煙草をなくし、安全に暮らせる社会を創ろう(表紙に戻る)
2004年2月29日 またまた「バカの壁」です。 何回か書いたと思うのですが、また書きます。今日は「まえがき」の部分です。 5頁のところに「人生でぶつかる問題に、そもそも正解なんてない。とりあえずの答えがあるだけです。私はそう思っています。でもいまの学校で学ぶと、一つの問題に正解が一つというのが当然になってしまいます。本当にそうか、よく考えてもらいたい。」という行があります。 私も人生についてこのように考えています。そして学校の試験と大きく違うところが全く同じことの「やり直し」ができないことがほとんどであるということです。 だから、大事なことについては慎重に考えて行動する必要があると思います。そして、同じようなことでも出てくる答えは人それぞれ少しずつ違ってくるはずだと思います。 その答えに従って行動してもうまくいくかどうかはやってみないと判らないですね。人生というのはそのような問題の繰り返しのように思います。 ただ、明らかに不利な条件が多い選択肢を選ぶのは考えものですね。普通は、より良い条件を選んでもうまくいかないこともありますからね。 この時、後の本文にある「バカの壁」を作ってしまって物事を考えていると失敗することが多くなると思います。「バカの壁」を張り巡らしている人にはこのことは判りませんけどね。 日本の教育は、この「バカの壁」を作らせるようなところが大きいと思います。
2004年2月28日 本日、諸々の言いたいこと、お休み すみません。今日はちょっと不調につき休ませていただきます。
2004年2月27日 これも教育の問題かな 最近、また司馬遼太郎の「雑談 昭和への道」を聞いています。いろいろと考えさせてくれます。 第二回の終わりのほうで、ノモンハン事件(日本軍の敗北で終了)を指揮していた将軍の話した言葉を紹介していました。 たしか「日本の兵隊さんは強いと聞いているから何とかしてくれるだろう」ということだったと思います。前半はほぼ正確です。日本の兵隊は実際よく戦いました。でも、ソ連軍が火力等を含めた総合力で日本軍を圧倒しました。 その時、自分で指揮している配下の兵隊をこのように言っているわけですよ。 この将軍、現場を見ていないか、見ていても現状認識ができないのでは。そして、将軍になるのは陸軍大学の出身者ですね。当時、日本で一番優秀だとされているところですよ。ところが、頭の中と現実を結びつて有機的に考えるということができないということですね。 ただ単に「覚える」ということを「優秀」と見ていて「ものごとをいろいろな角度から観察などをして総合的に考えて判断を下す」という訓練をされていなかった賜物かな。 この傾向、今でも続いています。何とかしてほしいですね。 そして、このノモンハン事件の教訓はあとの戦争には生かされていません。これも現状とよく似ていたりしますね。
2004年2月26日 教育の問題かな 昨日、私のHPからある病院のリンク(残していた分)をすべて消しました。 ここで、非喫煙者と喫煙者の肺の写真を見つけてリンクしていました。(今は別の病院にしています。) ところがある日、次のようなページを見て呆れてしまいました。 「愛煙家の方の為に 安心してタバコがのめる方法教えます」というものです。 確かに早期に見つければですが、進行の速いタイプの癌ですと1年間隔の検査では「手遅れ」の危険性が高いですね。 早く見つけても手術ということになると、確実に「肺」が小さくなりますね。それでなくても喫煙者の肺は酸素取り込みなどの働きが落ちています。そして、肺の減少、どうなりますね。QOLを著しく悪くします。 それにたばこの害は癌だけではありませんね。命取りになるのが多くあります。解らないのですかね。 病院のHPに載せるという意識がどうしても理解できません。 このようなことをするのは、肺の働きや癌に対する理解ができていないからかなと思います。 載せるのなら「安心」という言葉を外して警告を入れておくべきです。 それは、教育において「覚える」のみを強調されし過ぎているのが原因かな。因果関係なんてなかなか理解できない。 現実感のなさなどです。
2004年2月25日 古い本の話です。 古い本といっても、20〜30年前の話です。 当時、イザヤ・ベンダサン(山本七平氏らしいです)の「日本人とユダヤ人」という本がベストセラーになったことがありました。 私は、読んでないので今日、浅見 定雄氏の「にせユダヤ人と日本人」という本と一緒に注文しました。「にせユダヤ人と日本人」のほうが後で出版され、読んだことがあります。 浅見 定雄氏はユダヤ教というのかヘブライ関係を研究されている方です。「日本人とユダヤ人」を読まれて内容に疑問をもたれて出されたようです。 この2冊を読み比べてみたいと思っています。読解力とは、論理的とは、というようなことが幾分でも判るのではと思います。 書物などを理解するというのは、前提となる「理解している知識」というものが必要になります。この前庭がないとそこからの説明が必要になるわけですね。「日本人とユダヤ人」の内容を正しいと思った人はよい本だと評価し、正しくないと思った人はインチキ本と評価したわけですね。 この2冊の本の評価は、それだけを読むのではなく関係資料も調べてみるとよいということになります。 話は変わりますが、論文を書くということは「その主題に関する事項と『関係する周辺の事項』を有機的に理解」しておく必要があると思います。 『関係する周辺の事項』というのは、結構幅広いはずだと思います。
