縁で最初に釧路町が離脱している。

序ながら・・、
釧路市はその後、五市町村による枠組みなどについて調査をおこなっていたが、鶴居村が合併協議に参加せず単独の道を選択したことにより、釧路市、阿寒町、白糠町および音別町による釧路地域四市町合併協議会に参加することを決定し協議を重ねていた。
そしてその後、当初から合併協議を重ねてきた白糠町が離脱している。 

釧路市は2005年10月、阿寒郡阿寒町、音別町と新設合併し新たに「釧路市」として発足し、北見市、足寄郡足寄町に次いで3番目に面積が広い市町村となっている。
解散した枠組みでもし釧路市・釧路町・白糠町・音別町・阿寒町・鶴居村で、新釧路市として合併が実現していた場合、その面積は現在、広域度ナンバー1の岐阜県「高山市」(2180km2)を軽く超え、2960.2km2でダントツ1位になっているはずという。 

因みに、これより狭い都府県は香川・大阪・東京・沖縄・神奈川・佐賀と六つもあるのである。
気がつけば新「釧路市」は我が国では珍しい(初めて・・??)国立公園を二つ抱える町になったのである。 
「釧路湿原国立公園」、「阿寒国立公園」・・、これはトピックスである。


釧路市と鳥取の関係・・?、

さて、釧路の市街地で夕食を摂ろうと場末風のラーメン屋で生ビールにラーメン・ギョーザ定食を摂った。これが実に美味い、いかにも北海道らしいグルメ感であり、値段も手ごろで大満足であった。


ところで、食事を摂ったこの辺りの地名を「鳥取町」といい鳥取大通り、鳥取ドーム、鳥取中学といった「鳥取」という地名、固有名が軒並み存在しているのに気が付いた。
そうなのである。
この地域は昔は鳥取村、鳥取町と言った行政区域だったのであり、その鳥取町は1949年10月にが釧路市に編入していたのであった。 鳥取とは勿論、山陰の鳥取、鳥取県のことであった。

江戸末期、幕藩時代の動乱から「明治」が発足し、それに伴って明治2年版籍奉還、同4年に廃藩置県が実施され、武士のほとんどが窮乏の淵に立たされた。
鳥取・池田藩32万石は特に窮乏がひどく経済的自立は困難であったといわれ、そのため士族授産(明治維新後、士族たちをなんらかの産業につかせようとした政策)として帰農移住・開墾を勧められ、新天地を目指した、つまり、武士が失業したのであった。 
当時の地元新聞は「鳥取県の士族の中には餓死寸前の者が80戸余りもいる」と報道している。 
困窮にあえぐ士族に職を与えるため、県や明治政府もいろいろと授産事業を試み、その中で最も大きな期待をかけられたのが北海道移住であった。

1884年(明治17年)6月、鳥取県の士族39戸と平民2戸の家族を乗せた宿弥丸(1,200トン)は、釧路に向けて賀露港(鳥取市)を出帆した。 
これが県・勧業課の指導による鳥取県士族の北海道移住の第一陣であった。明治維新の社会変化によって、士族の生活は大きく変わり、鳥取県士族の北海道移住は、1889年(明治22年)までに合計8回続き、442戸が釧路や岩見沢、根室などに移住して行ったという。
移住者は、北方警備や原野の開拓に熱意を燃やしていたが、荒涼とした原野での生活は想像を絶する、言語に絶する幾多の苦難があったことは言を待たない。 

しかし、移住者たちは強い団結で悪条件を克服し、釧路地方では鳥取村をつくり、やがて鳥取町に発展させたという。
鳥取町は1949年(昭和24年)に釧路市に合併されたが、鳥取の名は今も残されており、鳥取県の士族が入植して100年余り経過した今日、釧路市は北海道東部の中心都市にまでなっている。


