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日本周遊紀行(182)出雲大社 「国譲り伝説」

高層大社
写真:古代・出雲大社の想像図(資料)


大国主が、大和の神へ「国譲り」を行ったとされる真意は・・?、

出雲大社が最初に創建されたのはいつのことなのか・・?、その具体的年代を知る事は非常に困難であると言われる。 

出雲國風土記」や「記紀」に創建の由緒や社殿の壮大な様がはっきりと記されてはいるが、創建の年代については、神話伝承の時代に溯る故に確定するのは難しいとされる。

出雲大社が神話伝承の時代から、次の歴史的実話に登場するのは、第11代の垂仁天皇の御代であるとされ、在位は紀元前後1世紀とされているので、大社創建はそれ以前ともされている。
この出雲大社の本殿に祭られているのは、ご承知、「大国主神」(オオクニヌシノカミ)である。 その大国主によって出雲は「国譲り」の地、国譲り伝説の地とされ、出雲大社は国譲りの神・大社とも言われる。 


然らば「国譲りの・・」とは一体何か・・?。

大国主はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれた。 それは全てのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれた。
そして、この国づくりの大業が完成すると、日本民族の大神である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国を譲ったとされている。  

弥生文化の実質的統合者となった大和朝廷は、各地の縄文的な文化の残る部族を制圧して回ったとされている。 
須佐之男命(いろんな書き方がある)にしても、大国主命にしても出雲土俗の統治者、或いは神様とされていたものが、無理やり大和朝廷によって統合されたもので、それらの経緯が神話や祭儀となって組み入れられたが、その裏には制圧された怨念が実はこもっているともいう。 
須佐之男命が荒ぶる神とされ、大国主命も朝廷側からみて都合良いように物語が作られ、捏造されたにすぎないともいえる。 


「国譲り」の真意・・??、 

見方を変えてもると・・、
国を譲ったのか、或は、国が奪われたのかと言う事であるが・・。 
記紀(古事記、日本書紀)に記されているものは、大和朝廷成立後、大和側から書かれたものであり、普通、勝者側からは都合の悪いことは書かれていないのが自然である。 
大和朝廷(天照大神)から見れば、出雲王朝(大国主命)は邪魔な存在であり、大和朝廷による出雲の国の収奪戦が行われたとという見方もある。 
大和朝廷からみれば出雲を奪ったことになるが、出雲王朝からみると国を譲ったことにもなり、記紀には、出雲が大和に穏やかに(・・?)国を譲ったと記されているが、内実は、この時、激しく紛争や騒乱が起き、場合によっては戦乱によって大国主命の殺害などもも考えられる・・?。

古代における陰謀や暗殺、殺害といった事件には、必ずといっていいほど「祟り」という現象が付き物で、この事は当然ともされた。
平安初期、菅原道真が宮廷の陰謀によって九州に左遷され、無念のうちに死してから、京では道真の怨霊)などによって大事な災厄を被っている。 
当時の人々に取って「祟り」は日常的であり、祟りほど恐ろしいものはなかったのである。

出雲の国を奪った大和朝廷は、大国主命を神格化して出雲の地に最大の神殿を作り、大国主の祟りを鎮めようとした。それが「出雲大社」の始まりとも考えられる。 
大層な大社造りを見ると大和朝廷がいかに「祟りを恐れた」か分かるともいう・・?。


話は些かとぶが・・、

信州・諏訪地方に諏訪大社による、ご承知奇祭と言われる「御柱祭」なるものがある。 御柱祭は寅と申の年に行われる諏訪大社の大祭であり、祭神は「建御名方命」 (タケミナカタノカミ )で、越後出身の神(実は出雲である)であり、武神、農耕神、狩猟神といわれる。

古事記では、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れて越後の地に逃げ、更に追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 祭神・建御名方命は、越後の奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と出雲の八千矛神(大国主命)の息子である。

ある時、建御名方命は出雲へ渡ったものの、高天原の神々(武甕雷男神:タケミカズチ、鹿島神宮、春日大社祭神)と、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれている・・と。 
これは記紀つまり、記紀の編纂は高天原(大和朝廷)サイドからの捏造された見方であって、出雲サイドから見れば出雲族は堂々と戦い、そして無念ながら敗れ去った。 
その時に、からくも大国主命の息子は母方の実家の越後え逃げ、その後、諏訪に入ったのであり、建御名方命は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ諏訪大社に祀られているとするものである。

大国主命の息子ということで、神々が出雲大社に集まる神無月にも建御名方命は出雲大社へは行くことができず、諏訪大明神が出雲へ行かないという話は出雲だけでなく、諏訪地方でも承知している話である。

御柱祭りの行事は社殿の造営行事と御柱曳建行事とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。 
祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。
この四本の柱とは何を意味するのであろうか。 これら柱祭の起源には四本の柱が宮殿を表すとされ、柱が神の依代(よりしろ)である、竪穴住居の柱を七年ごとに取り替えた名残り、とういうような諸説もある。


更に、ここでは出雲大社の本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?

