寺報「洞雲寺」

 

 

平成25年12月

阿弥陀仏こそ尊けれ この世の常の姿して  我が身離れず そひ給う

 

平成21年(2009)の11月の初旬のことです。

「今年のもみじが綺麗だったらライトアップでもされたらいいのに…」

法事を勤められた方の思わぬ一言に、

「そうですね…」と言いつつも、心の中では、いつも境内のもみじは色づいて来てもクチャっとした葉になって、鮮やかな紅葉になったことがないからなぁ…とやる気は全くと言って良い程ありませんでした… 

しかし、不思議なことに、もみじの葉が丸まって行くことはなく、綺麗に色づいて来るではないですか…。ライトアップを勧めていただいた法事の方が再びもみじを見に来られて、

「まだ、ライトアップをされてないんですか…。ほら、こんなに綺麗に色づいて来ているでしょ…。おっさまライトアップをしてくれませんか…」

渋々、除夜からお正月に境内を照らす投光器を出しまして、照らしてみました…。 

すると、予想以上にもみじの紅葉が美しく、闇夜を照らしました。素晴らしい光景にうっとりしながら、ひとりで眺める贅沢と皆様にも観ていただけたら何よりだが…と想いを巡らしておりますと、一台の乗用車が入って来ました。

「お久しぶりです…中日新聞です。今、西浦北小学校で取材をして来た帰りなんですが…。住職、何されているんです…」

「えっ、ライトアップだよ。ライトアップしたらどうかって、声を聞いたものだから…」 

「これ、記事にしていいですか…」

「記事になるの?投光器を出して照らしただけじゃない…」

「いつからある、もみじですか?」 

もう、取材が始まっていました…

不思議なご縁でした。ちょうど一ヶ月前に何気なく、両親が結婚した年を調べて昭和33年2月23日と知ったのです。

私は昭和40年に誕生しておりますので7年、子宝に恵まれなかったのです。しかも、半田の薬師寺さまから、婿として迎えられた父には、子供が授からない重責感でいっぱいだったことでしょう。

昭和34年の伊勢湾台風で境内の松の大木が倒れた後、ご本山である光明寺のもみじ参道を頭に置きながら、もみじを植えたのが昭和35年ごろだとすると…

「おそらく、父が50年ほど前に植えたもみじだと思いますよ…」

と頭で考えるより先に、口が話していました。

「お父さまは…」

「あぁ、私が小学校3年生でした…。9歳のときに交通事故でお浄土へ往きました…」

翌朝の新聞記事には、『住職の父、故磯部建道さんが50年前に植えたもみじが鮮やかな色をつけた…』と記されていました。

予想以上にお越しいただく方がいる中で、翌年、年忌に当たる方を拾い出していましたら…鳥肌が立ちました。何と、父の37回忌が当たっているではありませんか…。

これまでに到ったすべての出来事は、このことに通じるために起こっていたのでは…と感じてなりませんでした。

法事の方がライトアップと口にしたことも、もみじが美しく紅葉したことも、新聞記者の方が立ち寄られたことも、両親の結婚した日を確認していたことも…

すべては父のはからいで身近なかたちで何かを知らせようとしてくれたのではないのかと感じるのです。

『たまたま』とか『偶然』と感じることを、『不思議なはたらきかけで…』と受け取りますと阿弥陀さまやご先祖さまが身近に感じます。

総本山光明寺第83世の松尾全弘法主は、

「阿弥陀仏こそ尊けれ この世の常の姿して 我が身離れず そひ(添い)給う」

と日頃から口にされておりました。阿弥陀如来さまは本当に尊いお方です。この世の日常の何かに成り変って、私から離れることなく添い遂げていただく方です…と。

平成20年11月に和歌山のみなべにお説教で出かけた際に、控室の帳面に記してあった松尾全弘法主の直筆です。

この時から不思議は始まっていたのかも知れません…。

不思議な出逢いに感謝です。そして、何より命をいただけたことに感謝です…。

 

平成25年8月

いたずらに機の善悪を論じて、仏の強縁を忘るることなかれ

 

今年の節分のことでした…。いつも手を合わしているお仏壇の中で、ひときわ小さい「法光孩子」と刻まれた死産の方のお位牌が気になりました…。

「確か、母の姉弟で私の叔父さんに当たる方だったかな…」

とお位牌を裏返してびっくりしました。そこには、昭和21年2月3日寂と記してあり、ちょうど、今日がご命日だと気がついたのです。そして、不思議なぬくもりに包まれました。

 どんな方だったのかと気になりましたので、早速、叔母に尋ねますと、

「あぁ、この子はね、ちょうどお婆さんが井戸の水を汲もうとした時に、土台の石を踏み外してお腹を打ったものだから、『いのち』を落としてしまってね…。

確か、その時にお爺さんが初老だったから、厄を持っていってもらえたんじゃないか…って、みんなで手を合わせた覚えがあるよ…」と話してくれました。

私の母は三姉妹の長女で、男の兄弟がなかったため半田市の薬師寺さまから三男である父を迎えて結婚したしたのが、昭和33年という年でした…。

折にふれて聞かされていたお話の中で、末娘の叔母の後に男の子を授かったけれども、死産だったから母が父を迎えるご縁になった…と耳にはしていました。

「もし、この方が無事に生まれていたら… 私はこの世に生まれていなかったのかもしれない…」

もし、この叔父さんに当たる死産の方が、この世に生を受けていたら、母が父を迎えることもなく、他の人生を歩んだかもしれないと思いますと、私が生まれて来るご縁はなかったのかもしれないのです。

父と母が出逢ってくださったおかげで、この『いのち』があるのですから、私が生まれて来れたのは、叔父に当たる死産の方が私のようなものに、『いのち』を託し、任せてくれたから、今がある気がしてならないのです…。

お仏壇で感じたぬくもりは、この、せっかくいただいた『いのち』を無駄に使うんじゃないよ、願われて生まれて来れた『いのち』なんだからね…と伝えていただいた気がしたからなのです。

世の中には、生まれたくても生まれられない『いのち』、『いのち』をいただいて生まれて来たけれども、生きたくても生きられない『いのち』、そして、自然災害や交通事故、犯罪で一瞬で奪われてしまう『いのち』があります。

おそらく、叔父に当たる死産の方のことは、何度も、何度も、聞かされていたはずなのに、深く考えたことはありませんでしたが、ようやく、大切な『いのち』をいただいてこの世に生まれさせていただいたということに気がつけたのです。

 

「塞翁(さいおう)が馬」という中国の故事があります。『淮南子(えなんじ)』という書物の「人間訓」に出てくるこの故事は、何が幸せで、何が不幸かを考えさせられます。

昔、中国北方の塞(とりで)近くに住む占いの巧みな老人(塞翁)の馬が、胡の地方に逃げ、人々が可哀相にと気の毒がりますと、老人は、

「これが、幸いの始まりかもしれない、そのうち、福が舞い込むわい…」

と言いますから、人々は、

「馬を失って幸せなはずなどなかろうになぁ…」

と口にしておりますと、やがて、その馬は胡の駿馬を連れて戻って来ました。人々は、驚きを隠せず、お祝いしたい旨を述べますと、

「これは不幸のはじまりになるかもしれないね…。禍(わざわ)いが雨のように降って来なければいいが…」

と申しますので、

「逃げた馬が帰って来たばかりじゃなく、名馬と呼ばれる胡の駿馬を連れ帰って来て、何が不幸だよ…」

と人々が羨(うらや)ましがりますと、胡の駿馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折ってしまいました。

「大変でしたね…。息子さんが怪我なさるなんて…」

と人々がお見舞いに足を運ぶと、老人は、

「あぁ、これが幸福に繋がるかもしれないね…。見た目ではわからないことが、世の中にはたくさんあるものだよ…」

と伝えられました。その後、胡の国が攻め込んできて戦争となり、10人中9人がいのちを落とすという戦(いくさ)で若者たちはほとんどが戦死しました。

しかし、足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、いのちを失くさずに難を逃れることが出来たのです。世の中は何が幸せで、何が不幸かということはわからないものである…という故事です。

西山上人のご法語『鎮勧用心』の中に「いたずらに機の善悪を論じて、仏の強縁を忘れることなかれ」と説かれておりますが、

周りの善し悪しや幸、不幸にとらわれず、いつも願いをおかけいただく阿弥陀如来さまのおはからいの強い仏縁に心を傾け、せっかくいただいた『いのち』に心の底から感謝したいものです。

 

 

平成24年12月

五臓六腑に感謝しておるか?

