ある兵士の戦争体験  聞き書きノート
                                       桜井久雄
 戦後60年を経過し、戦争を知らない人たちが多数を占めるようになりました。
 戦争の恐ろしさ、悲惨さ、愚かさを、若い人々に伝え、二度と戦争に関って欲しくない−
 そんな想いから、元新津市議会議員であり、社会党時代新潟県本部の書記長を務めた桜井久雄さんが、戦争体験者のもとへ直接足を運び、生々しい戦争体験を聞き取り、記録にまとめました。この貴重な記録の週刊連載をはじめます。
  平和憲法が危険にさらされている今、ぜひ皆さん読んでいただきたいと思います。
NO.2

  
靖国の特徴 官軍と対外戦争
 

明治維新以来のこの11回の戦争とおびただしい数の合祀者から主に次の特徴が浮かび上がる。
(1)最初の2回は、日本国内の戦争、つまり内戦である。
(2)これらは‘官軍’だけを祀り、天皇に刃向かった‘賊軍’は祀らない。同神社 はもともと官軍のための‘招魂社’であって、国民的英雄と讃える人も多い西郷隆 盛でも祀られてない。
(3)この神社は設立後、ほどなく陸軍省、海軍省の管轄となった。祀る対象はほと んど軍人と一部例外的な文官である。敵の同じ攻撃による戦死者でも、軍人は祀り 、民間人は祀らない。満州事変いらいの戦争による死没者は310万人といわれて いるが、靖国合祀者数  234万人を上回る70数万人は対象外である。なお1 944年の日本の人口は7247万人に過ぎなかった(死亡率約4%)。
(4)内戦に続く9回の戦争は、外国から先に日本に攻め込んできた戦争はゼロであ る。
(5)9回の対外戦争の戦場は、日清戦争いらい断続的に52年間(通算足掛け24 年間)、朝鮮、中国がほとんどだった。しかし日本はそれを太平洋戦争で東南アジ ア、太平洋諸島にも途方もなく広げ、その終盤では逆にいわゆる国内本土も空襲と 艦砲射撃で初めて戦場と化し、沖縄は唯一の地上戦の犠牲となった。
(6)合祀者の数は日中戦争、太平洋戦争を合わせて233万人(94%)に上り、 この人たちは8年間という短期間に死んだ。(合祀不明の人を含めて中国戦線での 戦死者は39万人余である)。
(7)戦死者は、圧倒的に10歳台後半から40歳台ぐらいの男たちであった。


新津の戦死者1465人


  上記の諸事実については、多くの本や資料も発行され、マスコミによる報道もなされている。世界の少なからぬ人たちの周知のことである。そして戦場となった諸外国では、戦争の被害について、祖父母から父母へ、父母から子へと、代を次いで語り伝えられ、教育も行われているようである。それに引き替え、日本では諸戦争の歴史が次世代に広く、深く伝えられていない。日本がアメリカと戦争したことを知らない若者すら現れていると言われる状況のなかで、戦争体験の伝承の意義は大きい。
  新津市史によると、新津市市域(旧新津町と戦後合併した小合・金津・新関3村)での満州事変いらいの戦死者は1465人である。

松本さんの生い立ち

 松本さんは、苛烈な戦争の坩堝(るつぼ)に投げ込まれるまでの生い立ちを次のように振り返る。
  「私は1921年(大正10)1月2日、当時の中蒲原郡荻川村に生まれた。生家は貧しい小作農で7人きょうだいだった。結小学校の6年間は、農作業の手伝いはもちろん、学用品代の親の負担を軽くするため、防腐剤用の渋を取る柿の実を集めて1升1銭で3銭とか5銭とか稼いだこともあった。夜、カンテラの明かりで金にするドジョウ採りをした夏休みもある。当時は貧乏が一般的で、子どももお金になる仕事をしたのは珍しいことではなかった。
 小学校を卒業すると、2年後の15歳から新潟の北越製紙のパルプ用材木運搬の作業員になり、舗装してない20キロ近い道を自転車で通ったものだ。雨の日も風の日も、デコボコ道をね」。

日中戦争が始まつた

 松本さんが新潟通いを始めた翌年の1937年(昭和12)7月7日、日中戦争が始まった。日本軍は策謀を重ね中国東北地方を切り裂き「満州国」を創ったほか、長年にわたり、いろいろな理由をつけて中国各地に駐屯を続けてきたのだが、その一部が北京郊外で中国軍と衝突、すぐ各地に飛び火し、日本は派兵増加を重ねて年の暮れには首都・南京も占領した。時代は本格的な戦時色で塗りつぶされる。新津町(荻川村は1939年=昭和14、同町に合併)からも、毎年、数百人が戦争に動員された。こうして戦争に出て行くことを‘出征’と言った。家族や町内の人は日の丸はもちろん、「祝出征○○君、祈武運長久」などと大書した幟旗を押し立てて集まり、当時の国鉄の各駅で見送った。荻川駅も「万歳、万歳」の歓声で湧きかえり、勇ましい軍歌が鳴り響いた。「天に代わりて不義を討つ 忠勇無双のわが兵は…勝たずば生きて還らじと 誓う心のいさましさ」(『日本陸軍』)。「勝って来るぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なりょうか…東洋平和のためならばなんで命が惜しかろう」(『露営の歌』)。今の選挙候補者と同じように氏名入りのたすきを掛けた出征兵士は、緊張した面持ちで車窓から手を大きく振り、家族や故郷に別れを告げた。
 新津市史によれば、新津町(人口3万人)の日中戦争以後の動員者は、1943年(昭和18)までで1744人である。資料の制約のためか1944年〜敗戦までと、旧3か村(戦後合併)の分は載っていないから、新津市市域の実数はこれをかなり上回るのは間違いない。

徴兵検査は丙種

 神話から作り上げた「紀元2600年」の奉祝行事で盛り上がった昭和15年の翌1941 年(昭和16)春、松本さんは20歳になったので、徴兵検査を受けた。大日本帝国憲法の20条には「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」とあり、検査は国民を兵士に仕立てるための強制的な関門だった。(当時、男は40歳まで=敗戦間際には45歳まで、兵役の義務があった)。彼は小学校の同級生とともに、検査場になった小須戸小学校の屋内運動場に丸裸で整列させられた。体格や健康状態の綿密な検査の結果は、意外にも「丙種」。(結果のランク付けは甲、乙、丙、丁、戊の5種類になっており、兵士になる順番を示す)。小柄ながら小さいときから労働で鍛えた頑健な彼がこの結果になったのは、レントゲンで肋膜炎にかかったことのある影が出たためと言う。

 こうして松本さんは今までどおり労働者の生活を続けることになった。


 バックナンバー
NO.1