鳥取県と北洋漁業との関わりについて・・、


北方領土周辺の海域を含むオホーツク海、べ一リング海など北太平洋で行われる漁業を北洋漁業といい、この海域は暖流と寒流が交わっているため漁種も豊富で、世界でも有数の漁獲高を占める豊かな漁場である。  

日本海に面する鳥取県は漁業が盛んで、近年、「境港」は全国屈指の水揚量を誇っているのは周知であるが、1972年(昭和47年)頃からは北方領土に近い北海道東海域からオホーツク海海域にも出漁するようになり、鳥取県の漁船にとって貴重な漁場の一つになっていた。

無論、北方領土の周辺は、北方系の魚・サケ、タラやホッケなどのほか、温帯系のアジ、サバ、イワシなども豊富で、鳥取県の漁船も制限水域の近くまで出漁している。 この時、前線基地として友好都市である釧路港が大いに役立った事は言うまでもない。
しかし、御存じソ連が200カイリ漁業水域を設定した1977年(昭和52年)からは、この海域での操業が難しくなり、境港から出漁する漁船は少なくなったという。


ところで、鳥取県民の身近にも北方領土問題と似かよった大変重要な問題がある。
それは、鳥取沖合い隠岐島の北西約157km沖合に浮かぶ「竹島」の帰属問題である。

1952年(昭和27年)、大韓民国がいわゆる李承晩ライン宣言といわれる海洋主権宣言をし、竹島を大韓民国側に含めてしまい、更に1978年(昭和53年)以降は、鳥取・島根両県をはじめとする日本海沿岸の漁民にとって重要な漁場である竹島周辺12カイリ内の海域からわが国の漁船を締め出している。 

わが国は、竹島問題を平和的に解決するため、粘り強く外交交渉を続けているが、現在も解決するまでには至っていない。
竹島問題で苦労してきた鳥取県民は領土の大切さを身近に感じ、合わせて北方領土問題についても強い関心を持たざるを得ないという。 
即ち鳥取県民は領土問題に対しては特異な感情を持たざるを得ない県民気質なのであった。

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紀行(68)釧路 「炭鉱と釧路炭田」



釧路は今でも「石炭」を掘っている・・?、


国道38号線・・、「庶路」の町並みを過ぎると白糠漁港の手前あたりに海岸に迫り出してくる小高い山がある、東山公園の一角で「石炭岬」という。 
その名の通り石炭に所縁のある名称で、北海道で初めての石炭が採掘された地だと云われる。 そして太平洋に面した白糠の港は、江戸時代から開かれていた古い漁港であり、北海道で採掘した石炭を最初に船積みしたところでもあった。

釧路炭田の歴史は幕末の1857年、白糠(しらぬか)石炭岬と釧路市岩見ヶ浜のオソツナイで採炭がされ始め、これが釧路地方の炭田開発の第一歩であったといわれる。 
オソツナイは今の釧路市の東海岸付近、釧路市益浦(ますうら)の辺りを指し、益浦から桂恋に到る間の「岩見ヶ浜」では、地層と地層の間に挟まった露頭炭層を観察することができたという。
先ず、オソツナイで手堀の採掘が始まり、併せるように白糠のシリエト(石炭岬)でも石炭を掘り始められた。 江戸期の頃は、まだ「石炭」という言葉がなく「媒炭(ばいたん)」と呼んでいようである。 


北海道で最初に石炭を掘り始めたのが釧路地方からであった・・、

幕末、箱館が開港されて港にくる外国船舶の要望に応じるため、外国船へは薪、水、食料、更には石炭を供給することになり、これをうけて釧路地方で石炭を採掘することになった。
箱館奉行は蝦夷地に5、6ヵ所の石炭山を既に見つけていたが、その品位がどの程度のものかは不明であった。
そのため鑑定をイギリスの技術者に頼んだところ、シラヌカの石炭が良質で有望であるとの意見を得た。