2004年2月24日 ジャーナリストの質? 日本生化学会の和文誌「生化学」2004年のNo1のアトモスフィアに、SNP(一塩基多型)についてのジャーナリストの認識についてありました。 SNPとは遺伝子の塩基配列の一つ違うことによって起こる微少な個人差です。これを重篤な遺伝病と混同しているというものです。 よく似た例として、東海村でのウラン臨界事故の時、放射性物質、放射線、放射能の定義の違いについての混同が見られました。なんで数日後に放射線を浴びたかどうかをガイガーカウンターで測定しているのか。それより現場でどれだけの線量を浴びたかが問題でした。その点について、マスコミの追求はほとんどなかったようですね。 このようなことは、教育に於いて理系、文系などと分け、理科を軽視し自然現象などを理解しようとしない人間を多数育ててきたツケですね。もっとも文系分野でも怪しいですが。 答えを覚えるのが「勉強」であるという認識がなくなるような評価制度にしないと日本のこの手の現象はなくらないと思います。 「本質が何であるのか」ということが追求できる人材を養成しないことにはいつまでたってもマスコミの報道、視聴者の受け取り方に変化が見られない。日本が世界から取り残されていくことになるでしょう。
2004年2月23日 日経オピニオン面のインタビュー「領空侵犯」を読んで 今日は、マネックス証券の松本大氏です。 見出しに「学校教育は役割放棄」というのと「社会の活力奪う恐れ」の2つがありました。 最初の部分で松本氏は「私の母校でも最近は『はみ出し人間』を退学処分にすると聞いています。未熟な人間を社会に通用するようにすることが学校の役目なのに、逆に排除してしまう。これでは画一的な人間ばかり残ってしまいます。」とありました。 確かに今の学校は「個性化」と言いながら規制が多いですね。そして、肝心の学力保証が非常に心もとないですね。ただ、松本氏とは考えが違って「どうして学校にこだわるのですか。」教育は社会全体でするものであり、親がするものであり、学校でするものですね。学校にこだわるから、問題が出てきている面が多くあります。 企業の採用姿勢がもっと個人の能力を見極めて行われるなら、履歴書から学歴欄を無くしてほしいですね。そうなれば徐々に有名大学に集中しなくなると思いますが。いかがなものでしょう。 国家公務員試験は、あれ実力ですよ。合格順に出世しますからね。その点から見ると企業のほうが遅れていますね。 国家公務員試験や司法試験などの論述は、日ごろからの鍛錬が必要です。大学入試問題と見比べれば、なぜ、東大出が多いかわかります。 ただ、後半の部分については賛成できる点が多くあります。 私学助成は、大学にするのではなく、個人の利用券みたいな形式ですね。現状では、有名大学に入学する学生は裕福層が多いですね。これは、授業料とが高くて初めからあきらめている生徒がいるわけですよ。そのような生徒に対して返還不要の奨学金のような形でも支給するということですね。そして、大学別ではなく、個人に対して行なって、助成を減らす。すると大学は、学生集めのためにより頑張るということになるいうことですね。
2004年2月22日 日経ビジネス2004年2月23日号の日清食品会長の言葉より 日清食品の記事の最初につぎのような言葉がありました。「私なんか、若い者から見ると翁でしょう。しかし、90歳になっても働けると思えば働ける。50歳になって『わしはあかん』と思えばそれで終わり、要は心の問題ですわ。」です。 ちょっと、世代交代の面から考えると?と思うところもありますが、それより後半部は今の若い者によく見られる悪く言うと「負け犬根性」の通ずる面があるのでは。 自分の能力を磨きもせず、諦めているところです。「わしはあかん」と思いこんでる。会長は、「わしはまだまだ働ける」と思っている。その違いが今の若者のフリーターの増加などにもつながっていると思います。 どうして若者を「あきらめ」の境地に追いやっているのか。その原因はいろいろあると思います。 その一つに「評価」が絡む価値観の問題があると思います。日本で企業が報酬の査定に成果主義を取り入れてもなかなかうまくいきませんね。これは「業績」の評価の仕組みができていないからですね。 長年、培われた「単純相対評価」というのから抜けきれていない。説明できる基準の絶対評価への移行ができていない。評価の基準は完全には説明できないと思います。でも、日本は今まで全くしてこなかったに等しいですね。 それと、問題集の答を覚えるのが「勉強」と思いこむような風潮を作り上げてしまったこと。これはどこかの県が高校入試で「内申書重視」を打ち出してからひどくなりましたね。それに追い打ちをかけたのが「共通一次→センター試験」や私立大学入試のマークシート方式などです。 ところが、養老孟氏の「バカの壁」にあったように、俗に勉強できるといわれる大学でも「知る」ということのみが勉強というのが増えたそうです。 「覚えている」ということと「理解して使える」ということの違いですね。「覚えている」だけで何をしてよいのやらわからないということも「あきらめ」の境地に導く要因かなと思います。 話が変わりますが、「文武両道」の意味ですが養老孟氏の著書によりますと、学習等(新聞、書籍などを含む)で取り入れた情報を理解してより良い行動をするということだそうです。私もそうだと思います。ところが、有名大学卒業生でもこの「文武両道」から外れている人をよく見かけます。教育を何とかしてほしいですね。
