ある兵士の戦争体験  聞き書きノート
                                       桜井久雄
 戦後60年を経過し、戦争を知らない人たちが多数を占めるようになりました。
 戦争の恐ろしさ、悲惨さ、愚かさを、若い人々に伝え、二度と戦争に関って欲しくない−
 そんな想いから、元新津市議会議員であり、社会党時代新潟県本部の書記長を務めた桜井久雄さんが、戦争体験者のもとへ直接足を運び、生々しい戦争体験を聞き取り、記録にまとめました。この貴重な記録の週刊連載をはじめます。
  平和憲法が危険にさらされている今、ぜひ皆さん読んでいただきたいと思います。
NO.3

  

太平洋戦争が始まった

  ところが、それから僅か1年後、彼の運命は激変する。徴兵検査を受けた1941年の暮れ、12月8日、太平洋戦争が勃発した。

  その原因は元々、日中戦争にあった。日本は頑強な中国の抵抗に阻まれて、1937年以来4年半近くを経過する泥沼の長期戦となった。広大な中国大陸で都市を確保する‘点と線’だけで85万人の大軍を張り付けざるをえなかった。資源の貧弱な日本は物資は欠乏し、経済統制の強化でなんとか行き詰まりを防いでいる非常事態だった。ところが、遠くヨーロッパではヒトラーのドイツが1939年(昭和14)9月、第2次世界大戦の火蓋を切って電撃作戦で各国を広く制覇した。

 そこで日本は日中戦争継続のため、ヨーロッパで植民地所有本国がなくなったも同然の仏領インドシナ(今のベトナム)や蘭領東インド(今のインドネシア)などの、石油・ゴム・ボーキサイト(アルミニウムの原料)を始め、戦争遂行上必要な豊富な資源を奪い取る方針と軍事行動をあらわにした。「バスに乗り遅れるな」が軍部や国民の合言葉となった。英米仏蘭などが支配する世界の再分割を目指して日独伊3国軍事同盟も結んだ。

 これに対して、英仏などの民主主義国を支援するアメリカは、日本への経済制裁で待ったを掛け、中国からの全面撤兵をはじめ満州事変前の状態に戻すことを要求した。そこで日本は‘座してジリ貧’を避けるためとして、最後の勝利の確信もないのに対米英蘭開戦に踏み切った。結果として、世界56カ国を相手とする、とてつもない戦争に陥ったのである。

 「大東亜戦争」は緒戦から半年ぐらいは、相手の戦争準備不十分に乗じて開戦と同時にハワイで米太平洋艦隊、マレーで英東洋艦隊に大打撃を与えたり、米極東陸軍総司令官・マッカーサーをフィリピンから追い出し、東南アジア各地の占領に成功するなど、戦勝気分で国じゅう湧き返った。しかし戦線そのものは、持て余した中国以外にも途方もなく広がり、兵力はいくらあっても足りなかった。

丙種に 先に召集令状がきた

 そういう背景のなかで「丙種」の松本さんにも突然、召集令状が突き付けられたのである。1942年(昭和17)、春。

 松本さんは今でも強く残る疑問を語る。「甲種や乙種の合格者でまだ召集を受けない適格者は他に何人もいたのに。なんで病気の影のある丙種の私が先になったのか。理由は分からない。甲種で戦争に行かないで済んだ人もある」。

  「赤紙」(NHK取材班)という本によると、動員計画は参謀本部・陸軍省で決め師団司令部を経て、連隊区司令部が持っている在郷軍人名簿から対象者がピックアップされた。その作業は、動員班の下士官や補助の職員が行った。松本さんという一人の人間が全く不運にも、動員機構末端の機械的な選別の指に偶然、気まぐれに摘み上げられたのではないのか。

