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日本周遊紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」



.神と仏が合体、「神仏習合」とは・・?、

ところで、一般に神宮寺(じんぐうじ)とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院のことである。


日本に仏教が伝来した6世紀中頃の飛鳥時代には、当然、神道と仏教はまだ統合される事はなかったが、奈良から平安期になり仏教が一般にも浸透し始めると日本古来の宗教である神道との軋轢が生じながらも、神社の境内に寺院(神宮寺)や僧形の神像が造られるなど、神々への信仰の中に仏教が浸透していった。
又、神々が仏法を守護する神として仏教の下に取り込まれる(宇佐八幡宮が大仏造立に積極的に協力するなど )という形にもなった。

そこから“神は仏の仮の姿”であるとする「神仏習合思想」が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀り、営まれるようになった。 
日本では千年以上のもの間、神と仏の複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教という日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出した。 
即ち、 神仏習合のはじまりが神宮寺の出現であり、越前国・気比大社の神宮寺や8世紀初頭の若狭国・若狭神社の神宮寺の建立はその先駆けをなすものでもあった。


早い話が、神社の霊、御魂は過去に偉大な功績を残したため、宮にその御霊を奉った。 そして、その後に記念としてその者を時々、お祭りをし、奉ってやればそれで良かった。 
そこには、尊大ぶった教えや、思想、哲学などは無く、通常はただジッと鎮座してれば良かったのである。 

しかし、仏教というという新しい教えや、思想なるものがいきなり入り込んできて、「どうじゃ・・!こうじゃ・・!」と人の心の中の説教をしはじめる。 
人々はおろか神社宮司から神社の御霊にまで影響するようになり、神々が「私は迷っている、ぜひ仏法を聞きたい」などとも言って、神というものが仏教に取り入れられ、「権現」、「明神」といった、神性の仏になってしまったのである。 

八幡大菩薩」などといって、神仏がごちゃごちゃになってしまったのがいい例で、これが所謂、神仏習合思想である。 そして有力な神社にあっては、神宮寺が併設され、寺僧が神に対して仏事で仕え、お経を上げるのである。 
つまり、神職より、僧の方が位が上がってしまったのである。 
これを一般に「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」と言われて、これはなんと、凡そ1000年以上もの間、明治の神仏分離政策まで続くのである。


別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のことで、神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだ。 ことから別当の居る寺を別当寺と言った。 
神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義である。

奈良時代には、伊勢・大神宮寺、越前・気比神宮寺、常陸・鹿島神宮寺、豊前・宇佐比売神宮寺、出雲大社別当寺・鰐淵寺など、日本の主要な神宮を取り込んでしまう。 
その後も、寺院は寺領を拡大し、鎌倉期においては読経・教義そっちのけで武僧集団まで造ってしまうのである。

そして戦国期、新風を吹き込みながら台頭してきた織田信長が寺僧の武力化、政治介入など余りの傍若無人さに業を煮やし、比叡山の焼き討ちや一向宗徒の撃破などで、一時的には退けることになる。 
しかし、信長の偉業(異形)・・?は、明治維新の神仏分離、廃仏棄捨の其と比べれば、まだ可愛いものであった。
  

元来、仏教が日本に伝わって以来、その形は日本の神々を取り入れ、神仏習合という独特の宗教文化を形作った。 
近年、一般に日本人は無宗教であると言われるが、実際は神仏信仰は生活のすみずみにまで浸透していて、盆や正月の年中行事のほか、占い・祭礼・お守り札などの多様な民俗信仰の形を現代においても継承している。
これは日本特有の折衷文化、融合文化である。

しかし、世界的に見ると異宗教間や他宗教同士では融合することは有り得ず、歴史的にも宗教戦争など宗教界あげて、又は国を挙げて他宗教を排し、合い争うのが常道だった。

これらの折衷文化は、日本人特有の特異(得意)な特性かもしれない・・!!。

次回は、「神宮時・お水送り」

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日本周遊紀行(203) 小浜 「お水送りとお水取り」


神宮寺

神宮寺井戸

井戸札
写真:神宮寺本堂と本堂横の霊水・閼伽水と名札


鵜の瀬清流

鵜の瀬神事
写真:鵜の瀬の清流と「お水送り」の神事


「お水送り」、「お水取り」の行事とは・・?、 

その神宮寺本堂の手前に霊水の井戸・「閼伽水」というのが、風格のある家屋に護られて巌(いわお)と共にあった。 
この「霊水の井戸」は、若狭・神宮寺の「お水送り」の行事に利用するという。
この「お水送り」というのは、三月に奈良・東大寺の二月堂で行われる「お水取り」の行事に使われる聖なる水のことらしい・・?!。