2004年2月21日 日経教育面「理科教育の現状と対策 上 」を読んで 見出しに「学習到達度 目標の半分」というのと「指導要領 早期改訂を」と基礎・基本の理解目標に」とがありました。 まず、2002年11月の学力試験についてありましたが、あの試験、無作為に学校を抽出したのかもしれませんが、学校内でどのように実施させるかまでは考えていなかったのでは。学校内で高めになるようなクラスだけ受験させている場合があるのでは。それをしてもあの程度、かつ設定通過率自体が曖昧では。 もっと酷いのではと思います。 現場無視の論理に基づいて学習指導要領がつくられる現状は見なおされるべきであるとあります。その通りだと思いますが、理科の学習に大事なことはいくつかあります。学習を進めるうえでできるだけ早く「論理的」にものごとを考える基礎的な知識を理解させる必要があると思っています。 この「論理的」というのは理科以外の分野でも役に立つものです。そして、その裏づけとなる現象などを実験や観察などで経験させる必要もあります。 理科は、知識だけでも駄目、実験等だけでも駄目です。両者が噛み合って初めて効果が発揮されるのに「実験」をしない教師は結構多いですね。小学校から実験等と理論の関係を判るように指導してほしいのですが、今の教員養成の仕組みでは無理ですね。 理科離れの原因は多くあると思います。その一つに、日本独特らしい「文理別け」があるのでは、そして小学校教員養成過程での理科は酷いですね。中学校養成過程の理科も疑問に思う入試科目であったりしますね。教員採用試験のレベル、一度本屋で見てください。高校でも大学入試程度ですよ。本来、教員はもっと深く理解している必要があると思うのですが。それもこれも文部科学省の方針(教職課程の認可は文部科学省)と絡んでいると思っているのですがいかがなものでしょうか。 学校での指導は結構「自分の経験」によっていますね。教育学部の数学過程は暇らしいですね。教育学部出身の数学教師がその経験で、普通の工学部に進学する生徒に「大学は暇やから」とか言っていました。工学部や理学部などは真面目にやっていたら忙しいのにね。
2004年2月20日 大学での生活費 HPを見ていたら以下のようなものがありました。 2月12日、全国大学生活協同組合連合会が発表した1万人規模の調査で次のようなことが分かりました。 それによると、アパートや寮から通学している大学生の1か月の支出は約12万4800円。大学生の昼食代の平均は3900円で、10人に1人は300円未満。 一方、平均収入は約12万9000円で、主な収入源の仕送りは約8万5700円で、奨学金は約1万8800円でした。 自宅から通う大学生の支出は約5万8800円でだそうです。 差は約6万6千円です。一年ではこれの12倍、80万円弱です。私学文系の授業料と施設費を加えた額に近いですね。国公立の授業料は大抵520800円です。入学金ですが国立28万円、私学も30万円ぐらいが多いですね。 自宅生の夕食などの費用を考えるとこの差はもう少し小さくなりますが、それでもすごい差ですね。 アルバイトは、自宅生も下宿生も平均すれば同じだと思います。 結局は、自分の進路と大学の内容、就職先等と学費や生活費などを総合的に考えて決めるのがよいのではと思います。ただ、入学してみないとわからない面もあります。難しいですね。
2004年2月19日 大学入試の小論文 大学入試の小論文の採点基準ですが、旺文社の大学受験年鑑にありました。詳しくは大学受験年鑑をご覧ください。 ある大学のデータをあげていました。大きいのは内容性と論理能力です。 ということは、直前対策ではやらないよりはマシですが、内容性と論理能力の向上は難しいのでは。日頃からいろいろなものごとに興味を持ち、かつ探究的に接していく必要があるのでは。 このために、学校の授業も結構役に立つところもありますし、日頃から幅広く深い教養と論理的に表現することをしておく必要があると思います。 論理的に表現するというのは、日頃の学校の学習活動でもさせることができるはずですね。ところが、このようなことはさせていないですね。テストで択一式や穴埋め式ばっかりだったりしますからね。 だから、小論文だと書けなくなるのですね。感想文ではないのです。小説でもないのです。小説などは自分の思いをそのまま表現してもよいわけですが、論文は読む人に筆者の考えを誤解されずに理解してもらうという前提で書くわけですね。文章表現力も大事ですが、内容性と論理能力のほうがもっと大事であるということになるのではと思います。 文章読解型の小論文では、読解力というのが必要です。この文章というのは大抵「論説」型が多いように思います。小説型などは「国語」でやってますからね。 この読解にも幅広い教養が必要だと思います。 大学によっては、倍率等の都合でどこまで見ているのかな。低倍率すぎると合格数の問題でほとんど採点みたいなことができないところもあるかもしれませんね。 高倍率すぎると、多くを読む必要があるので採点が雑になる恐れもあるのでは。ぼちぼちの倍率(どの程度かは判りません)が受験生にとっても大学側にとってもよいのではと思います。
