![]() 桜井久雄 |
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| 戦後60年を経過し、戦争を知らない人たちが多数を占めるようになりました。 戦争の恐ろしさ、悲惨さ、愚かさを、若い人々に伝え、二度と戦争に関って欲しくない− そんな想いから、元新津市議会議員であり、社会党時代新潟県本部の書記長を務めた桜井久雄さんが、戦争体験者のもとへ直接足を運び、生々しい戦争体験を聞き取り、記録にまとめました。この貴重な記録の週刊連載をはじめます。 平和憲法が危険にさらされている今、ぜひ皆さん読んでいただきたいと思います。 |
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明治維新以来のこの11回の戦争とおびただしい数の合祀者から主に次の特徴が浮かび上がる。
松本さんの生い立ち 松本さんは、苛烈な戦争の坩堝(るつぼ)に投げ込まれるまでの生い立ちを次のように振り返る。 日中戦争が始まつた 松本さんが新潟通いを始めた翌年の1937年(昭和12)7月7日、日中戦争が始まった。日本軍は策謀を重ね中国東北地方を切り裂き「満州国」を創ったほか、長年にわたり、いろいろな理由をつけて中国各地に駐屯を続けてきたのだが、その一部が北京郊外で中国軍と衝突、すぐ各地に飛び火し、日本は派兵増加を重ねて年の暮れには首都・南京も占領した。時代は本格的な戦時色で塗りつぶされる。新津町(荻川村は1939年=昭和14、同町に合併)からも、毎年、数百人が戦争に動員された。こうして戦争に出て行くことを‘出征’と言った。家族や町内の人は日の丸はもちろん、「祝出征○○君、祈武運長久」などと大書した幟旗を押し立てて集まり、当時の国鉄の各駅で見送った。荻川駅も「万歳、万歳」の歓声で湧きかえり、勇ましい軍歌が鳴り響いた。「天に代わりて不義を討つ 忠勇無双のわが兵は…勝たずば生きて還らじと 誓う心のいさましさ」(『日本陸軍』)。「勝って来るぞと勇ましく 誓って故郷(くに)を出たからは 手柄立てずに死なりょうか…東洋平和のためならばなんで命が惜しかろう」(『露営の歌』)。今の選挙候補者と同じように氏名入りのたすきを掛けた出征兵士は、緊張した面持ちで車窓から手を大きく振り、家族や故郷に別れを告げた。 徴兵検査は丙種 神話から作り上げた「紀元2600年」の奉祝行事で盛り上がった昭和15年の翌1941 年(昭和16)春、松本さんは20歳になったので、徴兵検査を受けた。大日本帝国憲法の20条には「日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス」とあり、検査は国民を兵士に仕立てるための強制的な関門だった。(当時、男は40歳まで=敗戦間際には45歳まで、兵役の義務があった)。彼は小学校の同級生とともに、検査場になった小須戸小学校の屋内運動場に丸裸で整列させられた。体格や健康状態の綿密な検査の結果は、意外にも「丙種」。(結果のランク付けは甲、乙、丙、丁、戊の5種類になっており、兵士になる順番を示す)。小柄ながら小さいときから労働で鍛えた頑健な彼がこの結果になったのは、レントゲンで肋膜炎にかかったことのある影が出たためと言う。 こうして松本さんは今までどおり労働者の生活を続けることになった。 |
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