寺報「洞雲寺」

 

平成12年12月号

三界の中の苦楽は、苦、楽、共に苦に摂し、
浄土の中の苦楽は、苦、楽、共に楽に收むる

一年の計は元旦にありと申しますが、師走ともなれば、あれもこれもと右往左往するうちにやり遂げられなかったことの多さと、慌しさに本来の自分を見失いそうです。
折角、人間として命をいただき、この世で生活をさせていただいているのに愚痴不満の毎日です。受け取り方を変えれば、思い込むことも思いつめることもなかったはずなのに。
西山上人は、
三界の苦楽は、苦、楽、共に苦に摂し、浄土の中の苦楽は、苦、楽、共に楽に收むる。
とさとされています。
苦しみのみの地獄の生き方を選ぶのも、有難い極楽の生き方を選ぶのもあなた次第なのです。
あたりまえの中でなくしてきたものは何でしょうか?
着る服がある尊さに手が合わさります。
食事がいただける尊さに手が合わさります。
住む家がある尊さに手が合わさります。
汗水たらして働いてくださったお父さんお母さんに手が合わさります。
自分の時間を差し置いて、遊んでくださったおじいさんおばあさんに手が合わさります。
ご先祖さまから授かった命だから自然に手が合わさります。
原因となるもとに心をかけていけば恩という字になります。
苦しい、辛いと思っていた私が、そのおかげでという心をいただいた時にこの恩は見えてきます。
二十世紀に感謝をお送りましょう。
二十一世紀に夢を数えましょう。
まもなく、除夜の鐘が聞こえてきます。良いお年を。

 

平成12年10月号

阿弥陀佛に 染むる心の 色に出ば 秋の梢の 類ならまし


秋も深まりますと、木々が色づきます。総本山光明寺では十一月二十六日に流祖西山上人の御法事、西山忌が厳修されます。この日は御詠歌の奉納などがあり、全国より大勢の参拝者があります。
「もみじの光明寺」として洛西随一とうたわれる時期に忘れてはならない催しがあります。平成八年の西山上人七百五十回御遠忌をご縁に西山忌の御逮夜法要として前日の二十五日に毎年行われるようになった「もみじと聲明の夕べ」です。
この催しは、竹の中に水をはり浮きロウソクを灯すという竹灯を、御本山の参道を中心に御堂の近くまで置きます。日没を迎える頃には竹の中より光が放たれ、まるで、かぐや姫でも出現しそうな光景に見舞われます。人工照明によるライトアップとは異なる見事な情景です。ロウソクの揺らめきが見る方によっては不可思議な世界にも感じ、優しく柔らかな光は光明寺の紅葉に映え、幽玄な情景を映し出します。
この催しは、全く財源のないところから出発し、全国の檀信徒、一般参詣の皆様のあたたかい献灯料、志納金により運営させていただいております。この多くの方々の「志」が竹灯の光となり、闇夜を照らすことは、観光化された他の寺院のライトアップとは別の価値あるものと感じております。
今年はご縁あって、西山浄土宗全国青年僧の会の会長を務めさせていただいております。私のようなものが、その器ではないにもかかわらず、阿弥陀さまからのご縁と受けとめております。この「もみじと聲明の夕べ」は闇夜の中での光にふれる、阿弥陀さまにふれる尊いものです。このご縁に献灯供養とし、先祖供養、祈願を受けております。多数寄せられる皆様の願いは、闇夜を照らし、紅葉をより一層引き立てる光となって、阿弥陀さまとひとつになるようです。
法然上人は紅葉を拝しながら、
阿弥陀佛に 染まる心の 色に出ば 秋の梢の 類ならまし
とうたわれました。
私たちは阿弥陀さまの慈悲の光の中で、阿弥陀さまの尊さに気づこうが、気づくまいが何気なく生活をしていますが、人生の荒波に揉まれ、浮き沈みの人生を味わいますと、阿弥陀さまにいつも支えられ、護られ、拝まれ、願われていた私だったと、ちょうど木々が緑の葉を黄色や赤に色を染めるように、自然の流れに委ねられている自分に気づく時がきます。
参道に灯るこの竹灯を眺めていると、ちっぽけな私たちが少しづつ、自然の大きなはたらきにふれて、自分からではなく、気がつけば心を染めていた私がいたことに手が合わさります。
また、あのほのかな光に包まれたいと感じました。


平成12年8月号

お 盆


お盆に帰って来られるご先祖さまはどういう方でしょうか?
先に死んで亡くなっている方ですか?
今、命をいただいて生きている私たちは、どうして存在しているのでしょうか?
ご先祖さまは先に亡くなった方ということで供養するのではありません。亡くなる前にいただいたご恩を尊び、何かせずにはおれない気持ちになるからです。
今はもうこの世には存在しないかもしれないけれども、ご先祖さまに心が傾くのは、その方がいなければ、この世に生まれることも、育てていただくご縁も、今の自分の存在もなかったということなのです。
ご先祖さまをお参りすることは、自分をお参りすることです。お参りすることは頭を下げること。頭を下げることは感謝することです。この世に人間として生ませさせていただいた自分に感謝し、色々なものに生かされている自分に感謝できなければもったいないことです。
お盆に帰って来られるご先祖さまに「命をいただいてありがとう。短い間ですけど、精一杯のおもてなしをさせていただきます。」と家族そろってあたたかい気持ちを育てるのがお盆の尊さです。
 