 

 9月の上旬でした…。2年間も受けていなかった人間ドッグを受けるために半田市医師会の健康管理センターに出かけました。

いつもは主治医の許で血液検査やバリウムを飲むだけの検査で終えていましたが、

「四十歳を過ぎたら、しっかりとしたところで健康診断を受けた方が良いぞ…」

という先輩の言葉に背中を押され、何もないことを願いながらの検査でした。

身長、体重、視力、血液検査、眼底検査に胸部レントゲン、心電図を終えて、腹部超音波の検査中でした、一日に何百人と検査を受けている検査技師の方が、

「えっ!おかしいなぁ…」

と声をあげたのです。私は不安になり、顔を曇らせておりますと、

「今までに腎臓のことで何か言われたことはありませんか?」

と訊ねられました…。父方の叔父二人は腎臓に疾患があり、水分の制限をしたり、透析をしていましたので、いよいよ私も腎臓に疾患が出たのか…と頭の中がまっ白になり、動揺しておりますと、

「右の腎臓は萎縮していて普通の方の半分ぐらいしかありませんよ…。でもね、左の腎臓は普通の方の倍ぐらいあるんで代償性肥大しているのですかね…。まぁ、腎臓は片方でも機能していれば何とかなりますから…」

調べていただきますと右の腎臓も正常に機能をして頑張ってくれていました。眼には見えない身体の中のこととはいえ、今まで私の知らないところで身体を支えてくれていたと思うと感謝の念でいっぱいになりました。

その日を境に、

「右の腎臓さん、半分の大きさなのに頑張ってくれて、ありがとう。左の腎臓さん、右の分も補いながら頑張ってくれていたんだね、ありがとう。今まで気づかずに無理をさせてきたね、ごめんなさい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…」

と身体に感謝する毎日となりました。人間ドックの腹部超音波を受けなければ、生涯に亘って知らなかったことを教えていただいた気がしました。

このことがあってから、ふと三十代の頃に言葉をかけられた記憶が蘇りました…。

「お前は五臓六腑に感謝しておるか?」

お説教師の先輩から告げられた言葉です。私が答えに戸惑っていますと、こんなお話をしてくれました。

先輩が『念ずれば花ひらく』の直筆を是非とも書いていただきたいと仏教詩人の坂村真民先生のもとを訪ねた時、

「あなたは五臓六腑に感謝しておられますか…」

と申されながら、『念ずれば花ひらく』の書を書いていただいたそうです。そして、

「私という身体はね…眼には見えないのですが、肝臓、心臓、脾臓、肺、腎臓の五臓と胆、小腸、胃、大腸、膀胱、三焦の六腑という『おかげ』で持ちこたえられておるのです。私が休んでいる時も、身体に中ではひと時も休まずにはたらいてくださっている。有難いものですね。感謝ですね…」

とおっしゃられたそうです。

その坂村真民先生の詩で五臓六腑が使われているものがあります。 

『業病ゆえに』

わたしの一番身近にいて わたしを一番助けてきたのは わたしの五臓六腑である

そう気づいてから わたしは毎暁 仏さまを拝んだあと

五臓六腑さま この弱いわたしを よくぞ今日まで 延命させてくれました

更に大願成就のため 御加護を切念しますと 祈願しだした

それからというもの 悩み苦しんできた業病にも 感謝するようになった

それはつまり 業病があるということは

わたしが生きているしるしなのだと 思うようになったからである

『五臓六腑の恩』

生まれてから いろいろの恩を頂いて 生きてきたが

最大なものは 五臓六腑の恩である

すやすや眠っている時でも わたしを守ってくれる

神にもまさる恩を 忘れてはならぬと

鳩寿五歳になって 目覚めて夜中 改めてそのことを思った

この恩を返さず あの世へ行くことはできぬと決めて

天上天下(げ)唯我独尊と わたしは自分の体に感謝した 

このことを伝えてくれた説教師の大先輩、橋本随暢先生も平成23年12月11日に84歳でお浄土へと帰られました。感謝とご恩に目覚めたら、お礼に生きる毎日を過ごしたいものです。

 

 

平成24年8月

『泥中の蓮に心洗われて…』


今、思い返しますと蓮花との出逢いは不思議なご縁でした。

ご本山である光明寺さまに随身をさせていただくまでは、それほど関心がありませんでしたが、御仏の御教えである仏教を学んでからは、ご縁にふれて何かが目覚めたように、蓮花に想いを馳せるようになりました。 

蓮は泥に染まらずに、泥の中から茎を伸ばし美しい花を咲かせる…。

それはまるで、本来あるべき人間の姿かもしれません。損得や、勝ち負けや妬みの多い泥のようなこの世の中で、本来あるべき人間のあり方に気がつき、仏道に目覚める姿と重なります。

「極楽」では一面に蓮花が咲き誇り、その芳(かぐわ)しい香りで人の心を和ませてくださると教えていただいた方もありました。 

西山短期大学を卒業し、愛知県常滑市にあります自坊の洞雲寺に戻りましてから「お寺に蓮を…」という願いが日に日に大きくなり、どうしたら、蓮を育てることができるのだろうか…

と悩んでいると、手を差し伸べてくださったのが、常光寺の菅田祐凖上人でした。蓮花を咲かせる基となる種蓮根と手書きで書かれた蓮の植え方と育て方を届けていただいたのです。

あの時の歓びは昨日のように覚えております。違う種類の蓮花はないかと迷っておりますと、蓮花を始めたと耳にされた、常楽寺の木舩是周上人、常念寺の松坂俊照上人、護念寺の水崎仰祉上人が種蓮根を送ってくださいました。

多くの方にご縁をいただき、蓮花を始めましたが、最初は失敗の連続でした。

蓮根の太いところを植えれば良いのではないか…と、直径四十センチの鉢に植えましたが、葉が繁るばかりで花が咲きません。

翌年、植え替えをしますと太い蓮根は腐っていました。その時に、教えられたのです。蓮根として食べられる部分は花の役目が終わったのだということを。人間も同じように感じます。それぞれの役目を終えたら、次に譲ることも大切なことなのです。 

肥料を多く施せば良いのではないか…と、いつもに増して入れた時には、葉ばかりが育って花を咲かせません。どうしてかと思っているところに、

「和尚さん、お腹がいっぱいの時に食事を出されると美味しくないでしょ…」

と伝えてくれる方がいました。確かに過食は身体には悪いことです。その時に気づいたのです。やり過ぎてもいけないことがあることに。

植え替えをしない方が良いのではないか…と、手をつけなかった年は、葉が貧弱になり花芽もつきません。

次の年に植え替えをして謎が解けました。泥土の中とはいえ、一年で蓮根が成長し鉢の中で息が出来ないほど張り巡らされていることに。そして、目覚めたのです。何事も手をかけていかなければ、息が詰まる思いがして苦しいことを。 

蓮花から教えられることは、まだまだ多様にありますが、泥で染まっていた私の心を少しずつ導いてくださっていたように思います。

蓮を始めるご縁も阿弥陀如来さまやご先祖さまから願いをかけていただき、出逢わせていただいたように思います。また、蓮の育て方の失敗の中から、実は人間としてのあり方を教えられ、私の方が育てられていたような気がしてならないのです。 

平成二十二年の夏、ご褒美のように「双頭蓮」が開花しました。

双頭蓮とは一本の茎から二つの花をつける珍しい蓮で百年に一度、五十年に一度あらわれると伝えられる蓮です。不思議なことに開花している期間は特別な用事も起こらず、写真を撮ることに専念できました。

そして、昨年、「双頭蓮と出逢えた夏」というミニ写真集も出版できました。限定二千部のこの本も在庫がございますので、ご連絡いただければ幸いです。

私達はいつも、泥中の蓮に心洗われていたのです。西山上人がお詠みになられた

「生きて身を はちすの上に 宿さずば 念仏申す 甲斐やなからん」

とはこのことなのでしょう。人との関わりの中で、世の中の交わりの中で、人間として大切なものは何かを教えていただき、蓮の花のように手を合わせたくなるような方になりたいものです。

 

平成23年12月

大丈夫 心配するな 何とかなる

 

今年は3月11日の東日本大震災をはじめとする津波や原発の恐ろしさ、三重や和歌山、タイの豪雨災害の怖さなど天災が起こり、科学万能、情報システムを誇る現代社会の(もろ)さを見せつけられました…。

やはり、人間は自然の中の一部であり、大自然や神、仏に支えられて生かされて来たのでは…と思い知らされる一年となりました。

そして、『絆』という言葉を(かか)げ、痛みや苦しみを分け合って行きましょうという日本人らしい動きがございました。

『絆』という字は糸ヘンに半と書きますが、古来より糸ヘンは「しい」と読ませたようです。そして半は「分け合う」という(こころ)がございますから、

支え合い、助け合い、生かし合えることを心の片隅において生活することが大切なのでは…と考える一年でもありました。

一休禅師は亡くなる直前に、三巻の巻物を弟子たちに遺したと伝わります。

そして・・・

「この先、私が亡くなった後、本当に困り果てた時にだけ、これをきなさい。それまでは絶対に開いてはならない」

と遺言し遷化(せんげ)(僧侶が死を迎えること)されました。

それから、数年が過ぎまして、お寺に大問題が持ち上がりました。その問題はお寺の存亡の一大事と事がらみました。弟子たちは、知恵の限りを尽くしましたが、これはという妙案を思いつくことができず、困り果ててしまいました。