安政4年、栗原善八(蝦夷地、炭鉱開発の創始者)に採取を命じ、栗原は江戸から採炭夫を数名と人夫をつれてシラヌカにやってきた。 これが蝦夷地における石炭採掘のはじまりであった。 
大正年間には明治鉱業や安田炭礦を経て三井系財閥の太平洋炭礦が創業を開始している。

当時の日本は第一次世界大戦後の産業基幹の拡大や、家庭用暖房などの燃料需要増大が見込まれる時期でもあった。
財閥系と言われる「 日本を代表する大資本が釧路の石炭産業に参加する 」その意味合いは大きく、豊富な資金力で電力を活用した機械化が進められ、石炭採掘・輸送をするために鉄道を利用するという。
石炭を中心とした日本の産業革命ともいえる一面を象徴していたのであった。 

太平洋・白糠炭田は昭和30年前期ころでは石炭は「黒いダイヤ」と呼ばれ最盛期を迎える。
しかし、昭和30年代半ば以降、エネルギー革命や海外炭との価格差とうに抗しきれず、次第に他国、他社の影響を受け、減産の途を辿ることになる。 

遂には、政府政策による各地の炭鉱閉山が相次ぐ中、平成14年、太平洋炭礦(株)はその歴史の幕を閉じた。閉山までの82年間で採炭量は1億t以上にもなり、採炭の多くを海底の炭層から行っていたため「太平洋の海底炭」というネーミングで宣伝し販売をしていたという。  

閉山前年の平成13年、地域経済への影響を懸念する中、地元釧路市財界関係者の出資により(株)釧路コールマインが設立され、釧路市に本社を置く日本の唯一の坑内掘・石炭生産会社となった。
平成16年以降には、中国の石炭需要増大による石炭価格の国際的な上昇に伴い業績は堅調だという。 
更に、平成17年度には石炭の出炭総数が国内需要に満たないため、中国の提携炭坑から石炭を輸入して販売事業を展開するという皮肉な結果も招いているという。 
併せて、アジアからの研修生受入や技術者派遣(国の「炭鉱技術海外移転事業」なども手がけている。
その「釧路コールマイン」の本社・工場は、石炭が最初に発見され採掘された釧路市益浦地区にある。

釧路市鳥取町の飲食店で遅い食事を戴いた。 
飲食後は、既にとっぷりと日も暮れていて、 やや飲酒運転気味であったが国道38線沿い、釧路市郊外の「道の駅・しらぬか恋問」へ着いた。

車中で再びウイスキーをひっかけて、そのまま車での宿となった。



白糠(しらぬか)を知らぬか・・!!、


町のほぼ中心を美しい「茶路川」が流れている。 
中茶路、上茶路、二股と河岸に沿って当時は石炭輸送のため国鉄「白糠線」が走っていた。 
炭鉱の閉山と国鉄の合理化に伴なってここも廃線の憂目を見たが、茶路川は今は良質な自然環境と魚類の宝庫になっているという。 「白糠」は当時は炭鉱で栄えた街だったのである。 

道中、「白糠を、しらぬか・・!」という結構にダ洒落た文言を見て苦笑した・・!。

音別町は白糠郡にある町で、町名の由来はアイヌ語の「オムペツ」(川口がふさがる)からきているという。町の地形から、形がミロのビーナスに似ている事から「北のビーナス」としての町おこしが進められているという。 

国道沿いの町並みには116基の街路灯が、町の花・リンドウをモチーフしてデザインされていて夜は「日本一明るい町に」という願いがこめられている。 
薄紫の淡い光が夜の音別町、国道をロマンチックに照らす光景は、ドライバーにはとても好評だとか。

音別町は2005年10月に釧路市、阿寒町の3市町が合併し、新生・釧路市の一部となっている。 
しかし間に「白糠町」が単独で存在するので、釧路市としての「飛地」(同じ行政区画に属するが、他にとび離れて存在する土地)になっている珍しい地域でもある。

次回は音別、尺別、直別・「北海道の地名とアイヌ語」  第11日目へ

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