              
                 臨時召集令状
 

            新潟県中蒲原郡新津町中野 松本正平 

右臨時招集ヲ命セラル依テ左記日時到著地ニ参著シ 

此ノ令状ヲ以テ当該召集事務所ニ届出ヅベシ

 到著日時  昭和17年4月   日   時

到著地   高田市 高田歩兵第30連隊

                    ………… 

 
  どんな疑問や不満や最悪の家庭事情があっても逆らえない。

 松本さんは身の回り品やお守りを入れた「奉公袋」一つを提げて、指定されたとおり高田連隊に出頭した。(日中戦争初期のころのような派手な見送りはもうなかった)。
  そのころたまたま米軍機が日本本土初空襲で新津町も襲い、日本海沿岸縦貫国鉄線の阿賀野川鉄橋を狙って爆撃した。松本さんはその跡を見に行ったあと、高田へ向かった。

この空襲は、新津市史では簡単に3行だけ触れている。

 「4月18日午後1時半頃米軍飛行機の1機が来襲し、新津町上空を飛び中新田の耕地に爆弾3個を投下しさらに機銃掃射を行い焼夷弾も投下して飛び去る事件があり、人畜に被害はなかったものの、町村民は初めての警戒警報の発令を経験し、いやが応でも緊張が高まった」。

この空襲は5か月前、ハワイ真珠湾で日本の奇襲を受けたアメリカが、その報復攻撃を仕掛けて米国民の戦意高揚を図る奇襲だった。艦載機の2倍も大きく航続距離がずっと長い陸軍の双発爆撃機B25を苦心して航空母艦に積み込み、空母が日本から1千キロ余り離れている安全な距離から日本本土を攻撃させた。16機が参加して帝都東京、名古屋、大阪、神戸といった主要都市を爆撃し2千数百キロ先の中国をめざしたが、そのうちの1機が新津などを経てウラジオストックへ向かったのだった。

このときに限らず、国民に真相を知らせない情報管理の下、そんなことを知る由もない松本さんが見たのは、小規模な破壊の跡に過ぎなかったが、それでもこれから向かう地獄の戦線を予告する情景には違いなかった。丙種が先になったという疑問を乗り越えて、緊張と使命感で身がいっそう引き締まった。

21歳 二等兵の出征 

21歳の若者は1942年4月下旬、高田連隊で真新しい軍服・軍帽・軍靴を支給され、星一つの二等兵になった。だが、高田ではただ1泊しただけだった。桜が満開だった。翌朝には行く先も告げられずに、同じ釜の飯を食う戦友になったばかりの仲間とともに国鉄の軍用列車に乗せられて、広島市に到着した。中国への派兵基地である宇品港でバタバタと輸送船に詰め込まれた。着いた所は、渤海湾から白河を100キロ足らずさかのぼった天津である。北京の南東150キロ。初めて見る外国の大都会は珍しずくめだったが、とてもニンニク臭かった。

配属されたのは、北京に司令部がある「北支那方面軍」直轄の第1水路輸送隊という部隊だった。広大な中国大陸には大小の河川、湖が数多く、平野部にはクリーク(運河)も発達している。陸軍といえども自前の水上輸送隊を持つ必要があった。シェル石油の倉庫を改良した川べりのこの広い施設で、松本さんの本格的な戦争参加が始まった。

新兵教育 しごき

 松本さんは語る。

 「ここで、すべてが初体験の3か月の厳しい初年兵訓練が続けられた。団体行動が基本とはいいながら、兵隊同士の間はすべてが競争だった。

 まず、言葉使いからで、階級の上の人間との応答、説明の仕方などは、大きな声ですべて『であります』調一本やり、『です』は禁句。 服装、帽子のかぶり方、ゲートル(巻ききゃはん)の巻き方、‘直立不動’の姿勢、歩き方、部屋の出入り、敬礼、整列、行進、食事・入浴・洗濯の仕方など、それこそ箸の上げ下ろしまで、きびきびと、しゃっちょこばった玩具の兵隊のような挙措動作を教え込まれた。