その時、あるお弟子のひとりが、一休禅師の遺してくれた巻物のことを思い出して、恐る恐る(ひも)()いてみますと、その巻物にはこう書かれておりました。

一巻目を開いてみますと、「大丈夫」とだけ書かれております。

「一休さまは私たちが大変な目にあっても大丈夫、落ち着けと言っているに違いない…」

二巻目を開いてみますと、「心配するな」とだけ書いてあります。

「そうそう、心配するなと(なだ)めてくれているんだ…」

いよいよ、最後の三巻目を開いてみると、「なんとかなる」と書かれておりました。

「えっ…」

それを見た弟子たちは、あっけにとられ、笑い出しました。そして、その時に素晴らしい解決策を思い浮かべました。

「なんとかなる」と信じていたら、本当に「なんとかなる」ものです。「なんとかなる」だけではなく、人生は阿弥陀如来さまの智慧のはたらきで、本当は「なんとでもなる」のかもしれませんね。

本年は法然上人の八百年御遠忌が厳修されました。法然上人の人生は、父を殺され、比叡山に登り、善導大師の経疏からすべての方が救われるお念仏の教えに出逢われ、そのお念仏をひとりでも多くの方に伝えることを使命となさいました。

しかし、お念仏によって信者を奪われると感じた他の宗旨、宗派から責められたり、時には流罪に処されたりする辛い生涯を送られましたが、その度ごとに、

「阿弥陀如来は、こんな、どうしようもない私たちに手を差し伸べて、本来あるべき人間の姿を思い起こさせてくれるのです。

辛い、苦しい、悲しい出来事はどなたにでも訪れますが、それを仏縁として、その時でないと咲かない花を咲かせることが人間の尊さです。その時に(いず)るお声が南無阿弥陀仏のお念仏ですよ。」

と申されたと伝わります。もし、法然上人が現代におられたら、逆境の中だからこそ、お念仏を歓びなさいと申されるかもしれません。

来るべき新年も共に心の洗われる一年を過ごして参りましょう。

 

 

平成23年8月

『我慢』と『辛抱』

 

『我慢』と『辛抱』、状態や状況は似ていますが、奥底の意味は大きく異なります。

「辛抱」には希望があります。自分ひとりだけが耐えているのではないことを知り、共に辛さを抱えて幸せを願う芯の強さを、辛さを抱えると書いて「辛抱」というのです。

しかし、「我慢」は違います。高慢、驕り、自惚れを伴う慢心で、相手のことは考えません。この我慢の元となる「七慢」は仏教語で次の七つを指します。

@相手と比較して驕り高ぶる「慢」、

A自分と同等の相手に対し自分が上だと思う「過慢」、

B自分より優れた相手に対し、自分が上だと思う「慢過慢」、

C悟っていないのに悟ったと自惚れする「増上慢」、

D自分に執着することから起こる「我慢」、

E遥に優れた相手と比較し、少ししか劣っていないと思う「卑慢」、

F間違った行いをしても正しいことをしたと言い張る「邪慢」

我慢は私だけ苦しいと悲壮感が漂い、相手と比較することしか考えない愚かな身です。

世の中を見てみると、この七慢で溢れていることに気づきます… と同時に私の中にも七慢で傷つけた人が多かったことに気づかされます。

法然上人は「智慧第一の法然房」と周りの方々からは尊ばれましたが、ご自身を「十悪の法然房」「愚痴の法然房」と愚かで罪深い身であると語られ続けました。

我慢していた身と気づき、辛抱する身に転身すれば「極楽の生き方」と「極楽の往き方」がわかるのかもしれません。

人との関わりには辛抱が必要です。仕事にも辛抱は大切です。

辛抱の先には希望があります。辛抱がやがて心を支える「心棒」となり、どなたからも認められる「信望」が得られます。実は、お念仏には、この「心棒」を整え、「信望」をつくるはたらきがあるようです。

阿弥陀さまより願われている私ですから、「ありがとう」の南無阿弥陀仏、「ごめんなさい」の南無阿弥陀仏が「辛抱」のこころを育てるのです。

 

 

 

平成22年12月

」できる心

 

今年も残りわずかとなってまいりました。師走のこの時期、年内に済まさなければいけないこと、やり残したことに追われる毎日です。

そして、何より今年一年の積もり積もった人間らしからぬ生き方にこちらの方から頭を下げたくなる年の瀬です。

本堂の前で地に頭を擦りつけるようにして平伏している方がいました。その姿は声をかけることが出来ない程、一心不乱に何かに懺悔している姿でした。実はその姿が私の頭から離れないのです。

法然上人は登山状というご法語の中で「罪の浅深を定め、業の軽重を考えらる法王、罪人に問うて曰く…」と罪の浅い深いを定めたり、業の軽い重いを考慮する閻魔大王が私たち罪人に問いかけると説かれます。罪人とは罪をつくっている人ということですが、私たちは悲しいかな、その自覚がなかなかございません。時には「関係ない!」と関わりがあるにも係わらず、自分のことを優先して相手を思い遣る慈悲の心を忘れてしまっています。

法然上人はお念仏の教えに出逢う前、罪深い私たちが救われる道はないものかとの心情を法然上人行状絵図(勅修御伝)第六巻には

「かなしきかな、かなしきかな、如何せん、如何せん。ここに我等如きは、既に戒定恵の三学の器に非ず。この三学の他に、我が心に相応する法門ありや、我が身に堪えたる修行やある…」

と嘆かれております。また、法然上人はご自身のことを「愚痴の法然房」「十悪の法然房」と罪深い身であると申されております。

罪や業は私たちが自覚して犯すものもあれば、知らず知らずのうちに侵していたものもあります。自覚して犯した罪や業は謝ったり、お詫びをしたりして、償うことやお許しがいただけますが、知らず知らずのうちに、自覚もないまま侵したものは取り返しのつかない過ちに至ることもあります。

罪や業の深さを自覚しますと、懺悔の心が出てきます。「懺悔とは罪を罪と知りて悔い返す心なり」と西山上人は申します。もう二度と人を傷つけないようにしよう。辛い思いはさせないようにしようと何度も何度も悔い返す心です。この心を常に持っていれば、「(ざん)()」の心が芽生えます。ともに「はじる」と読みますが「慚」は罪を二度とつくら

ないと罪をつくる自分をはじること、「愧」は…私は祖母から良く聞かされました。「私は心を鬼にして言うけどね…」と。自分の周りの方が罪をつくることもはじることだったのです。

知らず知らずのうちに人を傷つけ、自覚のないままに生活していた私が「懺悔」の心をいただいた時、人間らしい生き方や阿弥陀さまの願いに気づきやすくなります。こんな罪深い私たちを嫌いもせず、厭いもせず、西方極楽浄土に迎え摂るとお誓いくださった阿弥陀さまのご縁に感謝のお念仏が称えられるようになるのです。

お念仏は「助けてください」「救ってください」とお称えするものだけではありません。もうすでに救いの中にあったことを、阿弥陀さまに願われている私であったことを呼び起こしてくださるものなのです。

つまり、私たちは阿弥陀さまに懺悔できる心を授けてもらっていたのです。

来年はいよいよ法然上人の八百年御遠忌が厳修されます。どうぞ、お念仏を歓びながら共に心の洗われる一年を過ごして参りましょう。

 

 

 

 

平成21年12月

『 お念仏 』を歓ぶ

 

法然上人は幼少の頃、勢至丸と呼ばれておりました。九才になりました頃、悲しい出来事が起こります。父である漆間時国が夜討ちに遭い、殺されてしまうのです。

「父上!父上の仇は必ずとります!」

涙ながらに言葉をかける勢至丸に言葉にならない声で語ったのは時国です。

「お前は仇討ちなどという愚かな考えは捨ててくれ…。お前が仇討ちをすれば今度はお前が狙われる。お前が狙われれば尊い命を落とす…。

お前が命を落とせば身内の者が黙っていないだろう…。憎しみからは憎しみしか生まれない。どうか、誰もが生まれて来て良かったと感じる教えを…。歓びが歓びを生み出す教えを探してくれ…。」

その言葉を胸に法然上人は比叡山で智慧第一と呼ばれるほど学問に励みましたが、答えは見つかりませんでした。そこで、一切経、つまり数多のお経をすべて紐解くこと三度目に、唐(中国)の善導大師の一説に目が止まります。

「そうか、そうか、そうであったか。私の方からではなく、相手となる仏さまの方からの立場で経文を読めば、如来さまのはたらきによって私たちはこの身このままで歓びをいただくことができるのか…。」