2004年2月18日 教員の質 難しい問題です。これは、「評価」という点が絡んでくるからです。 どのような教育を良いと考えるかということですね。それで、「評価」というのができるわけです。 学力的には大学を卒業しているわけですから、専門分野くらいは最低センター試験レベルがほしいですね。さらに、高校の教師の場合は、常に大学教養以上のことも勉強してほしいと思います。 学会で発表される方もおられれば、「教科書ガイド」または「教科書の指導書」がないと授業が全くできない状態まで幅広いようですね。 何故でしょうか。それは勉強は「受験」のためで「自己の向上」の為であると思っていないことから起こるのではと思います。そして、学校等によるとその受験もありませんので学力低下ということが起こるのでは。 また、進学校でも入試問題にばかり気を取られ「受験」に関係ないものに対してその教師も勉強しなくなるという悪循環もあるようですね。それに、自己の研鑽を積む機会を文部科学省が用意していないというのも問題ですね。 最低限?の学力が保証できたとしましょう。教え方ですね。 でも、これも生徒の能力の「評価」ということで見られることになるのでは。また、生徒の人気度合もかな。 「評価」というのは「価値観」を尺度としていると考えています。記憶力のみを良しとするのか。本等を持ちこんでもよいから論文をまとめることができのかなどです。 いろいろありますので、今多くの県で始まろうとしている教員に対する「評価」ですね。恐いものがあります。「評価」する者のレベルがしれている場合が多いためです。
2004年2月17日 本日の日経「円と元」より 新聞を職場に忘れてきたので正確ではないかもしれません。 中国人が日本で今までと違った形で入ってきて働くようになってきましたね。 理由は、簡単にいうと「中国人の方が優秀」ことになります。IT関連分野ですがNECやSONYなどが多くの人材を中国に求めています。 どうしてでしょう。 日本人より役に立つというわけですが、教育の仕組みもその一役をになっているかもね。 中国の大学では、評価等も欧米を意識して教育を行なっているようですね。そして、日本に来た中国人は日本を通過点と考えているようです。そして、アメリカなどを目出しています。 ところが、日本で教育を受けても、例えば大学を卒業するとアメリカの大学院に進学したい考えている中国人がいるそうです。 日本の教育のレベルをアメリカより低く見ているのかな。最近でこそ、日本技術教育評価機構などができて教育水準を世界標準に使用とする動きが参加になってきたいますが、まだまだですね。 前からよく書いていますように「大学が教育レベル」を一定に保つ努力をしてこなかったのでは。それが、高校以下の学校での生徒などの勉強態度、レベルを下げてきたのでは。 また、大学が十分に教育せずに卒業させても企業が採用していましたね。これも原因の一つ。 どの段階の適当だったということです。それのツケだ今出てきているのだと思います。 日本の大卒より外国の大卒というのがもっと多くなってくれば、大学も企業もその姿勢を変える必要に迫られるでしょうね。 大学は学力のない学生は卒業させなくなるだろうし、企業はアホみたいな3年の終わり頃からの採用活動をやめて卒業後の採用活動に変更する必要に迫られるのでは。
2004年2月16日 教師の読解力 このような教師もいるということです。全てではありません。お間違いなく。 昨年、あるところで聞いたことです。 大学入試センターの大学入試センター試験の受験案内の内容についてのことです。 17頁の(3)〜(4)でした。 (3)は通常は配布しない科目に関してです。「志願票で必ず希望をしておいてください。希望しない場合は配布されません。また、配布を受けても当日、変更することができます。」でした。 (4)は当日の受験についてで、通常配布される科目については志願票に拘らず自由に変更できます。但し、2教科以下で申し込んだ者は教科の数を守ってください。 一つが別問題冊子の範囲ですね。普通に読んでも別冊子は、外国語の時と数学Aのときにしか関係しませんね。模試の時、別冊子が結構あります。それとの混同、生徒はまだしも教師が! また、この冊子のような書き方でも理解できないような教育をしてきたのかいうことですね。私なら、この記載ですと、理科や地歴などで別冊子になっていたら訴えます。ところが、30頁も参照したら17頁の通りなっており、実際の試験も17頁の通りでしたね。 二つ目は、受験科目についてです。2教科か3教科以上かの区別だけで、どの場合もどれでも受験できる。但し、別冊子希望の時のみ事前に志願票で記入が必要というものです。これが理解できない教師がいたということです。2教科の者が3教科以上受験した場合の扱いも38頁にありますね。読んでいない。私のちょくちょくやってしまいますがそのようなときは読み返すようにしています。 どの分野の教師も大学を卒業しているのだから、この程度の文は理解してほしいですね。
