|
戦友へのリンチ 上官に逆説教 高天原はどこにありますか
頑張り屋の松本さんは、1年間で二等兵から一等兵、そして同期の中で6番目に上等兵に進級した。そのころ、こんな事件があった。
ちょっと動作の鈍い、いわゆる‘要領の悪い’戦友がいた。新兵は古参兵の身の回りの手助けをすることになっていたのだが、その古参兵の整頓棚に積んで置く寝具がほんの少し曲がっていた。これに逆上した古参兵は担当の新兵を叩きのめし、新兵は呼吸困難になって床にダウンした。駆けつけた松本さんは介抱しながら「こんな些細なことで手荒なことをするなよ。殴るなら俺を殴れ」と古参兵をたしなめた。古参兵は3年兵ではあるが一等兵で、松本さんの方は上等兵で階級が上である。ところが古参兵「こんな状態になるのは、新兵教育が悪いせいだ。貴様、生意気なこというな」と松本上等兵を殴ってきた。松本さんも「よおし、それなら俺もやってやる」。武器を手入れするスピンドル油の入ったビール瓶で思いっきり頭をガッツーン。頭から血が噴き出し、油まみれの古参兵は真っ青になって「俺が悪かった」と床に手をついた。
ところが騒ぎで呼ばれた班長は、原因を知ってもだれをなだめることもせずに険しい表情で言い放った。「ここは戦地だ。新兵教育で一人や二人死んだって構わないんだ。赤紙一枚で、後はいくらでも補充できる」。松本さんは、そういう赤紙で召集された自分なんだ、という思いを黙って噛み締めた。
当時、松本さんの周辺では「娑婆へ出れば星の数だが、営門の中は、食器の数が上だ(一般社会では階級の上の者がいばれるが、兵舎の中では兵隊の年数が物を言う)」という空気が漂っていた。(鉄の規律を要求したあの軍人勅諭があるというのにである。戦陣訓を作らざるをえなかったわけである)。
松本さんが上官に堂々と1時間も意見を述べた一件もあった。
中隊の人事係りの特務曹長がいた。ときどき部下を集めて精神訓話を聞かせた。あるときその後で「松本、さっきの話は分かったか」と尋ねてきた。真剣に聞いてくれる優秀な松本さんから賛同の答えが返ってくるのを期待したのだろう。ところが松本さんは答えた。「まったく分かりません。お話は実行できないことであります。本当の教育は、上官がいろいろ述べられるだけではなく、自ら実践してみせることではないでしょうか」。翌日から曹長殿は部下に対しても礼儀正しくなり、態度が一変した。戦友は「松本、お前いったい何を話したんだ」と不思議がった。
別のときの訓話は「天皇は高天原から降臨し給わった神様の子孫だから神様であり、世界で比類のない国体である」という話だった。「天皇陛下」という言葉を口にするときは、話し手自身が決まり文句の枕詞「賢くも」と言ったあと、靴のかかとをカツッと合わせ不動の姿勢をとる。聞き手も反射的に一斉にカツッとかかとを揃えるという緊張場面になる。この訓話が終わったとき、松本さんは質問した。「上官殿、今のお話の高天原という所はどこにあるのか教えて下さい」。曹長殿は目を白黒させ、答えにならない答えを返した。いま考えれば、なんのおとがめもなかったのが不思議である。この人はお寺さん筋の出身だった。
戦局悪化 中国戦線の新作戦
このころ河北省の天津周辺では戦闘激発がなくて済んでいる状況だったが、太平洋戦争、そして中国戦線全体の戦局は、暗転と緊迫の度を加える一方だった。すでに前年=1942年初夏、日本はミッドウェー海戦で虎の子の機動部隊がほとんど壊滅の打撃を受けて以後、急坂を転げ落ちるように翌1943年(昭和18)ガダルカナル島から撤退、山本連合艦隊司令長官の戦死、アッツ島玉砕(全滅)その他、敗退が相次いだ。既に日本本土と南方占領地域との間の海上輸送はがたがたに脅かされ、また中国大陸からの米B29爆撃機による日本本土空襲の危険性も増大していた。
そこで戦争全体の最高司令部である大本営(天皇が決定を下す指導機関)は、1944年(昭和19)1月、中国戦線で突破口を開くことを「支那派遣軍」に命じた。「1号作戦」と総称されたこの作戦の目的は@京漢作戦=北京〜漢口間の鉄道打通、A粤漢(えっかん)作戦=広東〜衡陽〜漢口間の鉄道打通、B湘桂作戦=衡陽〜桂林間の鉄道打通という3つの鉄道打通(連絡をつなぐ)と共に、ABによって、その沿線にいくつもできた米空軍基地を、日本本土空襲を避けるためつぶすことにあった。