という「他力」のお教えに目覚められたのです。「他力」と耳にすると私たちは自分では何もしないで相手任せ、他人任せにしてという意味合いでとらえがちですが、法然上人の目覚められた「他力」のお教えは、

「人を憎んだり、恨んだり、罵ったり、見下している私たち、愚かで、弱く、疑いの心をぬぐえない私たちは自分勝手で救われようのない地獄の生き方をしているけれども、

そんな救われようがない私どもを見捨てずに、本来あるべき人間の生き方に導いてくださり、他の力のはたらきで生かしていただいている尊さに気づかせていただくことが有難い仏さまの他力なのです。」

と申されているのです。人間の眼差しで見たら相手と比べることでしか「価値」を見つけることができませんが、仏さまの眼差しで見たら私が私の役割をただただ果たす、私でしかできないことで他の方々に歓んでいただくことが本当の「価値」なのです。

この価値を引き出してくれるのが「お念仏」です。「お念仏」はまさに私が私の役割を果たすことが大切だと教えます。

仏を念じると読む「お念仏」は私が仏さまを念じることですが、念じる仏と読む「お念仏」は念じてくださる仏さまのはたらきで、

私が本来あるべき私になるためのご縁をいただき、他の方々や物のはたらきの中で私は育てていただいていたのですねと歓びが込み上げ、あまりのうれしさにこぼれる出る声なのです。

つまり、嬉しい時に素直に込み上げる「ありがとう」がお念仏であり、申し訳ない時に込み上げる「ごめんなさい」がお念仏なのです。

法然上人は、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏…。」とただただ称えるだけでいいのです。

と教えられました。この灯火が七百九十八年続いております。

平成二十三年の法然上人八百回忌のご法要「ありがとうにつつまれて…」で一人でも多くの方が、法然上人から受け継いで今日まで流していただいている「お念仏」を口にできる日暮しを送り、常に「お念仏」が歓べるおひとり、おひとりでありたいものです。

 

 

平成21年8月

観音菩薩の大慈悲は…

 

ちょうど昨年の八月のことでした。棚行でお盆のお経さまをつとめ終わりますと、

「親父が大切にしていた石柱なのですが、お寺さまでお納めいただけますか。」

と樽水郵便局長されていた竹内恭平さんの遺族の竹内敏博さんから言葉をかけられ、お庭を拝見いたしますと一本の石柱があり、正面に『これより東へ二丁也』とありました。
 

九月になりまして知多四国開創二〇〇年を記念して厳修されていただいた『聖観世音菩薩特別御開帳』の折りに、せっかくのご縁だからと知多西国の納経帳を工面いただいている師崎の神護寺さまに十冊ばかり納経帳をお分けいただきたい旨を伝えますと、

「洞雲寺さまに十冊お分けすると在庫が三十冊ばかりになるなぁ…。今のところ増刷は考えていないから納経帳がなくなるのは惜しいことだなぁ…。」

と寂しい言葉が返ってきました。


今年の二月に昨年開創二〇〇年を迎えた知多四国の二〇〇年史を制作しようという声が上がり、不肖ながらも編集委員の一員として携わることになりました。

知多四国の歴史を調べていくと、知多四国を開創された古見の妙楽寺さまの亮山阿闍梨はよく知多半島を順番に東海岸から西海岸をめぐる寺院に承諾がいただけたことと、

他宗派の協力が得られたものだと感心をする中で開創当時の文政八年(1825)道中記などには随処に三十三所の文字があり、もしや基盤となっていたものがあったのではないかとの見解も出てきました。

知多西国三十三所霊場は明和七年(1770)に岩屋寺の智善上人によって開創されておりますから、知多四国開創の文化六年(1809)より三十九年歴史を遡ることになります。

それでは私が知多西国三十三所の観音霊場を…と調査することになり、各寺院を踏査しましたら「當郡西国」「郡中西国」「當郡三十三観音」の石柱や知多西国の札所番号、御詠歌を記した奉納額が多数見つかりました。

驚いたのは札所のご寺院の住職でさえ、御存知でなかった石柱や奉納額が現存していたことに観音菩薩のお導きと感じました。

気になりましたのは昨年の八月に声をかけていただいた竹内さんの石柱です。知多西国の踏査をしながら、今年の二月も終わりにさしかかった頃に

「昨年のお盆にお寺さんに納めたいと申された、石柱を拝見させていただけますか」

とご連絡をとり、快くご返事をいただき拝見に出かけました。

お庭に入り、コンクリート塀や庭木で死角になっていた部分から石柱を拝見いたしますと『當郡 西国十三番 新四国六十二番 樽水村 洞雲寺』と彫られており、

もう片面には『文政十年十月建立 寄進者』と刻まれていたのです。文政十年(1827)は今から182年前になります 。

おそらく、道路拡張工事か歩道橋建立の際に石柱が要らなくなり撤去される処を、竹内恭平さんが「参拝をされる方々が目印としてきた道標を粗末にはできない…。」と自宅の庭に移転していただけたのでしょう。

竹内恭平さんが声をかけてくれなかったら粉砕処分をされて、この石柱を目にすることができなかったと思うと不思議なご縁を感じずにはおれないのです。早速、三月に観音堂前に移転をいただき、皆様方から手を合わせていただいております。

石柱を移転いただく頃、何度か足を運んだ師崎の神護寺さまに昭和初期の納経帳のコピーをいただきました。

初めて目にする納経帳に、これを復刻できないものかと大善院さま、大智院さまにお声掛けをしますと知多四国二〇〇年史と併行して快く舵取りの智慧をお貸しいただきました。

知多西国三十三所と知多四国八十八ヶ所を比較しますと宗派構成が一致していること、知多半島を網羅していること、現在まで途切れることなく参拝があることなど、

これは知多西国の札所を基礎に亮山阿闍梨は知多四国を開創されたと申し上げても過言ではないのです。

三十三所中の二十九寺院は知多四国、残りの四寺院は昭和五年(1930)開創の南知多三十三観音ですから、四月に懇話会を開催し、昭和初期の復刻版納経帳の製作の趣旨をお話しいたしますと快く協力いただけることになりました。

ここまで条件が調いますとご縁のもととなった竹内恭平さんのご供養を考えずにはおれません。過去帳を開いて驚きました。本年は竹内恭平さんの十七回忌の法要だったのです。

恩という字は因という字に心と書きます。もととなったご先祖さまやお世話になった方に心を傾けていくことが何よりの恩返しです。観音菩薩さまのお慈悲と竹内さんの願いに答える生き方を心掛けたいものです。

 

 

 

平成20年12月

『 お念仏 』を歓ぶ

 

「最近の日本人はおかげさまを忘れとるな…」

和歌山県で開催された布教師総会に参加して先輩との会話の中で交わされた言葉です。私はとっさに

「そうですよね…。あらゆるものに支えてもらってることを忘れていますよね。」

と返しますと

「そうじゃないよ、支えてもらっているということを感じる自体が上下をつくっていないか、おかげさまはハーモニーだよ。それぞれが奏でる音が美しく響くようにひとりひとりが自分の成すべきことをただ精一杯したら良いだけなんだ。」

とお伝えいただいたのです。人間の眼差しで見たら相手と比べることでしか価値を見つけることができませんが、仏さまの眼差しで見たら私が私の役割を果たすことが大切な価値かもしれません。

本年は知多四国霊場開創二百年という節目に当たり3月8日には半田の常楽寺様で「慶讃大法要」8月27日〜8月31日まで中部国際空港セントレアで「お砂踏み」

10月5日には半田福祉文化会館で「響けこころの曼陀羅」11月14日には野間大坊様で「結縁灌頂」11月23日には知多市の大智院様で「結願法要」が行われました。

中でも一年を通して特別に記念宝印が授与されるということで御参詣いただいた方が多数お越しになりました。

実は昨年、この知多四国を開創された亮山阿闍梨、岡戸半蔵、武田安兵衛両行者のご苦労を身にするため、各札所にこの記念宝印を譲渡しようと札所有志で徒歩巡礼を行いました。

毎日、次の札所にたどり着くたびに包まれる歓びと同行二人の思いで歩く仲間との間でふと感じることがありました。

乗用車で巡った時はさほど感じなかった歓びが歩いて巡るここにはあることを…。また両足が大地の土を踏みしめて歩けていることを…。

この大地を踏みしめる両足は誰からいただいたものなのか…。この徒歩巡拝を歩けるように丈夫に生んでくれたのは誰なのか…。

そこには父母のおかげしかないのですね。両親が出逢って私という存在をこの現世に迎えてくれたから、いま、ここに私が存在しているのです。

法然上人は「お念仏を歓ぶ」と申されました。私が願う前に私を願っていただいていた存在があった。私が念ずる前に阿弥陀さまやご先祖さまに私が念じられていた。本当に勿体ないことです。南無阿弥陀仏… 南無阿弥陀仏…