「お水送り」の行事とは・・?、
 

先ず、8世紀(752)年にインドの渡来僧・実忠和尚(じっちゅうおしょう)が「東大寺・二月堂」建立の際に、修二会(しゅにえ)という法要を実施したのが始まりといわれる。 

え・・ッ・!、東大寺は「お水取り」ではなかったの・・?、

この行法は東大寺の二月堂の本尊・十一面観音に向かって、僧侶たちが世の中の罪を一身に背負い天下泰平、五穀豊穣、万民快楽などを願って祈りを捧げ、代苦者、つまり一般の人々に代わって懺悔(さんげ)の苦行を勤めるものである。  

この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会(ほうえ)という意味をこめて「修二会」(しゅにえ)と呼ばれるようになった。
又、二月堂の名もこのことに由来している。
 
これら一連の行法を、俗に「お水取り」とよばれ、11人の僧侶・「練行衆」が選ばれ執り行われる。 
奈良期の開祀以来一度も途絶えることがなく、平成16年(2004)で1253回を数えることになるという。
これは実際に現在でも行われている行法であるが、これには伝承もある。 

大昔、実忠和尚が初めて東大寺・二月堂で「修二会」の行法を行っている最中のことであった。 
全国の「万の神」である一万七千余の神々の名を読み上げ、参集を求められたところ、若狭の国・若狭彦神社の「遠敷明神」(おにゅうみょうじん)だけが参じてこなかった。 理由は、魚釣りに出かけていて遅刻してしまったという。 
諸神に遅刻を咎められた遠敷明神は、そのお詫びとして二月堂の本尊(十一面観音)に供える「香水」を若狭から送ると約束した。 
そして、若狭神社において毎年3月2日、奈良東大寺・二月堂へこの香水を送ることにし、これがい
 

神宮寺境内にある閼伽水の井戸から霊水を取り、遠敷川(おにゅうがわ)の「鵜の瀬」と呼ばれる場所から霊水を流す。 
こうして流された霊水は地下水脈を通って、奈良東大寺までたどり着くと信じられている。 
東大寺・二月堂の下にある「若狭井戸」は若狭の「鵜の瀬」から導かれたものとして、その名が付いている。

実際に遠敷川の上流部、神宮寺の更に奥の下根来というところに「鵜の瀬」という名所があり、夏になると子供がこの地で水と戯れるほどの清麗な流水がながれ、環境省の名水百選にも選ばれている。


現在行われている「お水送りの」神事は、残雪が未だ見られる春まだ早き3月2日、先ず神宮寺本堂で「修二会」が営まれ、神宮寺・遠敷明神宮前では、弓打ち神事など祭事が行われる。 
夕刻からいよいよ「お水送り」の始まりで、神宮寺本堂の回廊から大松明を左右に振りかざす達陀(だったん)の行と言うのが行われ、大護摩(ごま)に火が焚かれる。 
白装束の僧侶らを先頭に、大護摩からもらいうけた火を手に、三千人ほどの松明行列が、2Km上流の鵜の瀬へ向かう。 
鵜の瀬で護摩が焚かれると、いよいよ送水神事の始まりで、白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水(こうずい)を遠敷川へ注ぐ。 
そして、このお香水は10日かかって東大寺・二月堂の「若狭井」に届くとされており、よって奈良のお水取りは 3月12日に行われるのである。
 

過ぎる頃、東大寺・二月堂の「お水取り」は、3月12日の真夜中、すなわち13日の早朝、3時頃に行なわれる行事であることは周知である。 

この「若狭井戸」からの「お水取り」の行法は、一度も欠かされたことがない行法、所謂、「不退の行法」であり、根本香水の入った水壷は、1200数年前からの香水を入れるための壺ということになる。

行事は、朝早くより多くの信者や群衆で溢れ、後はテレビの映像でお馴染みのとおり、11本の松明が次々と上堂・二月堂の欄干に集まった群衆に火の粉を浴びせかける。 
天をも焦がす勢いの大松明に歓声だけが夜空に響く最も華やかな、水と炎の祭りの一大ページェントである。

この東大寺・二月堂の「お水取り」は、春の到来を示す行事ともいわれ、春の季語にもなっている。


『 水取りや 氷の僧の 沓の音 』
  芭蕉(野ざらし紀行)

(厳しい余寒に耐えて修二会の行を修する衆僧の、内陣を散華行道するすさまじいばかりの沓の音が、氷る夜の静寂の中にひときわ高く響きわたる。)


因みに小浜は、市内に点在する数多くの文化遺産から「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれているが、「お水送り」、「お水取り」という神事で、小浜と奈良は1200年の時を経ながら直接繋がっていたのである。
 
次回、更に小浜・オバマ      Part10(小浜)へ 

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