四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 
諏訪大社は上下あわせて四社(上下2社ずつ)ある。 出雲本社の本殿の高さは、当初は96m、あるいは48mもあったとされているが、このことは先に記した。 

本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物には当然、巨大な芯柱や大柱が必要である。 
又、大柱は切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。 
諏訪大社では、本家、出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが、現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも想像できるのである。
大和側から見れば、出雲はやはり恐ろしくも、偉大な神であった。
これだけ本殿を高くするという意味合いは、御霊を天上に追いやって天下に下りて来難くすることで、祟りや呪いを出来るだけ遠ざける事だったのかもしれないのである。

御柱祭」が行われる前年、北安曇郡小谷村(信越国境)の二つの諏訪神社で交互に行われる、社前の杉の大木に木づちで薙鎌(なぎがま)を打ちつけるという、珍妙な祀り行事がある。 
薙鎌とは諏訪大社の御神体ともいわれるもので、この時期にこの地で行われる神事の意味するものは何であるのか・・?。  

建御名方命が高天原の神との戦いに破れて越後の地に逃げ、追われて諏訪の地に逃げこんだとされている、この薙鎌は大和の神が、「許してやるから、ここからは出るなよ・・!」という印とも言われている。 

一方で、出雲の国で須佐之男命が殺したとされる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたのが草薙剣で、「三種の神器」の一つとされる。 
薙鎌は、その草薙剣を模写したもので、この剣を出雲王家の怨念を柱に打ちつけ、天下の末代まで呪柱、忌柱として祀る印ともいわれる。 

引き続き、出雲大社

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日本周遊紀行(182)出雲大社 「祭礼の意義」



出雲大社への拝礼は、希望や願望と同時に、“厄災を起こさずに鎮まってて下さい”という意味でもある・・、

出雲大社の広大な境内(実は、境内そのものは伊勢神宮や宇佐神宮よりかなり小規模)の内、拝殿、本殿などの敷地、つまり銅鳥居の内側を「荒垣内」と称し、本殿周囲の垣を「端垣内」と称している。 

一般参拝人が寄れるのは荒垣内で、八足門の内側・端垣内へは禁足となっている。
境内、特に荒垣内、端垣内には、筑紫社(宗像大社に祀られている神)や 御向社(大国主神の嫡后である多紀理比売命・タギリヒメを祀る)など、数社の摂、末社が祭られている。 
その荒垣内摂社の中に素鵞社(そがのやしろ)が本殿の真後北側に、南面つまり本殿同様の向きで鎮座している。 小社(小さな御社)であるが、四方を鬱蒼とした樹木に囲まれ、一段高い位置で神威豊かに祀られている。 祭神は、有名な素戔鳴尊(スサノオノミコト)である。

スサノオは天照大神(アマテラス)の弟神で、出雲の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の神話は周知である。 オオクニヌシの親神として、大国主に国作りの大任を授けられた出雲の太祖でもある。 
即ち、本殿の真後ろから暖かく大国様を見守られているといった感じなのである。(昔、出雲大社の主祭神とされていた時代もあったという) 

素鵞社は、本殿の後陰になったいるため一般参拝人には気が付きにくいのであるが、ただ、我々参拝者が「拝殿」に頭を下げ、「八足門」に額ずくとき、主神の大国主神には、前述したように横向きのため参拝者の真意が直接伝わらないが、本殿越しに鎮座している「素鵞社」には伝わるのである。 
つまり、われわれが出雲大社に詣でる時、知らずのうちにスサノウをお参りしていることにもなるのである。

大和系の神社(伊勢神宮や熊野神社など)は「2礼2拍手」で礼拝するが、しかし、出雲系は違って、現在の礼拝は「4礼4拍手又は2礼4拍手」である。 
かっては「16礼16拍手」であったという時期もあり、明治時代になって礼拝方式が簡略化され、今に至っているとのこと。 
多礼多拍手の儀礼は、「祟り封じ」の為に作られた挙礼挙手の方策の一つだったかも知れない。 


神社とは、祭神が祀られているところで、鎮守の森に囲まれ鎮座している所である。 又、鎮祭という儀式もあり、諸神を鎮め固めるための祭儀であるとしている。

我々は神社に参拝するとき、いろいろ祈願をする。 
無病息災、家内安全、交通安全、五穀豊穣、安全平和、等々、裏を返せば自然界はままならぬもので、人災、天災、争い事と後を絶たないのである。 これらを、特に日本人は神の厄災と観るのであって、古代中世の人々は、この傾向が強く、特に、神に祈るとき、希望や願望は同時に「厄災をおこさずに鎮まってて下さい」という意味としている。

出雲大社は、大和の神々に虐げられ滅ぼされた神なのであり、御神心は怨み1000年の怨念の神なのである。 それだけに絶対的に鎮座をお願いする神でもあるのである。

神社は定期的に神を祭る儀式、神社の祭りがある。 
その中でも重要な要素の一つは、神にお供えものを献じることであり、マツリ(祭)という言葉は、マツル(献)から出たものだといわれている。 
神に神酒・緒食をたてまつることがマツリの原義である。 

日本人の考え方では神は、祭りの機会ごとに祭神が来臨され、祭りが終わると帰っていかれると考えられていた。 
現在でも祭りの基本的儀礼構成は、まず神を迎え、神酒・御食を供えて仕えまつり、願いや感謝の祈りを捧げ、時が来ればお送りするという形をとっている。 
祭礼の日のみ、鎮座している神が天下に降りてこられて俗世と交わり、俗界を伺い、俗民は神の霊力を戴くのである。

次回は、出雲の国と神話     Part4(出雲地方)へ

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