 

 

平成20年8月

観音菩薩の大慈悲は…


お経を手に取り、三尊礼をお読み上げしますと観音菩薩さまを礼拝するご縁のお経さまで次のように説かれております。

「観音菩薩の大慈悲はすでに菩提を得たまえども捨てて証せず」

観音菩薩さまの大いなる慈悲のはたらきかけは、仏さまのさとりを得ながらも、その楽しみを味わうことなく、私たちと同じ苦しみをあえて経験して仏道に目覚めさせようとはたらきかけをなさってくださるお方ですよと…。

慈悲の「慈」は安らぎを与えることです。慈しみは愛しくて愛しくて降りかかってくるものがあろうとも、護ってあげたいと知らないうちに身体が動いている。親は子供に憎まれ口を叩かれようが、不安に怯える時には身体を張ってかばってくれるのが慈しみです。

慈悲の「悲」は苦しみを抜くために共に嘆いてくださるはたらきです。悲しみは同じように見えても同じではないという心ですから、「非ず」に心と書くのです。

人間という世界でひとりひとり同じように生きているけれど、傷みや辛さや苦しみは立場によって違います。よく、「その人の身になって考えなさい…」とは言いながら、その人と代わってあげる事は決してできないのです。

そのことに気づきますと哀れで不憫で何もできない自分の無力さに、人間の弱さに「ポロポロ」と涙があふれてくるのです。

観音菩薩さまはそんな私たちと同じ苦しみの世界においでになり、道に外れそうな私たちを導いてくださっているのです。

本年は開創二百年のご縁で多くの方が参拝され朱印をいただかれます。中でも本年のみ記念宝印が授与されるということも足を運ばせている要因となっております。

納経所に座って朱印をしておりますと色々な方がやってきます。「早く捺せ!」と言わんばかりに納経帳を差し出す方に少々頭にきていた時に若いカップルがやって来ました。朱印の判を捺しますと

「ごめんなさい!」

と頭を下げられます。どうしたのかと思い、

「どうかされましたか?」

と尋ねますと、

「この朱印は、本当は納経と言ってお経を納めた証にいただく印なんですよね…。そんなことも知らずにスタンプラリーのつもりで霊場めぐりを続けてましたら、

年配の方からせっかくお参りをしているのに勿体ないって言われたのです。お尋ねしますと本来のお参りの仕方を教わりました。

しかし、般若心経を読むことは到底できそうにありません。気持ちを新たにしてお経が読めないのなら、

せめて次のお寺まで歩いて行こうとこうして歩いているのですが、やはり、お経を読むべきですよね。本当にごめんなさい…。」

と頭を深々と下げられました。

「大丈夫ですよ!人に出逢って教えていただけることは素晴らしいことですよね。できないのならできないままで巡ればいいじゃないですか…。

自分たちのペースで巡ればできないことができることに変わるかもしれませんよ。これからも素敵な出逢いを…。」

口にしながら、先程の怒りがこの若いカップルのおかげで薄れて行くのがわかりました。そして、このカップルを生み育んだご両親にもお逢いしたくなりました。

「あの年配の方がいなかったら今の私たちはありませんでしたね。教えていただいて本当に良かった…。」

と微笑まれて次の札所へと二人は歩いて行かれました。

観音菩薩は三十三にお姿を変えられると申しますがこのカップルが出逢った年配の方は、もしかしたら観音菩薩さまだったのかもしれません。そしてこのカップルも私の怒りを癒すための観音菩薩さまだったのかもしれません。

実はこの観音菩薩さまを私たちのもとに遣わせたのが大慈大悲の阿弥陀如来さまなのです。そう気づきますと「南無観世音菩薩」がいつの間にか「南無阿弥陀仏」に変っていました。

 

 

平成19年12月

『千の風になって』の心得

 

ちょうど、一年前の第57回NHK紅白歌合戦でテノール歌手の秋川雅史さんが歌われ、多くの人の感動、感銘を受けながら、この一年間、色々な場面や場所でこの「千の風になって」は歌われてきました。

歌詞をみますと「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません、死んでなんかいません…」と続く素晴らしい歌詞です。

私は「仏さま、ご先祖さまというお方はまさにその通りです。お墓だけに留まっておられませんよ…」と語っておりました。すると、

「お墓にいないのなら、お墓参りは必要ないのですか?」

と疑問をもたれる方に出会いました。最初はとても悲しく感じましたが、どこか心得違いをしているのではと思ったのです。

この歌詞はアメリカ合衆国発祥とされる詩、通称『Do not stand at my grave and weep』(直訳:私のお墓で佇み泣かないで)に、小説家の新井満さんが日本語での訳詩を付け、自ら作曲をしたことにより生まれた楽曲です。

大切な人を亡くしてしまい、どうして死んでしまったんだと嘆き悲しみ、お墓の前で佇み、生きる希望も失くした人に、「どうか立ち止まらずに、命が尽きた方の分まで生きてあげてください…」という心の支えになる詩なのです。

「ひとり」だと感じても「ひとりにはさせない」仏さまのような存在で、ある時は太陽の光になり、ある時は雪となり、ある時は鳥になり、ある時は星になる。大空のかける風になっていつもあなたのそばにいます…という詩なのです。 

新井満さんの著書の中に「千の風になって」はいかにして生れたかという一文がありましたので引用させていただきます。

私のふるさとは新潟市です。この町で弁護士をしている川上耕君は、私のおさななじみです。彼の家には奥さんの桂子さんと三人の子供たちがいて、とても明るく幸せな家族生活を営んでいました。

ところがある日、桂子さんはガンにかかり、あっというまになくなってしまいました。

後に残された川上君と子供たち三人のおどろきと悲しみは尋常ではありません。絶望のどん底に蹴落とされたのも同然です。なぐさめの言葉を言う以外、私にできることはありませんでした。しかし、そんなものが何の役に立つはずもありません。

桂子さんは、地域に足をつけた地道な社会貢献活動を行う人でもありました。

たくさんの仲間たち が協力して追悼文集を出すことになりました。

「千の風になって-川上桂子さんに寄せて-」という文集です。

文集の中で、ある人が「千の風」の翻訳詩を紹介していました。私は一読して心底から感動しました。

<よし、これを歌にしてみよう。そうすれば、川上君や子供たちや、あとに残された多くの仲間たちの心をほんの少しくらいはいやすことができるのではなかろうか……>そう思ったのです。

何ヶ月もかけて原詩となる英語詩をさがし出しました。それを翻訳して私流の日本語訳詩を作りました。

それに曲をつけて歌唱したのが、この度の「千の風になって」という歌です。

私家版のCDを数枚だけプレスし、そのうちの一枚を川上君のところに送りました。

CDは桂子さんを偲ぶ会で披露されました。集まった人々は一様に涙を禁じ得なかったそうです。そして泣きながらこの歌を歌ってくれたのだそうです。

いつも、そばにいてくださる仏さまやご先祖さまに感謝を伝えられる場所はお寺であり、お仏壇であり、お墓です。『手が合わさる場所』を失くさないようにしたいものです。

どうぞ、ぬくもりのある人生をお送りください。

 

 

平成19年8月

『仲良し』ということ

〜命は誰のものですか 私のものでなく ご先祖さまから授かった命〜

 

暑い毎日が続いています。お盆を迎える頃になりますと、ふと、母親の言葉を想い出します…。

「いつも仲良くしていてね。仲良くだよ…。仲良くね。」

仲良しとは文字通り人の中にあって良かった。人として生れてこの人と巡り逢えて良かったということなのでしょう。

母親は私を慈しみ、時に父親の存在をおぼろげながらにしか感じとれない私を励まし、女手ひとつで育てていただきました。余計な言葉は語らず、笑顔を絶やさず、ただ私のために陰になり日なたになり育てていただいたのです。

私は愚かです。生前はその優しさも気づかず、その尊さもわからず、ただ支えていただいた母親を『他の方の言いなりになる人だ』と思っていたのです。

言いなりになっていたのではなく、『相手の言いたいことを言わせてあげる』懐の広さを少しづつ味わえるようになってきました。

私も両親をはじめとするご先祖さまのおかげで子供を授かり、何とか自分の殻を破ろうとする子供に対して親は何をしてあげられるのかをいつも考えます。その時にたどり着く答えは『じっと黙って見つめているだけ』なのです。

阿弥陀さまをはじめとする仏さまも同じです。仏さまは何も語りません…。語りませんがじっと黙って見つめてくれているのです。そんな時、私は自分の至らなさに気づき、親のような仏さまに頭が下がります。

「せっかく命を授けていただいたのに申し訳ありません…。ごめんなさい…。」

そしていつも見守っていただいているご縁に

「いつも有難うございます。せっかくいただいた命を無駄には使いません。」

お盆は仏さまやご先祖さまに感謝し、自分ばかりでなく相手に対してお皿に分けたりお皿から分ける心を教え、本当の人間のあり方を勧める尊い期間なのでしょう。

 