作戦距離は大陸を縦断する北京〜広東間だけで2400キロ(北海道の最北端・宗谷岬から本州を貫いて九州最南端の佐多岬に至るよりも少し長い)。日本が投入した兵力は62万人。対する中国軍は300万人、これに500機近い米軍機が加勢して中国軍機200機余を助けた。ところが日本の出動可能機数は230機でしかなく、制空権は優勢な米空軍に握られていた。
これに投入される松本さんたち第一線の兵士は「桂林作戦」とのみ知らされた。中国戦線で最後の、そして最大・最悪の決戦が1945年春まで続けられた。部分的には日本軍の勝利はいくつかあったものの、死闘の切れ目のない連続で彼我共に死体が山をなす、目を覆う惨状が果てしなかった。
地獄の戦線 命令を置いてきぼり
松本上等兵は「桂林作戦」に投入される前に、第1水路輸送隊の中で所属は第2中隊(二瓶隊)から第3中隊(田渕隊)へと変わった。田渕隊は桂林作戦参加の命を受け、天津から漢口へ到着した(そこには大本営命令の遂行のため「支那派遣軍」総司令官が司令部を前進設置していた)。日を置かずに突然、松本さんただ一人、全く見知らぬ者ばかりの「多賀大隊」へ転属を命じられた。この隊は今回の大作戦に応じて新編成された、最先端攻撃部隊を運ぶ上陸用舟艇専門部隊だった。彼は天津での後方輸送から一転してまさに槍の矛先と化した。1年余続く閃光、轟音、爆風、火炎、黒煙、水柱、土埃、鮮血、死体、悪臭…。ほとんどが「大」「激」「劇」「烈」などの形容詞つき以外では語れない。
初夏のころ作戦は始まり、大隊は漢口を出発し、上陸部隊を収容する集結地点へ向かった。舟艇50隻余りを連ねて揚子江をさかのぼった。敵機の攻撃を避けるため昼間は細い水路や木陰などに分散して隠れ、夜ばかり航行した。4日目の朝、松本さんが分隊長の代わりに大隊本部に命令受領に行くと、整列した分隊長らに多賀大隊長は、目を釣り上げ断固とした口調で命令を下した。「隊の移動がはかどっていない。このままでいくと、目的地の上陸作戦に参加できなくなる。今日は昼も航行する。危険は承知だ」。松本さんは耳を疑った。
分隊へ帰る途中の短い時間のうちに決心を固めた。分隊長に一応、命令を伝えた後、多賀大隊長に負けずに断固として5人の分隊員に宣言した。「あの馬鹿のいうことを聞いていると、命がいくつあっても足りなくなる。命の要らない者は馬鹿の命令に従え。命の要る者は松本に従え。しゅっぱーつ!」。すぐエンジンを掛けた。分隊長は「松本、俺がいるのに命令するとはなんだ」。松本さん「分隊長は大隊長の命令に従って死にたかったら残ればいい。この舟に乗らなくていい」。そのまま出発した。分隊長も乗った。
このとき、米機が180機も近くに来ているという情報が入っていたのだ。敵は必ず来る。分隊員には、説明しておいた。揚子江は深いので、岸すれすれでも航行できる。襲撃を受けたらすぐ舟を岸へぶつけて乗り上げ、上陸して逃げる。敵機は相手の船や車には後方から攻撃を掛ける。みんなで交代で監視していれば、敵の攻撃は後方に煙が上がるとか、水柱や水しぶきが上がるとかで分かる。
こうして、遅れて出発した連中を遥か引き離して前進した。お昼近く、航行は順調だった。が、とにかくみんな3日も徹夜行動続きのため疲労こんぱいで舟底に倒れこみ、監視の係りもいつの間にか眠ってしまった。操舵席で立ち続ける松本艇長も眠かった。目をさまそうと大あくびをしたり深呼吸をしたり。ひょっと振り返ったら、米軍機が頭上だった。「しまった。面舵いっぱーい!」。岸へ舟をぶつけた。舟が流されないよう錨を抱えて水面にぶち込んだ。みんなと豆畑へ逃げ込んで伏せた。敵機は機銃掃射を繰り返して飛び去った。敵機の爆音は舟のエンジン音で聞こえなかったのだ。
後方に目をやると、遠く何本も黒煙が立ち上っていた。分隊長は「様子を見に行って来る」と走り、1時間ぐらいで帰って来た。「松本の言ったとおりだ。部隊はめちゃくちゃだ」。この攻撃で150人ぐらいがやられたようだ。松本さんは言う。「米軍機の制空権の下で、おまけにこちらの行動の情報は全部敵には筒抜けです。昼間航行をすればああいう結果になることぐらいは、大隊長は分かっていなければならない。それを、自分の面子と出世のために、あんな命令を出すこと自体間違っているんです」。
|