平成12年3月号

仏性は有りと雖も 善知識に逢わざれば 悟らず 知らず 顕れず

「私たちは仏さまからいただいた仏の種は持っておりますが、気づかせていただけるご縁には、なかなか出会うことはありません。」
 三月一日に名古屋港湾会館で行われました、東海三県の青年僧で構成される東部青年会主催の「念仏と講演の会」の中で演じました寸劇「慈悲の弥陀次郎」の最後のナレーションの言葉です。ナレーションをさせていただきながら、この言葉を味わった時、
 仏性は有りと雖も 善知識に逢わざれば 悟らず 知らず 顕れず
の真に出逢わせていただけた思いがしました。
仏性というのは言うまでもなく、私たち一人一人が宿している仏さまからいただいた仏の種。言い換えるならば、真の人間らしさです。この仏性はあっても、善智識と呼ばれる尊い法を示してくださる方やものに出逢わなければ、悟ることも、知ることも、まして徳が顕れることもないとあるのです。
御本山、粟生の光明寺にお参りされますと御影堂に上がられる際、右手に見える信楽庭に日常の煩わしさを拭い去られると思いますが、左手には方丈がございます。頬焼けのお釈迦さまがおまつりしてありますことから、釈迦堂と呼ばれております。この、頬に火傷の跡があるお釈迦さまの縁起が「慈悲の弥陀次郎」のお話です。
 昔、京都は淀の里に「水次郎」という漁師の男が住んでおりました。この男、横着で何打間だといちゃもんをつけるあまり、村人より「悪次郎」と呼ばれておりました。こんな男ですから施すことはしたことがありません。そこへ、見知らぬ托鉢僧がやってきます。最初は相手にしなかった水次郎ですが、毎日毎日やってくる托鉢僧に嫌気が差し、二度と来ないようにと、火箸を焼いて待つのです。いつものように托鉢僧が訪れると、
「坊さん、今日は折角だからいいもんを恵んでやるぜ。このカネでも持ってきやがれ。」
とあろうことに托鉢僧の左の頬にその火箸をあてたのです。それにもかかわらず托鉢僧はニッコリと微笑み一礼をすると去っていきました。気味が悪くなったのは水次郎の方です。我にかえった水次郎は地面に落ちる血の後をたよりに托鉢僧を追います。ようやくお寺のそばまで辿り着くと托鉢僧を見失ってしまいました。住職に事情を話し、中に入ると本尊であるお釈迦さまの左頬にはくっきりと火傷の跡が・・・。水次郎は取り返しのつかない事の重大性に愕然とし、住職は悟します。
「お前の生き方をお釈迦さまは見るに見かねて、何度もお前の前に現われたんだ。それなのに、お前は火箸をあてた。しかし、それが気になりこのお寺に足を入れるご縁となった。それは、心のどこかに「すまないことをした」という気持ちがあったからだ。お釈迦さまはそれもお見通しだったんだろう。」
この善智識の言葉に出家し、このお釈迦さまにおつかえするとともに、今までの罪滅ぼしにと村人に尽くし、「慈悲の弥陀次郎」とまで呼ばれるようになったのです。
私たちは仏さまからいただいた仏の種は持っておりますが、水次郎のように気づかせていただけるご縁には、なかなか出会うことはありません。また出逢っていても気づかないで過ぎているのかもしれません。しかし、常に阿弥陀さまの願いの中で生かしていただいている私と味わうことができるのであれば、この水次郎の縁起は、私たち自身のことかもしれませんね。

 


平成11年12月号

月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ

法然上人の有名な御歌で、浄土宗の宗歌にもなっておりますこの歌は、阿弥陀さまのお慈悲のことを月にたとえてあらわしておられるのです。
月の光は太陽の光のように高い所、低い所を嫌わずに全てを照らします。同じように阿弥陀さまのお慈悲も全ての方を願い、包み込むはたらきで照らしておらえるのです。
しかし「ながむる人の心にぞ住む」と、気づかせていただいた方しかわからない世界というのはもったいないことですよ。とおさとしいただいています。ながむるご縁はあってもながめないで終わることは空しいことです。
私たちは常に自分の方からのはたらきかけを自分の力とか、能力とかで計りにかけます。
そこには、他のものにお世話になったご恩や感謝など忘れて、成功すれば自分の努力、失敗すれば相手のせいと自分中心にものを考えがちです。
しかし、よくよく考えてみれば、失敗をしたから味わうことができた幸せや、苦労を乗り越えたから手にできた幸せがいくつもあったと気づかせてもらうことも少なくありません。
月の光がこうこうと照らしてくださっていても、家の中にいて外に出ることもなく、翌日「昨日はいい月でしたね。」と言われても「月が出てましたか?」と答える様は、阿弥陀さまがせっかく願ってくださっているにもかかわらず、自分勝手という家の中から外に出ず、「誰にも世話にはなっていない。」という思い上がりの生き方をあらわしているようです。
自分勝手という家の外に出た時には、月に照らされているが如く、阿弥陀さまの慈悲に包まれる色々なおかげが見えてきます。
お世話にならぬと思ってもお世話になっている身
拝まないと思っても拝まれている身
思われていないと感じても思われている身

そう感じたら、なんて自分は思い上がった人間だったんだろうと自然に頭が下がり、手が合さります。
仏教詩人の坂村真民さんは「五臓六腑に感謝がたりん」と言われたそうですが、自分の身体と思っているこの身体も、五臓(肺臓、心臓、脾蔵、肝臓、腎臓)と六腑(大腸、小腸、胆、胃、三焦、膀胱)のおかげがあってこそ持ちこたえられているんです。これもよく考えてみれば、親からの授かりもの、仏さまからの授かりものです。
今年から来年にかけては、千年に一度しか巡って来ない大切なご縁の年です。この時代を同じ時間を共有できる素晴らしさを感じて生活させていただきたいものです。
月の照らす夜にこの思いを浮かべて・・・。
南無阿弥陀佛・・・。

 


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