2004年2月15日 大学生の生活費や卒業後についいて 旺文社の全国大学受験年鑑などの資料をご覧になられるとある程度おわかりいただけると思います。 旺文社の資料から引用させていてだきます。具体的数字等は旺文社の受験年鑑をご覧ください。 ここに出ているのは、大学への納付金を除いた額です。東京で自宅生の支出の平均が6万円ぐらいで自宅外は14万から15万円だそうです。 この差は、年間では100万円ぐらいになります。私学文系の普通の年間納付金より多いですね。 地方では住居費が安くなるので差は普通少なくなります。旺文社の例では、大阪で差は7万円ぐらいになります。年間では80万から90万円ぐらいですね。 これでも大きいですね。もっと地方に行きますと住居費はさらに安くなる傾向が強いですが、安くても住居費だけで年間40万円前後が多いと思います。 別居すると、光熱費や食費などで家族と同居に比べて無駄が多くなります。 国公立でも下宿すれば地元の私学の方がトータルで安いということが多くなります。就職等で全国区的な大学は少ないですよ。 アルバイトも大都市圏の方が多いのでは。 下宿して進学する場合、大学の内容、自分の進路目標、卒業後の進路をよく考えてできるだけ自宅からの方がよいように思います。 大学院に進学するなら、そこで地元に戻る手もありますのでやりたいことができる大学という考え方もあります。 ただ、大学卒業で就職するのなら就職したい地域に実績のある大学の方がよいかなと思います。ですから、各大学の就職先地域も調べて志望校を決めれればさらによいわけです。なかには、全国どこでも可能みたいな大学から地域限定みたいな大学までいろいろあります。インターネットのHPで見てみるのも面白いですよ。 教員などはごく特定の種類以外は地元にその免許が取得できるのであれば地元の大学の方がよいと思います。ようはどこに行こうが本人の努力次第です。 公務員も基本的には採用試験を通ればよいわけですからどこでもよいということは、地元でもよいということになります。ようはこれも本人の努力次第です。 受験生本人の希望、学力や大学の内容やレベル(入試のレベルではない)や入試難易度、卒業後の進路等の総合的に考えて進路指導をするべきである。 高等学校の良さの判断は本来、大学等を終わったあと、そこの卒業生がどれだけ活躍しているか(出世だけではないですよ)によるのでは思う。 しかし、大学合格数などによる序列で入学時から潜在的に劣等感をもって努力を放棄している例が多すぎる。 理数ができて優秀だから本人の希望を無視して医学部などと短絡的に指導する高校は消えてほしいですね。
2004年2月14日 日経、教育面の「数字は語る」を読んで 今日は、「早期離職、歯止めかからず」です。若者の雇用が深刻な問題になっている。そこで問題になってくるのが、フリーターの増加と就職しても2、3年で辞めてします早期退職問題である。これは、小中学校で労働体験が少なすぎるのが原因の一つでは。その根っこには、大学入試があると思います。入学歴みたいな入試(卒業の方が楽)を続けているため、入るまでが禁欲的、あるいは人生に必要な経験を積ませない生活があるのでは。 それと、学校などにおける「失敗恐怖症」ですね。してしまったら取り返しの付かない失敗は困りますが、何事につけても「失敗しない」ようにし過ぎて「成功まで耐える」という経験を積ませていない場合が多いからであると思う。 大学が卒業の認定を基準をもって厳しくするようになると入試は楽になると思います。もっと高校等での学習などが入試対策ではなく、実質的に基礎力もでき、いろいろな体験もでくるのでは。基準が緩いままだといくら入試改革をしても今の状況の抜本的解決にはならないと思います。
2004年2月13日 すみません。本日も忙しいのでお休みします。
2004年2月12日 すみません。本日は忙しいのでお休みします。
2004年2月11日 小論文問題 この問題文は徳島大学のHPにありました。原文はそちらでみてください。出題意図もあります。 出題意図からみて「言葉の意味が定義されている場合にその定義に従って考えるとき論理的」ということを主題に書けばよいかなと思います。 話が、それますがこの本の著者、自然現象の説明の方法と言葉遣いから導き出される定義との違いがよくわかっていないような印象を受けます。 「水」ですが、自然科学では、普通質量数18の水ということを前提に話をしていますがね。前提が変われば結果が違ってくるのは当たり前ですね。 重水で実験すれば沸点は高くなるでしょう。人文科学系でも社会科学系でも自然科学系でも「言葉」を使うときの前提というものがあるはずです。 その前提が、その時点で論理的であるのかいうことでいえるのでは。我々が思考し発表するとき、「言葉」でするか「物」をつくるかですね。 「クローバ」の定義では葉の数なんてありましたかな。この場合は「クローバの葉は3枚」と結論づけていますね。これは観察の結果の結論であって定義ではないですね。 「独身」これも時代が変われば意味が変わるかも。 結局、言葉の意味をどのように定義しているのかということにつきるのではと思います。 さらにそれて、文法ですが、言語が成立してとりあえず広く使われるようになってからその共通性を調べたものですね。言葉の定義もそのようなものでは。
