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戦没者数 過酷な体験の近似値 (戦後60年 歴史レポート bQ)5
―靖国神社と、桜井郷および旧湯之谷村、そして全県
桜井郷 村の‘今と未来’が大勢 戦死した
新潟県・弥彦村の桜井郷(5集落)の日中戦争以後の戦没者は77人。これは、同郷の日清戦争いらいの戦没者計84人の92%を占める。靖国神社全合祀者247万人中、日中戦争以後の合祀者233万人で94%を占めるという構成比率に対して全くの近似値であり、一驚した。
(注)データは05年12月発行された郷土誌「桜井郷誌」から援用させていただいた。桜井郷の規模は、敗戦5年後の1950年(昭和25)時点で弥彦村(人口8,247人,世帯1,482戸)のうち、人口2,353人(29%),世帯416戸(28%)を占めており、歴史的由緒もある地域共同体である。
同郷誌によると、1949年(昭和24)、「一魂碑」が寺院境内に建立された。日清戦争(1894~95年=明治27〜28)いらい第2次大戦終結に至る同郷の戦死、病没、殉難者の英霊を祭るため、83人の名簿を塔下に奉安した石塔である(人数は同郷誌掲載一覧表では84人)。
日中戦争以後の戦没者数77人が、この共同体にとってどんなに痛手だったかは、人口に対する比率を類推するとき想像できる。碑建立の翌1950年(昭和25)の人口2,353人からさかのぼって、敗戦時2,300人と仮定すると死亡率3.3%、 2,200人とすると3.5%。しかも戦死者は、男の平均寿命50歳の当時、共同体の‘今と未来’を担う年齢階層の人たちだったのだ。
この比率は、満州事変いらいの全国の戦没者数310万人を、1944年の全人口7,247万人の中に置くと4.3%になるのと、相当近接している。
桜井郷戦没者数 年齢階層別・年次別
この戦没者数リストに対座するとき、どの年齢、死亡年次を見ても感慨が尽きないが、少なくとも靖国神社合祀者数(戦争ごとの一括)では分からない次の特徴がはっきりする。
(1) 死亡年齢
18〜19歳 3人( 3.6%)
20〜24歳 30人(35.7%)
25〜29歳 28人(33.3%) 20歳台計 58人(69.0%)
30〜34歳 13人(15.5%)
35〜39歳 5人( 6.0%) 30歳台計 18人(21.4%)
40〜43歳 3人( 3.6%)
年齢 不詳 2人( 2.4%)
5歳刻みで見ると、24歳以下の人数が多いことから、死亡者は召集令を受けた人以外に、20歳未満で少年兵に志願した人もかなりいたのではないかと思われる。
(2)
死亡年次
1895年(明治28) 1人 (1.2%)
1904年(明治37) 3人 (3.6%)
1905年(明治38) 2人 (2.4%)
1919年(大正 8) 1人 (1.2%)
1937年(昭和12) 1人 (1.2%)
1938年(昭和13) 1人 (1.2%)
1939年(昭和14) 1人 (1.2%)
1940年(昭和15) 1人 (1.2%)
1941年(昭和16) 2人 (2.4%)
1942年(昭和17) 3人 (3.6%)
1943年(昭和18) 6人 (7.1%)
1944年(昭和19) 32人(38.1%)
1945年(昭和20) 26人(31.0%)
1946年(昭和21) 3人( 3.6%)
1947年(昭和22) 1人( 1.2%)
合 計 84人(100 %)
46〜47年の死者は、45年中の8月16日以後の死者(4人)とともに、死亡場所が中国や南方であることから第2次大戦の延長線上で亡くなったのは明らかである。
戦没者は敗戦が必至の状況となった44〜45年に69%(日中戦争以後では75.3%)が死亡した。(45年の26人は9か月の死者であり、もし年率換算ということが許されるならば1年で35人に相当し、敗戦の年45年は最も戦死の危険性が高かったことを物語る)。
旧湯之谷村でも 同じ特徴が
北魚沼郡旧湯之谷村(現魚沼市)でも同じようなデータがある。同村では、神社境内に戦没者を祭る「慰霊碑」が建立されている。碑の趣旨については、その脇に寄り添うように「碑によせて」と題した次の詩文が彫られた小振りの由来碑が語る。
「決して忘れないであろう あのいたましい戦争のことどもを
永遠に刻むであろう 悲惨な歳月の長かったことを
今ここに若い多くの生命を 犠牲にして
築かれた平和の尊さ おもうとき 誓い合おう 平和を永く続けることを」
