ある兵士の戦争体験  聞き書きノート
                                       桜井久雄
 戦後60年を経過し、戦争を知らない人たちが多数を占めるようになりました。
 戦争の恐ろしさ、悲惨さ、愚かさを、若い人々に伝え、二度と戦争に関って欲しくない−
 そんな想いから、元新津市議会議員であり、社会党時代新潟県本部の書記長を務めた桜井久雄さんが、戦争体験者のもとへ直接足を運び、生々しい戦争体験を聞き取り、記録にまとめました。この貴重な記録の週刊連載をはじめます。
  平和憲法が危険にさらされている今、ぜひ皆さん読んでいただきたいと思います。
NO.6

  
    突然 敗戦が

 掃海隊の任務が終了すると、ようやく洞湖庭畔の岳州付近に駐屯していた原隊の田渕隊に復帰することができた。1年と2〜3か月ぶりだった。

 復帰後、1週間も快晴続きなのにあれほど飛び回っていた敵機がぜんぜん現れなくなった。松本さんは、例によって言いにくいことを口にした。「どうもおかしい。これは戦争に勝ったか、負けたか、どっちかだ」。

 8月15日、突然、整列の号令が掛かった。田渕隊長「聞け。残念ながら日本は戦争に負けた。……」。あんなに命がけで苦労したのに悔しかった。解散した後、松本さんは言い放った。「なーに弾はまだ多くある。ここまで戦ってきたんだ。戦い続けるさ。弾がなくなったら、手榴弾2発ずつ持っている。それで自爆だ」。賛成の声をあげる者はいなかった。

 また整列が掛かった。田渕隊長「戦争を続けるという者がいるようだが、軽挙盲動は止めよ。第6方面軍司令官の指示を待て」。松本発言は密告で筒抜け。早速、懲罰の作業命令が来た。「松本、直ちにガスマスク150個と、指定する機密文書を共に焼却せよ」。処分物はよく燃え上がった。隊全体にも命令が出た。「弾薬は一部を残して揚子江へ投棄せよ」。一部とは、中国軍に降伏するときに引き渡す、形だけの物だった。


捕虜生活 農家育ちの知恵 階級章は捨てさせて 

 こうして、武装解除で丸腰になった部隊は駐屯地から捕虜収容所に引っ越した。施設は、広いがだれもいない荒れ寺。戸障子はおろか、壁もなかった。松本さんは、まず少しは人の住めるように手を入れることを考えた。いつ帰国できるのか分からないし、いずれは冬も来る。収容地は水田地帯で稲の藁が田んぼにたくさんあった。浮かんだのはこれを使った住まい造りである。僅かの金で藁を寺の庭に山のように買い集めることができた。隊員は毛布を2枚ずつ持っていた。まず寝具。みんなに、この1枚を縦に二つ折りにし綴じ合わせて藁を詰め込み、150枚の敷き布団を作らせた。次は風を防ぐ壁。松本さんは、一握りずつの藁の根元のほうを編み上げてつないでいく「とば」を作ってみせた。敷き布団で松本さんを見直したみんなは、指図に従って作業は進んだ。木の支柱を使い、この「とば」で壁ができ、ところどころに明り取りの窓も作られた。2階建ての防寒宿舎が出来上がった。

 こうした松本さんの手腕を見込んだ田渕隊長が頼み込んできた。「炊事のほうもなんとか引き受けてもらえないだろうか」。松本さんの返事は厳しかった。「私に押し付けないでほしい。将校連中で、捕虜への支給をピンはねして兵隊とは違う贅沢をしている諸君にやらせてもらいたい」。「そう言わないで、なんとか頼む」。押し問答が交わされた。

 松本さんは知っていたのだ。捕虜を管理する中国・国民党政府軍からは、捕虜一人・一日あたり中国通貨60円、玄米1合、3本指一摘みの塩が支給されていた。将校連中は、その一部をピンはねして、自分たちだけの美味い物に回していた。

 隊長の懇願に負けて、まだ上等兵のままである松本さんは条件を出した。「今までとは違います。捕虜は平等です。階級章は捨てて下さい。将校、下士官の不用品を中国人向けに処分して、食料買い入れの資金を作ってほしい」。ようやくホッとした隊長は「分かった。そのとおりにする」と頭を下げた。この交渉の結果、1300万円もの大金を隊長は松本さんに一括預けた。捕虜給与金での換算で48か月分相当だ。松本さんは、40〜45歳で初年兵という年輩者7人を選んで「この急場をしのぐために生きる知恵を出し救ってほしい」と炊事担当を頼み、快諾を受けた。資金を活用して必需物資を優先的に買い入れ、食べられる山野草をドンドン集めた。

 1946年(昭和21)へと年が変わって冬も過ぎ、ようやく帰国の日が近づいたのか、収容地から漢口へ移転の命令が来た。着いてみると「上海まで歩け」という。それでは60日もかかり、みんなダウンしてしまう。一計案じて監視隊にこっそり賄賂を渡すと、船が来た。真夜中に着いた所の駅で、同じような機転を利かせ30トン積み無蓋車2両を走らせてもらい、上海に着いた。帰国船が来た。佐世保に着いたとき、田渕隊長は涙を流して「君のお蔭で150人の命が助かった」と、松本さんの手を固く握り締めた。そして「2階級特進で伍長に任ず」の辞令をよこした(辞令は残っているものの、復員原簿には載らなかった)。

復員 そして憲法が制定された

 出征から4年、戦地で‘反骨’を貫き25歳になった復員兵(そういう言葉ができていた)は、朝、懐かしの荻川駅に降り立った。田植え作業が始まっていた。全く突然の復員に家族は驚き喜んだ。4年ぶりのお袋の味は美味すぎて一口ごとにのどがグッと鳴った。

 その年の11月3日、戦争の全面的な反省の上に「日本国憲法」が制定され、翌1947年(昭和22)5月3日、施行された。松本さんは、後光が指すような新鮮さに心の底から感動した。憲法はまさに希望そのものだった。そして周囲の多くの人と「ようやくいい世の中が来ましたね」と語り合った。松本さんはそれから後58年、ど根性で、働く者が団結し、命の貴さを大切に、権力の不合理、不正と戦い、平和を守る道を歩んで来た。

 

      兵として中国参戦四か年

            戦の悲惨はこの世の地獄

                  松本 正平 詠

☆松本さんが他に詠んだ短歌から(詠歌の時期順不同):

 戦ひの中に青春埋めきて 回顧の歌に胸また痛む

 知らざれば雄弁となる有事論 戦知る老い怒り湧き来る

 征きしまま帰らぬ友の盆供養 骨なき墓の五十七年

 敵弾にふと選ばれし肉体(ししむら)を使ひ続けて老境に生き

 忠義とは悲しき言葉ぞ戦ひに 幾百万の兵を死なしむ

 日本の不戦の誓ひ崩るるか かの大戦の時と似て来ぬ

 名もなさず財も造れず生き下手の われ焼くときは激しく燃やせ

 毒舌を並べ正しさ説く吾を頑固者ぞと人は蔑む

            [05年11月 桜井久雄 聞き取り]


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