2004年2月10日 国際化と問題点について 昨日に続き、題目のみ設定パターンで書いてみます。 現在は、交通手段や通信手段の発達により海外の情報や物資が素早く日本に入ってきたり、また、海外に出ていっています。 日本で生活していくうえで海外からの物資などは必要不可欠になってきました。また、日本からの物資を必要とするところも多くなっています。 文化的にも、日本のアニメ、ゲームなどは海外でも高い評価を得ています。海外から日本にたくさんの文化的情報も入ってきており、交流が盛んになっています。 日本一国で生活するのは不可能な状態になったといえます。 そのため、外国の事情等をよく理解して付き合う必要が出てきていますが、日本のこともよく理解しておく必要があると考えます。 そして、その違いを踏まえた行動ができるようになることであると考えます。 世界の中の日本ということを意識して主張すべきところは主張し、聴くべきところは聴くという態度を取りながら相手と対等に付き合うことができるようになることが必要である。 ところが、相変わらず鎖国のときの感覚の発言が時々あるような状態です。どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。多くの日本人の意識が「おらが村」のままであるということです。 常に「お国自慢」のみに終始して「自己解剖」ができていないからです。過去の歴史の自己検証することをしないため、国際化どころか国内的にも多くの失敗を繰り返すのです。
2004年2月9日 デジタルデバインドについて 今日も推考はできていないかも。 「デジタルデバインド」 コンピューターを利用できる人と利用できない人、インターネットを利用・活用できる人とできない人、IT社会についていける人といけない人によって知識量や情報量、仕事量の差が大きくなり、雇用問題やビジネス社会においての地位、貧富の差などが大きくなり二局分化の問題である。 以上の意味は、あるHPからいただきました。 コンピューターを利用して成果を上げる、また、インターネットを利用して情報を収集したり発信したりする能力を養い、器機を整備して利用しやすい環境をつくることで解消されると言われています。 これには適切な指導が必要になる事例が多く見られ、単に器機の整備では本来の目的が達成されない。 さらに利用方法を指導しただけでは、次のような問題が起こると考えられます。 情報の価値判断についてです。インターネット上は多種多様の情報であふれています。その中には、正しくて有益な情報も多いのですが、グズ情報も少なくありませんし明らかに間違っている情報、故意にうその情報を発信している場合も考えられます。 多くの情報の中から必要で有益な情報を選び出す能力の養成というのが非常に大事であると考えます。 また、コンピューターを利用して仕事をする場合、手作業での手順等を大まかに理解できている方がより成果を上げれると考えます。 デジタルデバインドの解消には、操作法等の指導、器機の整備のほかに日常の学習活動というのもあって初めて目的を達成できる可能性が出てくると考えます。 自分の能力を高めようと学習活動を活発に行っている者ほど、コンピューター等の器機の操作に慣れる度合が速い場合が多いから。
2004年2月8日 環境問題について 環境問題といっても範囲が広いですね。まあ、普通は地球環境や地域の環境である場合やゴミやリサイクルについてですね。 地球温暖化について、私見を書いてみたいと思います。 温暖化すると「雨」は増加しそうな気がします。その前兆はすでに現れています。1時間雨量で100mmを越えるようなのが降っていますね。これって、熱帯型では、そうスコール、でも日本では降り続く。 夏に灼熱地獄みたいになる地域が北極に近い方にも現れはじめていますね。 雨は増加すると思うのですが、降り方の偏りがさらに酷くなる恐れもあります。偏りがおこると今まで森林や農地であった部分が荒廃するわけですね。森林が減少すると二酸化炭素の吸収も減少します。さらに温暖化ということに。これらの結果、農地の砂漠化が進む恐れもあるわけですね。砂漠化は簡単だと思います。一旦砂漠になったところを農地にするのは大変では。 そして、食料生産の減少ということも考えられるはずです。海面上昇よりこちらのほうが恐いと思います。アメリカなどで不作になったとき、今まで通り輸入できるのでしょうか。アメリカ自体も自給という点で問題が起こる恐れすらあると思います。 潅漑等が不適切であるための「塩害」も現実には各地で起こっているようです。幸い、日本は雨量が多いので流されているのですが、淡水といえども少しは塩類を含んでいるので雨量の少ないところでは潅漑で入れた水が蒸発することによって持ち込んだ塩分が土に残ることで起こります。 