 座学では、軍人勅諭(約2800文字)を筆頭に、戦陣訓やら歩兵操典といったいろいろな規則など、小学校でも職場でも教えられたことなどない、難しいことの暗記を徹底的に強要された。1882年(明治15)明治天皇が定めた軍人勅諭は『我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある』という書き出しの前文に始まって、要点は5か条で『一 軍人は忠節を尽すを本分とすへし』から『礼儀、武勇、信義、質素』が並ぶ。礼儀の説明の中にある『下級のものは上官の命を承ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ』というくだりは、どんな不合理なことでも、階級の上の者のいうことには絶対服従の鉄の規律として徹底的に利用された。何かあるとビンタが飛んだ。これに便乗した腹いせのリンチもあった。

 戦争の長期化で軍の規律が乱れたため、1941年(昭和16)東条英機陸軍大臣が行動の規範として示した戦陣訓は、とくに敵への降伏を禁じた『生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ』によって有名だ。敗戦後、東条自身はピストルで心臓を撃つという自殺をなぜかやりそこなって米軍に捕まる醜態を演じたのだが、新兵のわれわれは一心不乱に戦陣訓を暗記し、そのとおりに死んでも戦い抜くことを自分に言い聞かせていたものだ」。

こうして背筋をピンと伸ばし胸を張った集団ができていく。新兵教育は、そうした精神面とともに、当然、武器で敵をどう攻撃し倒すかについても、肉体的限界まで訓練した。銃をかばいながら地べたを這って敵に迫る匍匐前進、銃剣付き鉄砲を構えて歓声をあげて一斉に突進する突撃、銃剣刺突、実弾射撃、手榴弾投擲などなど…。一休みのときには、天皇家の家紋である菊の紋章が彫ってある銃が塵一つないよう手入れに神経を使った。銃は単なる武器ではなく‘恐れ多くも天皇陛下からお預かりしたもの’だった。

舟艇訓練 輸送任務

 3か月の新兵教育に続いて、水路輸送隊の本来の任務である舟艇関係の訓練に移った。舟は鉄製の小発動艇(1個分隊15人収容)と大発動艇(1個小隊45人収容)が主で中央に固定エンジン付き。これらを5人とか7人とかで扱った。艇の前部には弾除けの‘防塵板’を備えてあるが、舟を操る操舵席(同じく中央)は視界を取るため一段高くむきだしのまま。第1水路隊を構成する4個中隊はそれぞれ大発・小発に折りたたみ式のゴム製ボートを加えた3種類を約50隻ずつ備えていた。

 舟艇の動作は「直進」「面舵」(おもかじ=進路右へ変更)、「取り舵」(左へ変更)で、海軍と同じ呼び方。操船と同時に、大事なエンジンの分解、修理、組み立ても艇長として一人でこなせるよう訓練された。これらはまだ一等兵のまま一期の検閲(新兵の訓練到達度の一斉点検)までには終わっていた。相当な特訓で松本さんは超短期間に小発の扱いに習熟し、敗戦までこの上陸用舟艇と付き合うことになる。

 訓練終了と同時に、もう新任務が待っていた。中国人の乗った民船(帆掛け船)を150隻集め、軍需物資を運ばせる輸送の護衛だった。天津の外に点在する各部隊まで届けて回るのに1回で1か月はかかった。連なった船は風のないときは、水路沿いの土手道を人間がロープで引っ張って移動した。松本一等兵はこうした作業の最中‘路上斥候’を命じられたことも何度もある。弾薬を身に付けた軍装のまま銃を提げながら、水路沿いに船と同じ速度で走った。この斥候は周辺の畑の野菜や放し飼いの鶏を取ってくる役割もやらされた。

 船の上で遥か彼方の空中に浮かび上がる蜃気楼も何回も見た。最初は、前方に大きな湖を発見、と興奮したものだ。しかし見たこともなかった蜃気楼の幻想的な情景の情緒に浸っているゆとりはなかった。周囲は圧倒的な数の中国人に囲まれ、その中には民間人の姿に変装した様々な武装勢力も潜んでおり、船に積んだ食料が一隻分まるごと盗まれるようなこともあった。一般民衆がいつ敵に変わるかも知れないという緊張感は四六時中、解けなかった。幸いにと言うべきか、中国北部(河北省)では大きな戦闘そのものには出会わずに水路輸送隊の任務遂行で1年半余りが過ぎた。

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