 

平成18年12月

阿弥陀 そむる にいては (こずえ) ひならまし 然上人勅修御伝』三十巻


今年は大きな台風が来なかったからでしょうか境内木々もそれぞれにをつけ、見事紅葉拝見できるごをいただきました。

例年ですと台風影響潮風潮水木々を枯らしくちゃのもみじを見ては、京都香嵐渓のような山奥のもみじにはわないといていたくらいです。

しかし、今年きました…。京都香嵐渓に負けないくらいの紅葉境内を染めたのです。色鮮やかにから黄色黄色からを変えて行き、見惚れるほどの素晴らしい風景でした。そのに「はっ!」とさせられました。

「そこにはじめからあるが悪いのではなくて、環境調わなかっただけのこと…。」

相応しい条件されそろえば素敵をつけるのです。私達も同じではないでしょうか。

められて、められて、しくされて、を流し、笑顔でいてくれる条件、ひとりぼっちではなかったという条件調えば、自殺犯罪も少なくなるがします。

境内のもみじからこんなにそばにあった『環境』の大切さを学びました。

然上人は「阿弥陀佛に そむるの ば の たぐひならまし」とお歌いになられました。

人生荒波にもまれ、挫折を味わい、知らず知らずのうちに人間としてのを外れ、とも思わずに重ね、懺悔すらもできない凡夫私達

こんな自分が他ならぬ自然のはたらきやの支えやぬくもりの中で生かされてきたのは阿弥陀さまやご先祖さまのおかげでしたと気づかせていただいた心持ちを、

ちょうど、を迎えた山々木々から黄色黄色からめられていくとひとつにしてかれた和歌なのです。

ひとりひとりの自覚め、る)が自分りのめていくのです。人生のお手本となるになりたいものですね。

 

 

平成18年8月

会一処(くえいっしょ)』ということ 

  

『阿弥陀経』というお経さまには西方極楽浄土の様子が詳しく説かれています。

極楽には阿弥陀如来がおられ今も説法されている。極楽には苦しみはなくただ楽(本当に良かったと心から感じられる境地)のみがある。

蓮はそれぞれの色で咲き誇り、どの蓮も光で満ち足りておられる…など言葉では語り尽くせない世界と説かれます。

その中でも『倶会一処』という言葉に心が傾きます。

「倶(とも)にひとつの処(ところ)で会う…」先にお浄土に帰られた優しかったご両親、親しかった友人、ご縁がつなげなかった方々とひとつのところで、また会いまみえることができると説かれています。

こんなに有難い言葉はありませんね。

しかし、ある方が

「こんな恐ろしい言葉はありませんね…。」

と口にされたのです。

最初は何を考えているのかわかりませんでした。しかし、

「この言葉が本当ならあんなに憎んでいた人とまた会わなければいけない!」

と申されて「はっ!」とさせられました。殺人を犯した人なら、お浄土で待っているのは自分が殺した相手です。人を罵り、馬鹿にした人なら、お浄土で待っているのは傷つけられた相手です。

命が尽きて迎えられるところは極楽なのですが、この世の生き方で地獄に思えるものかもしれません。どうぞ、先にお浄土に帰られた方を悲しませない毎日をお送りください。

 

 

 

 

平成17年12月号

(ほとけ)にも まさる(こころ)と ()らずして

鬼婆(おにばば)などと (ひと)はいうなり

 

今年もわずかですね…。人間味のある「あたたかい」お話を…。

有名な明治の女流歌人に税所(さいしょ)敦子(あつこ)という方がおられました。

文政八年(1825年)京都に生まれた敦子は二十歳で京都の薩摩藩邸に勤める税所篤之(さいしょあつゆき)に嫁ぎ、激しい性格の夫にもよく(つか)えました。近所の人から、

「あんなに無理をいわれて、よく辛抱(しんぼう)しておられますね…。」

()われますと、

「武士の妻として、何かと足りないところの多い私を人並みにしてやろうとの夫の慈悲(じひ)の心から、言葉も荒くなり、打ちたたきもされるのでありましょう。夫の(いきどお)りの強いのは、私を愛することが深いからであると思って、少しも(うら)んでおりません。」

と答えました。ついには篤之も心から敦子を敬愛(けいあい)するようになりましたが、敦子が二十八歳の時に、敦子と娘一人を残して(やまい)で亡くなってしまいました。

未亡人(みぼうじん)となった敦子は篤之と前妻との間にできた二人の娘を育てるのが、自分のつとめであると思い、一子(いっし)を連れて薩摩(鹿児島)に帰りました。当時の薩摩は“よそ者”を嫌う気風が強く、姑は近隣の人から「鬼婆(おにばば)」といわれる程の方でした。

薩摩に帰り、姑や篤之の弟夫婦など家族十人の大世帯(おおせたい)の中に入った敦子の苦労は大変でした。とくに姑は敦子を嫌って邪魔者(じゃまもの)(あつか)いし、つらく当たりましたが敦子は少しも(うら)みに(おも)わず、

「まだ自分のお世話が行き届かないから…。自分に()りないところがあるから…。」

と思い、日夜姑に孝養(こうよう)をつくし、また二人の義理の娘を(いつく)しみ、その教育に心を(そそ)ぎました。また、姑は毎晩、夜半(やはん)に手洗いに行きましたが、敦子は一夜(ひとよ)も欠かさずローソクを持って案内(あんない)しました。

()の打ち所のない敦子を、何とかしていじめてやろうと思っていた姑は、ある日、外出する時に近隣(きんりん)の者から、

鬼婆(おにばば)のおでかけだ!」

という声を耳にします。どうしても腹の虫が(おさ)まらず、腹を立てながら敦子を呼んで、

「敦子や…お前は歌をやるそうだが、わしが(しも)()をつけるからお前は(かみ)()をつけよ。下の句はな、『鬼婆(おにばば)などと 人はいうなり』と言うのじゃが…。」

敦子はしばらく考えておりましたが、やがて(かお)をあげると、

「お(かあ)さま『仏にも まさる心と 知らずして』というのはいかがでございましょうか。」

と差し出したのです。その(かみ)()を聞いた姑はびっくりしました。せっかく敦子をへこましてやろうと、わざわざ自分の悪口を()(やす)いような(しも)()を作ったのに、

(ほとけ)にも まさる(こころ)と ()らずして 鬼婆(おにばば)などと (ひと)はいうなり

となれば、文句をつけることは全然できぬではないか…。それどころか仏様にもまさる心と(あが)められますと、姑は今まで行為を心から恥じて、ぼろぼろと涙を流し心から敦子に許しを()うたそうです。

日を重ねるうちに、敦子はついに姑の仏心(ほとけごころ)を引き出し、姑は敦子を(あい)するようになりました。

感心な敦子のうわさは、やがて藩主・島津(しまづ)(なり)(あきら)の知るところとなり、敦子は斉彬の六男・(てつ)(まる)のお守役(もりやく)に採用されました。

翌年、斉彬が死去し、哲丸もその翌年に亡くなった時、敦子は悲しみのあまり自害(じがい)しようとしました。しかし、姑が、

「このばばあが、(つえ)とも(はしら)とも(たの)むあなたに、今いなくなられては、これから先、何を(たの)しみに生きればよいのか…。」

と涙を流して取りすがったので、親孝行(おやこうこう)な敦子は自害を思い止まりました。その時、次の歌を()みました。

おやといふ しがらみなくば (なみだ)(かわ) ありてうき()を なげましものを

その後、島津(しまづ)久光(ひさみつ)の娘が京都の近衛家(このえけ)に嫁入りすることになり、敦子は老女としてつき()っていきました。

さらに、近衛家が東京へ移転(いてん)したので、敦子もそれに従いました。

そのうち、明治天皇のお耳にも達し、皇后(こうごう)皇太后(こうたいごう)陛下(へいか)にお仕えするようになり、明治三十三年に七十六歳で、多くの人に(した)われ愛された生涯(しょうがい)を終わりました。敦子は

「このように出世ができて幸せになれたのも、厳しいお(かあ)さんのおかげでありました。」

と、常に感謝(かんしゃ)されたそうです。人の心は(ほとけ)にも(おに)にもなります。どうぞ「ふれあい」のご縁を大切(たいせつ)に…。

 

 

 

平成17年8月号

総本山光明寺で「弘陽」得度式

 

この度、子弟の弘陽(こうよう)が得度式(とくどしき)を受け、僧侶の仲間入りをいたしましたのでここに謹んでご報告申し上げます。

平成17年7月28日(金)午後1時30分より総本光明寺の御影堂にて憲空文有御法主を導師に得度式が厳修されました。

得度式とは仏門に入り、法名を授けられることを言います。法名とは僧侶としての名前のことです。

仏門に入るということは、俗世を捨て、仏の弟子になるということで、つまりそれが出家(=家を出る)ということです。「度」には渡るという意味がありますので僧侶の道へ渡ることを得る式なのです。