多くの農地が不毛になる危険性をはらんでいるのです。 ですから、温暖化ガスの排出制限をしたり、燃焼を伴わないエネルギー源の利用を進めたり、光合成を工業的に行えるようにする技術開発などが必要では。 光合成を工業的に行えるとは、パネルみたいな状態に酵素などを配置して水と二酸化炭素を入れると酸素とグルコースが生産される仕組みです。できたら、温暖化も食料の問題も解決されるかも。誰か、発明してください。 森林の破壊には、人口増加による焼き畑や煮炊き用などの生活使用分の増加によっても加速されていますね。新しい安価なエネルギーの開発が早急に求められます。深海底の海水温が上昇すると「メタンハイドレート」が解けだし一気にメタン濃度が増加する恐れもあります。メタンも温暖化ガスの一つです。 以上10分弱で書きました。推考をしていません。
2004年2月7日 大学入試について思うこと(その3) 問題のレベルですが、これは大学入学後学習の基礎となるレベルで良いと思います。 それより、繰り返しになりますが大学の卒業の学力のレベルですね。こちらを厳格にしてほしいですね。この学力も「覚える」ではなく、大学卒業者として必要な資質を身につけているのか。専門分野の能力は当然厳しく問われなければならないと思います。それに加えて、総合的な教養ですね。工学部出たから経済に関心がないとか、法学部だから自然科学系に関心がないとかでは困ります。 大学というところは、単なる職業訓練校ではないはずです。出口の厳格化で入試のほうは緩和されるのでは。今は、入学さえできればなんとかなると受験生は思っているし、大学側もそうさせている面があると思います。 一部大学でGPAでしたか、進級等に単位数のほかに優、良、可の割合に制限を設けるところが増えてきていますが、各科目の判定が甘くなれば依然と変わりはないということになります。 大学教育のすべての分野に日本技術者教育認定制度(http://www.jabee.org/)みたいな機構ができて認定を与えるようにしてほしいですね。 学力基準などを外部に対して具体的に説明できるように、例えば考査の問題などを公表しその採点基準も公表し検証を受けてください。 企業や官庁などの採用活動が遅くても良いと思えるように大学教育の質を高めてください。そして、履歴書等から学歴欄や職歴欄がなくなることを期待しています。当然、面接等でも学歴などについての質問も禁止ですね。専門分野の問答をすれば、学力等は判るはずです。
2004年2月6日 大学入試について思うこと(その2) センター試験ですが、今年は平均点調整がなかった。 科目間の平均点の差が大きいときの調整ですが、どうして調整する必要があるのかということがいまだに理解できません。 問題もよく吟味され、良質な程よい程度ですね。受験生は本来は得意とする科目を受けているわけですね。どの科目も目標を同じようなあたりに設定してるはずです。 ところが、今の高校教育において一部の学校を除いて文系では理系科目、理系では文系科目が軽視されています。理系の生徒が受験する地歴の科目は「地理」が多いらしい。 それに対して文系の受験生の理科は「生物」のみに近いです。教育があるいは受験生本人が軽視してる科目の受験が特定のものに集中することになっているのでは。 本来なら、理科での平均点は「生物」が一番低くても良いと思います。それが、余計な得点調整があるかもというためか、物理や化学などを少し難しくしているのでは。 どの科目の受験するならこれだけという最低基準を考えているはずなのが、得点調整をいうもののおかげで歪になってはいないでしょうか。 センター試験は、受験資格のあるナシの判定程度の利用にしてほしいです。2次試験では「論述」やじっくり行なう「面接」などで合否を決めてほしいですね。
2004年2月5日 大学入試について思うこと 1月17日8日のセンター試験、2月に入ると私立大学の入試が最盛期を迎えていますね。 入試の形態ですが、多種多様になりましたね。ところが、出題形式ですが、マークシート方式でこちらのほうは不思議と多くの大学は歩調を合わせています。どうしてかな。 多種多様といっても受験科目の選択数や配点比率の組み合わせを変えているだけですがね。 ある大学関係者が、「マークシート方式と記述方式のどちらがよいのかと追跡調査した結果、あまり差はなかった」と言ってましたが、どの程度の記述なのでしょうか。穴埋めに近い感じの字数では差は出ないと思います。俗に言う「論述式」程度と比べてほしいですね。 高校によると思うのですが、定期考査では生徒は問題集からそのまま出題されると思っており「答の丸暗記」に走っているところの多々見られるようです。そして、大学入試がマークシートでは考えよりませんわ。
