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日本周遊紀行(209) 吉崎 「本願寺・蓮如」


蓮如記念館略図


北潟湖
蓮如上人記念館略図(資料)と北潟湖



再び国道305から芦原へ出て、金沢方面を目指す。 
北潟湖」という湖畔を右に見ながら暫く走るようになる。 湖畔は葦の茂る静かな湖で、さして深さも感じられず、所々で釣り人が糸を垂れている。 
広い湖のわりには比較的で身近な沼のような雰囲気をもっている、こんな湖はきっと魚影も豊富なのだろうと勝手に想像してしまう。 
北潟湖は南北に長い湖(正確には南西から北東)で、北側の先端部は大聖寺川と合流して日本海に繋がっている。 北部では汽水湖(海水と河水とのチャンポン)の状態であるが、南部ほど真水であるという珍しい湖であり、そのため確かに魚の種類は多いという。 中には1m以上もある草魚を釣り上げた人もいるとか・・ギョッ(魚)!。
 

湖のほぼ南端の細くくびれたところの橋を渡ったところ、ここ吉崎地区に「蓮如上人記念館」というのが在った。 
湖の畔にある大きな施設であり、蓮如上人(れんにょしょうにん)の足跡や付近の歴史が分かる資料館で蓮如館、民話館、自然館の三館からなっているようだ。 
資料館である「鳳凰閣」は蓮如上人に因んだものであろう、寺院を模した堂々たる建物である。 ただ、見学料は各施設込み込みで2000円というのはチト高く、時間のことも考慮して入場は遠慮したが・・。

蓮如(れんにょ)は、室町時代の浄土真宗の僧で、本願寺中興の祖といわれる。 
時に、本願寺蓮如とも呼ばれる。 浄土真宗を起こした親鸞の直系とはいえ、蓮如が生まれた時期の本願寺は、他宗や浄土真宗他派に対し、衰退の極みにあった。 その本願寺を中興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いた高僧であった。

明治15年(1882年)に、明治天皇より慧燈大師(えとうだいし)の諡号(しごう、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る)を追贈されている。
蓮如は五十歳前後に、ここ越前吉崎に来て坊舎を建て、数種の教文を刊行するなど、独創的な教示を展開しながら、凡そ、四年間滞在していたという。 

蓮如は本願寺・第八世の門主でもあった。 

次回は、高僧と浄土宗派

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日本周遊紀行(209) 吉崎 「高僧と浄土宗派」

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ここで法然、親鸞、蓮如と浄土宗の流れについて・・、 

本願寺とは今の西本願寺の事であって、浄土宗の流れを汲む宗門である。 その浄土宗は、平安末期から鎌倉初期にかけて日本の高僧である「法然」(ほうねん:1133年〜1212年)によって開かれた教義であり、後年、円光大師とも言われた。 法然は比叡山・天台宗の堂僧となり、その教えを学んだ後、それを新しく展開し、教示したのが「浄土宗」であった。

法然の門下生であった「親鸞」は、法然の死後、自身はあくまで法然を師と仰ぎ、「真の宗教である浄土宗の教え」を継承し、更に高めて行くことに力を注ぐためとして「浄土真宗」を起こした。 
親鸞(しんらん、1173年〜1262年)は見真大師(けんしんだいし)ともいい、各地で布教活動をするが、35歳の頃、国の権威者から専修念仏禁止(真宗派による予想外の布教成果に嫉妬した奈良・興福寺やと比叡山の仏僧たちによって反旧仏教者と見なされた)の弾圧を受け、それが為、越後国府へと流罪となり、赦免まで5年間を要した。 

親鸞自身は「僧に非ず俗に非ず」という生活を送っていたが、後に、常陸国(茨城県)へと旅立ち、「教行信証」など著して「浄土真宗」(一向宗、門徒宗とも通称される)を開く。 
弘長2年(1262年)、京で90歳で没している。 

親鸞聖人の墓所として建てられたのが京・知恩院の近くの大谷の本願寺であり、浄土真宗本願寺派の一派とし本山とした。

時代は下って、室町中期の1457年、「蓮如」は第八代・本願寺門主となった。
当時の本願寺は衰亡の極みにあり、宗派の中心寺院としての格を失い、「青蓮院」(最澄が開基した天台宗寺院:三千院、妙法院とともに、天台宗の三門跡寺院とされている)の一末寺に転落していた。 

1465年、大谷本願寺は比叡山の僧兵によって破却され、結果、京都から近江に難を避けた蓮如は越前吉崎に移った。 
この頃、社会そのものが衰退していた時期でもあったが、徐々に民衆が力を得て進展し、農村の生産力の増大とともに旧荘園領主の没落で、農民の地位は次第に向上していった。 蓮如はこうした社会の動きに機敏に対応し、積極的な伝道を開始した。

蓮如の熱烈な伝道に共感する門徒は近畿から東海、越前、加賀地方に広がった。 
蓮如は親鸞以来の血脈を根拠として北陸の浄土系諸門を次々と統合し、本願寺は爆発的に発展し、「一向宗」とも呼ばれるようになった。 教団の拡大に伴い、1473年には加賀の統治者・富樫氏(とがしし:富樫庄・石川県金沢市 を本拠とする豪族であった)の要請を受けて、守護家の内紛、政事にまで介入するようにる。 
以後、加賀には国主の代理として一門衆が在住するようになり、次第に国人層(役人)に代わって本願寺による加賀支配が行われるようになった。 

1546年には尾山御坊(金沢御堂、後の金沢城)が建立され、越前、加賀は百姓、門徒宗の支配する地域になっていった。 
又、ここを拠点として北陸全体に一向一揆を拡大させて行くのである。

一向門徒宗は1560年代には越前・朝倉氏と、1570年代前半は越後、加賀の上杉氏と、その後は織田信長とそれぞれ対立し、朝倉氏に奪われた越前吉崎を取り戻すため何十回となく大規模な戦を起こしたともいう(九頭竜川会戦)。
一般に、加賀の一向一揆とは、1488年頃から1580年にかけて、加賀国の本願寺門徒らが中心となって行った一向一揆のことを指している。

戦国期、信長は1496年、石山本願寺(蓮如のときに摂津国石山・現大阪市中央区に建てられ、後に浄土真宗の大本山となった寺院)を降伏させ、尾山御坊は信長重臣・佐久間信盛によって陥落させられ僧・民集団の一揆は解体された。

関ヶ原戦後の江戸開幕時、徳川家康は本願寺のすぐ東(六条烏丸)の土地を「教如」(石山本願寺の第12代門主)に与え、最大の宗教勢力であった本願寺の勢力分散をはかった。 
これにより本願寺は、西本願寺(現在の浄土真宗本願寺派)と東本願寺(現在の真宗大谷派・真宗本廟・)とに分裂することになった。 
東、西本願寺は、この時点から現在まで存続している。


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