当日は6名の方々ととも御法主より古式の儀式に遵って行儀作法を取得し僧侶としての第一歩をいただきました。

最初に導師に篤く礼拝をし、白衣のまま得度の意義と四恩(父母の恩、衆生の恩、国土の恩、三宝の恩)の尊さを学び、知らず知らずのうちに積もった罪、咎を深く懺悔(さんげ)をして、剃度(おかみそり)をいただきます。

その後、黒衣とねずみ袈裟を授かり、僧侶としての戒律を伝授され、「弘陽」と法名を授かりました。

僧侶として一人前に活動することはまだ先となりますが、少しずつ皆様の前で精進してまいりますので、温かい眼差しでご指導ご鞭撻いただきますようお願いします。

 

 

 

平成16年12月号

地震・雷・火事・(やま)()

 

今年を振り返ってみますと大きな災害が多くありました。

死者行方不明者が90人を超えた「台風23号」をはじめとする幾多の台風、福井や新潟地域などで被害の大きかった「集中豪雨」、思わぬ災害となった「新潟県中越地震」、「紀伊半島群発地震」、

9月に活動が活発化した「浅間山噴火」、雷も落ちました。災害のもたらした被害は量り知れない大きな痛みです。

科学万能な時代になってもライフライン(電気、水道、ガスなど)に頼らなければこんなに脆いものだと気づかされたのです。

今年は「五黄土星」の年といって過去にも大きな災害が多々ありました。

大正7年 (1914)桜島大噴火、秋田仙北大地震M 7.1、第一次世界大戦

大正12年(1923)関東大震災M 7.9死者不明14万2807人、

昭和 7年(1932)浅間山噴火

昭和16年(1941)長野県北部地震M 6.1 真珠湾攻撃(太平洋戦争始まる)

昭和25年(1950)朝鮮戦争開始

昭和34年(1959)伊勢湾台風死者不明5098人

昭和43年(1968)十勝沖地震M 7.9北日本に津波死者52人

昭和52年(1977)有珠山の噴火

昭和61年(1986)ソ連チェルノブイリ原発原子炉爆発

平成 7年(1995)阪神淡路大震災死者不明6308人でM 7.2

昔から「地震・雷・火事・親父」と言いました。しかし本当は「地震・雷・火事・山嵐」で山嵐とは台風のことだそうです。

これは災害となる「怖いもの」を表現しているとばかり思っていましたが、実は、避けては通れない、そのものを通して忘れてはならないものを教え、気づかせてもらえるものだったのです。

いくら科学が進歩をしても忘れてはいけないものがあったのです。神仏のご加護をいただき、大自然の恵みをいただき、森羅万象のはたらきかけの中で過ごして来た私達です。

あなたのおかげで…。あなたがいてくれたから…。あなたが支えてくれたから…。何とかやってくることが出来た自分があったのです。

そんな人情から「山嵐」が「親父」となったのかも知れませんね…。

 

 

 

 

平成16年8月号

本堂屋根葺替普請落慶法要
 

平成16年10月31日(日)午後3時より本堂屋根葺替普請の完工披露となります落慶法要を厳修いたします。

万延元年(1860)の本堂再建以来、実に144年ぶりとなる本堂屋根の葺替普請も天候に恵まれ予定よりも1ヵ月早く普請を終えることができました。

普請の期間中に年忌法要をご希望いただいた方には思うように本堂がお使いいただけずご迷惑をおかけしました。本堂の瓦をめくる際には泥土の中より当時の御塔婆が数百枚確認されました。

144年前の本堂再建の折にもご先祖様の護持された寺院を檀信徒のおひとりおひとりが受け継ぐ願いを持たれ、瓦の下に御塔婆を敷き詰めていただくご縁を大切にして本堂を目にしてはご先祖様と仰がれたことでしょう。

再建の落慶法要では歓喜のお念仏が絶えなかったそうです。

今回はそのご子息の方々に御浄財を賜り葺替の大事業をさせていただけた仏縁は、まさに時代を越え、ご先祖様の願いに生かされながら生きている私たちの人生の糧として刻まれて行くことでしょう。

新しく葺替られました瓦からは見違える程の輝きがあふれています。この度は経済事情の思わしくない中、心よりの御浄財を賜り誠に有難うございました。深く感謝し御礼申し上げます。

 

 

 

 

 

平成15年12月号

情けは人の為ならず
 

こんなに尊い「ことわざ」が受け取り違いをされているようです。

この「ことわざ」は言うまでもなく「情を人にかけさせていただくことは、それがめぐりめぐって、いつか自分のもとにめぐって来る」ということです。

しかし、最近はこの「ことわざ」の意味を逆に解釈し「他人に情けをかけるとその人を甘やかすことになるのでよくない」という意味にとっている方が多いのです。

どちらが、血の通ったあたたかい人間の解釈に思いますか?

損得でとらえれば迷いますが、本来の人間の姿で見れば一目瞭然です。

自分のことしか考えない冷たい人が増えたといわれる今日、あたたかい人間の心を味わえる尊い「ことわざ」なのです。

中には見返りを期待しているわけではないけれども、相手が喜ばなかったことに気分を悪くして「情けが仇になって返ってくる」と淋しい考え方をしては悲しくなります。

お腹がいっぱいの時に「ご馳走をしてあげる」と気を使っていただいても迷惑に感じるものですし、ものが足りている時に余計なものを増やすのはかえって邪魔になります。

使い方やタイミングを間違えては「ありがたい」と思えないこともあるのです。

しかし、長い人生を歩んで行くうちに「あの時に人間らしい心で情けをかけておけば…」と思える日が必ず来るのでしょう。

何事も種を蒔いてから華を咲かせ実を結ぶまで時間がかかるものです。その日に善い事をしたからといってすぐに結果があらわれて来るものばかりではありません。

「わらしべ長者」がその日のうちに長者になれたかというと、長い年月をかけているのを忘れてはならないのです。

時にはまわり道をし、時にはいらない物と交換し、時には裏切られても、相手が必要とし喜ぶものを自分の損得にとらわれずに差し出したご縁で報われた、まさに「情けは人の為ならず」なのです。

喜べば 喜びごとが 喜んで 喜び集めて 喜びに来る。

「情けは人の為にならず」ではなく「情けは人の為だけにならず」なのです。

 

 

平成12年12月号

三界の中の苦楽は、苦、楽、共に苦に摂し、

浄土の中の苦楽は、苦、楽、共に楽に收むる


 

一年の計は元旦にありと申しますが、師走ともなれば、あれもこれもと右往左往するうちにやり遂げられなかったことの多さと、慌しさに本来の自分を見失いそうです。
折角、人間として命をいただき、この世で生活をさせていただいているのに愚痴不満の毎日です。受け取り方を変えれば、思い込むことも思いつめることもなかったはずなのに。
西山上人は、
三界の苦楽は、苦、楽、共に苦に摂し、浄土の中の苦楽は、苦、楽、共に楽に收むる。
とさとされています。
苦しみのみの地獄の生き方を選ぶのも、有難い極楽の生き方を選ぶのもあなた次第なのです。
あたりまえの中でなくしてきたものは何でしょうか?
着る服がある尊さに手が合わさります。
食事がいただける尊さに手が合わさります。
住む家がある尊さに手が合わさります。
汗水たらして働いてくださったお父さんお母さんに手が合わさります。
自分の時間を差し置いて、遊んでくださったおじいさんおばあさんに手が合わさります。
ご先祖さまから授かった命だから自然に手が合わさります。
原因となるもとに心をかけていけば恩という字になります。
苦しい、辛いと思っていた私が、そのおかげでという心をいただいた時にこの恩は見えてきます。
二十世紀に感謝をお送りましょう。
二十一世紀に夢を数えましょう。
まもなく、除夜の鐘が聞こえてきます。良いお年を。

 