2004年2月4日 日経の連載、私の履歴書より 今月は、紀伊国屋書店会長兼CEOの松原治氏です。今日のは旧制高等学校に在学されていたときのお話しでした。 昭和10年ということもあって、陸軍の師団司令部付の少将が査問官としてとして学校にきていたとのことです。 生徒の登校風景を見て批判して「貴学の教育はなっていない。学生の服装はまちまちだし、先生に対して朝、敬礼するものもいればしないものもいる」とだそうです。それに対して、当時の教頭先生が毅然とした態度で「あなた方は軍人だから星の数一つで敬礼するかもしれないが、学生は自主的だから、尊敬する教師には頭を下げるだろうし、値しない教師には頭を下げないのは当たり前である。」と反論されたそうです。 当時、これだけはっきり言われる教頭先生は少なかったのでは。立派な方ですね。 ところで、「学生は自主的だから、尊敬する教師には頭を下げるだろうし、値しない教師には頭を下げないのは当たり前である。」の部分ですが、今に置き換えて考えてみると、どうでしょうか。 今、人気のある教師はどのようなものでしょうか。予備校での人気講師とは。旧制高校当時の教師は、不人気なのでは。今の人気度ですが、例えば、解き方のテクニックを教える教師だったりするのでは。じっくり考えさせる教師の人気は低いような気がします。 今は「勉強」について、なにか楽な方法があるのでは、その方法を知ることに余計な労力が費やされているような気がします。例えば、センタ試験なんて普通に授業をうけ、理解し忘れないようにしていたらできるものですね。まあ、忘れないようにが難しかったりして。特別な解法なんていりませんよ。それが、傾向と対策でしょ。その結果、センター程度も理解できなくなってきてる。論述対策をしているところほどセンターの得点が高かったりするのでは。 勉強の意味をよく考えてくれれば、尊敬に価する教師とはどのようなものか幾分かでも理解できるのでは。そうでないと、現在では、テクニックのみを教える教師に人気があったりして。
2004年2月3日 最近の国会審議などの様子から思うこと 先週の国会での陸上自衛隊のイラク派遣についての国会承認の審議ですが、誰かが言っていたように「予定から逆算して審議日数や採決時期を決めている」と思われる事態になりましたね。 以前から、そのようなことが多々ありました。これって、帝国陸軍が中国大陸で軍事行動を起こした後、政府に報告(承諾を求めたのではありません)し、政府が追認したのと基本的には同じでは。 審議はもっと前からできたでしょ。そして疑問点があり、何らかの対策がでるまでさらに審議すべきでしょ。ところが、どっちが政権党になってもこの体質は変わらないのでは。自民党が野党のときの選挙制度審議もそのような感じをうけました。この時は、「小選挙区比例並立制」が初めから結論としてあったのではいう感じでした。 結論が、先にあって辻褄合わせのような審議は止めてほしいですね。必要があるのに「審議打切りの動議」の多いこと。 加藤議員や亀井議員が本会議のとき、欠席してますね。特別委員会であのようなことを与党が党としてやったから、本会議で欠席、良いことですね。 それと「審議」ですが、どうして「本質」を上手に外すのでしょうか。教えてください。
2004年2月2日 本日の日経の医療面を読んで 一つが「難手術 技術認定広がる」です。その一例として日本心血管カテーテル治療学会(JACCT)(http://www.jacct.com/seido/index.html)のことがでていました。 認定の受験資格ですが、実際の症例数が200例を越えていることなどです。そして、試験官が実際の手術を見て採点するとのこと。ホームページにもでていますので見てみてください。 このような認定医が増えるといいですね。 ところがほかの外科系ですが、どこかの認定医制度では実技経験が考慮されないところもあります。研究に対する「箔」をつけるためとか。そのようなところの認定制度は廃止してどこでも実際の診療治療の実績、その内容を基準にしてほしいですね。 論文に対しては「博士号」があるでしょ。認定医制度を利用しないでほしいですね。 もう一つ、別の記事「患者の目」です。 「合わない薬 変えない医師」というのがありました。これは、専門だけしてきたという弊害だと思います。医療は、患者の全身、感情などを含めたものだということが判っていないのかな。「シカを追う猟師、山を見ず」のたとえではないですが、他の全身症状が悪化すればそれの対策をするのが普通なのにできない医師の話です。 このような医師も減ってほしいですね。治療法については常により良い方法がないのか研究してほしいです。
2004年2月1日 昨日の日経の教育面「秒読み 国立大法人化の課題C」を読んで思うこと 見出しに「『変わりたくない』が本音」と「大学側の意識に遅れ」と「高等教育の質向上 期待薄」とかがありました。 現在、卒業生の質に関する国際的な基準による制度を構築しつつあるのは、「日本技術者教育認定制度」の制度ぐらいですね。他にありましたか。 俗に言う理工系のほうはこのように国際化にも向けて動きだしているのですね。問題は、国際化にあまりさらされていない分野のほうでは。理工系でも能力のない研究者のほうは制度の変更がないほうがいいですね。 国際的通用する研究者は過去の制度のひずみによって総合大学のほうが多いような気がします。そのような研究者にとって日本より居心地の良いところがあれば実際に研究室ぐるみで海外に出ていった例もあります。 結局、大学の中で本当に有能な研究者が多ければ書かれているような抵抗勢力は少なくなると思いますが、実際はいかがなものでしょうか。