自然石の表に「慰霊碑」と大書して彫り込み、石の裏側に嵌め込んだ黒御影石の板に「湯之谷村戦没者芳名」という表題の下、氏名だけが戦争ごとに50音順に刻まれている。その数は、
西南戦争 1人 ( 0.5%)
日清戦争 6人 ( 3.0%)
日露戦争 9人 ( 4.6%)
シベリア出兵等 4人 ( 2.0%)
満州事変 1人 ( 0.5%)
日華事変 20人 (10.2%)
第二次世界大戦 156人 (79.2%)
合 計 197人(100.0%)
ここでもやはり、日中戦争以後の戦死者は176人=89.4%に上り、靖国や桜井郷のもつ90%台とスレスレの高い比率となっているのである。うち「第二次世界大戦」中は156人=79.2%と圧倒的多数であり、桜井郷のこの比率71人=84.5%にかなり近い。
また死亡率推定は、人口5,000人として176人=3.5%である。この数字も弥彦村とほとんど同じだ。(国勢調査の人口1940年4,916人、1950年5,111人から類推)。年齢層は、由来碑が語るとおり‘若い多くの生命’である。
(湯之谷村立村100周年記念「湯之谷のあゆみ」=平成13年6月、同村発行=という資料もあるが、戦没者合計170人としているなどの差があるので、この調査では慰霊碑で数えた数を採用した)。
悲劇の苛烈さ 全県で共通
上記の桜井郷、旧湯之谷村に触発され、市・町史を調べ始めてすぐ、新潟市、聖籠町、新発田市、巻町(いずれも合併前)に共通の原資料「新潟県終戦処理の記録」というものが存在することに気づいた。これは、1970年(昭和45)12月末でまとめた県の公式資料であり、最も有力な手がかりになりうる。
同資料によると、新潟県の戦没者数は次のとおりである。
日清戦役前 ※戊辰役=明治維新の内
(西南戊辰役等) 313人 ( 0.4%) 戦だが表記はなぜか西南
日清戦役 624人 ( 0.8%) を先にしてある
日露戦役 3,422人 ( 4.4%)
大正3~9年戦役 ※第1次大戦後もロシア
(シベリア出兵) 239人 ( 0・3%) 革命干渉で派兵を続けた
満州事変 349人 ( 0・4%)
支那事変 7,879人 (10.0%)
大東亜戦争 65,444人 (83.4%)
戦役外の
殉職者等 211人 ( 0.3%)
計 78,481人(100.0%)
日中戦争以来の戦死者は、73,323人=93.4%となる。ほとんど靖国神社の合祀者数区分比率94.3%と重なり合う。こうして全県の合計の特徴は、桜井郷、湯之谷村という、無意識で行った‘抽出調査’の結果とも合致した。
また全県で人口最多である旧新潟市の日中戦争以来の戦死者6,523人は、全県73,323人の8.9%を占めており、全県の傾向を見る指標になりうる。1944年(昭和19)の同市の人口16万7千人に対する戦死者の比率は3.9%に上る。これは全国の4%とほとんど同じだが、全県の平均的比率でもあったのではないか。
こうして、桜井郷のような、死亡年齢付き名簿は他では未見であるものの、8年間も戦い続け、その挙句、無条件降伏に終わったあの戦争が、いかに若い、大量の人命(233万人)を粗末にした苛烈な愚行であったかがハッキリと分かる。こんな明々白々の事実を付き付けられても、それでもなおかつ、今でも靖国神社なるものを有難く拝んでいる日本人をアジア諸国、いや全世界の人たちは腹の中では奇怪至極に思っているのではないだろうか。あの戦時中は‘護国の家’や‘護国の母’からも疑問や抗議の声は上がらなかった。‘聖戦’必勝へ向け‘進め一億火の玉だ’の国柄だったから。今は、いったい……?
アメリカでは、かつて10年間のベトナム戦争で4万7千人(47万人ではない)の若者が戦死したというので、何十万人という怒りの集会やデモが繰り返され、1973年、北ベトナムとの停戦へと導かれた。あの時代ほどではないが、今でも、大義名分の大量破壊兵器捜索が嘘だった、イラク派兵で戦死者が2千百人を超えたため、戦死者の母親などの抗議の声が広がっている。05年12月、CNNの調査では大統領のイラク政策支持率は39%、不支持率59%である。日本とは命の重みが違うのかも知れない。(もっとも罪のないイラク市民も3万人以上が殺されており、そのことはアメリカ国民に即時撤退と贖罪を迫るものだが)。
(注)他の資料では、1975年、米軍撤退時点では米軍死者は5万8千人である。
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