平成12年10月号

阿弥陀佛に 染むる心の 色に出ば 秋の梢の 類ならまし


秋も深まりますと、木々が色づきます。総本山光明寺では十一月二十六日に流祖西山上人の御法事、西山忌が厳修されます。この日は御詠歌の奉納などがあり、全国より大勢の参拝者があります。
「もみじの光明寺」として洛西随一とうたわれる時期に忘れてはならない催しがあります。
平成八年の西山上人七百五十回御遠忌をご縁に西山忌の御逮夜法要として前日の二十五日に毎年行われるようになった「もみじと聲明の夕べ」です。
この催しは、竹の中に水をはり浮きロウソクを灯すという竹灯を、御本山の参道を中心に御堂の近くまで置きます。日没を迎える頃には竹の中より光が放たれ、まるで、かぐや姫でも出現しそうな光景に見舞われます。
人工照明によるライトアップとは異なる見事な情景です。ロウソクの揺らめきが見る方によっては不可思議な世界にも感じ、優しく柔らかな光は光明寺の紅葉に映え、幽玄な情景を映し出します。
この催しは、全く財源のないところから出発し、全国の檀信徒、一般参詣の皆様のあたたかい献灯料、志納金により運営させていただいております。
この多くの方々の「志」が竹灯の光となり、闇夜を照らすことは、観光化された他の寺院のライトアップとは別の価値あるものと感じております。
今年はご縁あって、西山浄土宗全国青年僧の会の会長を務めさせていただいております。私のようなものが、その器ではないにもかかわらず、阿弥陀さまからのご縁と受けとめております。
この「もみじと聲明の夕べ」は闇夜の中での光にふれる、阿弥陀さまにふれる尊いものです。このご縁に献灯供養とし、先祖供養、祈願を受けております。
多数寄せられる皆様の願いは、闇夜を照らし、紅葉をより一層引き立てる光となって、阿弥陀さまとひとつになるようです。
法然上人は紅葉を拝しながら、
阿弥陀佛に 染まる心の 色に出ば 秋の梢の 類ならまし
とうたわれました。
私たちは阿弥陀さまの慈悲の光の中で、阿弥陀さまの尊さに気づこうが、気づくまいが何気なく生活をしていますが、
人生の荒波に揉まれ、浮き沈みの人生を味わいますと、阿弥陀さまにいつも支えられ、護られ、拝まれ、願われていた私だったと、ちょうど木々が緑の葉を黄色や赤に色を染めるように、自然の流れに委ねられている自分に気づく時がきます。
参道に灯るこの竹灯を眺めていると、ちっぽけな私たちが少しづつ、自然の大きなはたらきにふれて、自分からではなく、気がつけば心を染めていた私がいたことに手が合わさります。
また、あのほのかな光に包まれたいと感じました。


平成12年8月号

お 盆


お盆に帰って来られるご先祖さまはどういう方でしょうか?
先に死んで亡くなっている方ですか?
今、命をいただいて生きている私たちは、どうして存在しているのでしょうか?
ご先祖さまは先に亡くなった方ということで供養するのではありません。亡くなる前にいただいたご恩を尊び、何かせずにはおれない気持ちになるからです。
今はもうこの世には存在しないかもしれないけれども、ご先祖さまに心が傾くのは、その方がいなければ、この世に生まれることも、育てていただくご縁も、今の自分の存在もなかったということなのです。
ご先祖さまをお参りすることは、自分をお参りすることです。お参りすることは頭を下げること。頭を下げることは感謝することです。
この世に人間として生ませさせていただいた自分に感謝し、色々なものに生かされている自分に感謝できなければもったいないことです。
お盆に帰って来られるご先祖さまに「命をいただいてありがとう。短い間ですけど、精一杯のおもてなしをさせていただきます。」
と家族そろってあたたかい気持ちを育てるのがお盆の尊さです。

 

平成12年3月号

仏性は有りと雖も 善知識に逢わざれば 悟らず 知らず 顕れず

「私たちは仏さまからいただいた仏の種は持っておりますが、気づかせていただけるご縁には、なかなか出会うことはありません。」
三月一日に名古屋港湾会館で行われました、東海三県の青年僧で構成される東部青年会主催の「念仏と講演の会」の中で演じました寸劇「慈悲の弥陀次郎」の最後のナレーションの言葉です。
ナレーションをさせていただきながら、この言葉を味わった時、
仏性は有りと雖も 善知識に逢わざれば 悟らず 知らず 顕れず
の真に出逢わせていただけた思いがしました。
仏性というのは言うまでもなく、私たち一人一人が宿している仏さまからいただいた仏の種。言い換えるならば、真の人間らしさです。
この仏性はあっても、善智識と呼ばれる尊い法を示してくださる方やものに出逢わなければ、悟ることも、知ることも、まして徳が顕れることもないとあるのです。
御本山、粟生の光明寺にお参りされますと御影堂に上がられる際、右手に見える信楽庭に日常の煩わしさを拭い去られると思いますが、左手には方丈がございます。
頬焼けのお釈迦さまがおまつりしてありますことから、釈迦堂と呼ばれております。この、頬に火傷の跡があるお釈迦さまの縁起が「慈悲の弥陀次郎」のお話です。
昔、京都は淀の里に「水次郎」という漁師の男が住んでおりました。この男、横着で何打間だといちゃもんをつけるあまり、村人より「悪次郎」と呼ばれておりました。
こんな男ですから施すことはしたことがありません。そこへ、見知らぬ托鉢僧がやってきます。最初は相手にしなかった水次郎ですが、毎日毎日やってくる托鉢僧に嫌気が差し、二度と来ないようにと、火箸を焼いて待つのです。
いつものように托鉢僧が訪れると、
「坊さん、今日は折角だからいいもんを恵んでやるぜ。このカネでも持ってきやがれ。」
とあろうことに托鉢僧の左の頬にその火箸をあてたのです。
それにもかかわらず托鉢僧はニッコリと微笑み一礼をすると去っていきました。気味が悪くなったのは水次郎の方です。
我にかえった水次郎は地面に落ちる血の後をたよりに托鉢僧を追います。ようやくお寺のそばまで辿り着くと托鉢僧を見失ってしまいました。
住職に事情を話し、中に入ると本尊であるお釈迦さまの左頬にはくっきりと火傷の跡が・・・。水次郎は取り返しのつかない事の重大性に愕然とし、住職は悟します。
「お前の生き方をお釈迦さまは見るに見かねて、何度もお前の前に現われたんだ。それなのに、お前は火箸をあてた。
しかし、それが気になりこのお寺に足を入れるご縁となった。それは、心のどこかに「すまないことをした」という気持ちがあったからだ。お釈迦さまはそれもお見通しだったんだろう。」
この善智識の言葉に出家し、このお釈迦さまにおつかえするとともに、今までの罪滅ぼしにと村人に尽くし、「慈悲の弥陀次郎」とまで呼ばれるようになったのです。
私たちは仏さまからいただいた仏の種は持っておりますが、水次郎のように気づかせていただけるご縁には、なかなか出会うことはありません。また出逢っていても気づかないで過ぎているのかもしれません。
しかし、常に阿弥陀さまの願いの中で生かしていただいている私と味わうことができるのであれば、この水次郎の縁起は、私たち自身のことかもしれませんね。

 


平成11年12月号

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ

法然上人の有名な御歌で、浄土宗の宗歌にもなっておりますこの歌は、阿弥陀さまのお慈悲のことを月にたとえてあらわしておられるのです。
月の光は太陽の光のように高い所、低い所を嫌わずに全てを照らします。同じように阿弥陀さまのお慈悲も全ての方を願い、包み込むはたらきで照らしておらえるのです。
しかし「ながむる人の心にぞ住む」と、気づかせていただいた方しかわからない世界というのはもったいないことですよ。とおさとしいただいています。ながむるご縁はあってもながめないで終わることは空しいことです。
私たちは常に自分の方からのはたらきかけを自分の力とか、能力とかで計りにかけます。
そこには、他のものにお世話になったご恩や感謝など忘れて、成功すれば自分の努力、失敗すれば相手のせいと自分中心にものを考えがちです。
しかし、よくよく考えてみれば、失敗をしたから味わうことができた幸せや、苦労を乗り越えたから手にできた幸せがいくつもあったと気づかせてもらうことも少なくありません。
月の光がこうこうと照らしてくださっていても、家の中にいて外に出ることもなく、翌日「昨日はいい月でしたね」と言われても「月が出てましたか?」と答える様は、
阿弥陀さまがせっかく願ってくださっているにもかかわらず、自分勝手という家の中から外に出ず、「誰にも世話にはなっていない。」という思い上がりの生き方をあらわしているようです。
自分勝手という家の外に出た時には、月に照らされているが如く、阿弥陀さまの慈悲に包まれる色々なおかげが見えてきます。
お世話にならぬと思ってもお世話になっている身
拝まないと思っても拝まれている身
思われていないと感じても思われている身
そう感じたら、なんて自分は思い上がった人間だったんだろうと自然に頭が下がり、手が合さります。
仏教詩人の坂村真民さんは「五臓六腑に感謝がたりん」と言われたそうですが、自分の身体と思っているこの身体も、
五臓(肺臓、心臓、脾蔵、肝臓、腎臓)と六腑(大腸、小腸、胆、胃、三焦、膀胱)のおかげがあってこそ持ちこたえられているんです。
これもよく考えてみれば、親からの授かりもの、仏さまからの授かりものです。
今年から来年にかけては、千年に一度しか巡って来ない大切なご縁の年です。
この時代を同じ時間を共有できる素晴らしさを感じて生活させていただきたいものです。
月の照らす夜にこの思いを浮かべて・・・。
南無阿弥陀佛・・・。

 


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