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日本周遊紀行(195)餘部 「餘部鉄橋」

鉄橋1

鉄橋2
写真:間もなく無くなる・・?餘部鉄橋
(1988年(昭和63年)10月23日、列車転落事故のあったカニ加工場跡地に聖観世音菩薩が建てられている)



名所とされた餘部鉄橋は、間もなく無くなる・・?、

国道178号線は暫く内陸を行く、桃観峠トンネルを抜け下って再び海岸へ出たところが、かの有名な「餘部」である。 
国道と並行して、JR・山陰本線が内陸の京都駅から竹野辺りで日本海の沿岸に至り鳥取、松江などの山陰地方の各都市を結び走っている。  そして、この餘部地区の入り江になっている高所を鉄橋で結んでいるのが世に言う「餘部鉄橋」である。

その間、特に前述した海岸国立公園の但馬御火浦の如く、浜坂から香住周辺の間は険しい山地が海のすぐそばまで迫っていて、交通機関である線路や国道は高所の山間地を縫うように走っている。 
しかし、ここ餘部付近では山がスパッと途切れていて深い入り江と細長い平坦な陸地が内陸へ延びている。 その為、集落の頭上を線路でつながざるを得ない、そこで施工されたのが餘部鉄橋である。 

構造的には鋼材を組み合わせて鉄の櫓を橋脚とする、所謂、「トレッスル橋」(トレッスルとは「架台」、或いは「うま」という意味)呼ばれる橋脚構造の鉄橋を建設する形になった。 
国内でも代表的なのがこの眼前に迫る「餘部鉄橋」である。
鉄橋は、真赤に塗装された鉄の柱が縦横無尽に交差して、裾は末広がりになって地面に突き刺さっている。 豪快で迫力があり、尚且つ、素晴しい絵模様を演出している。 
マニュアには、たまらない人気があるはずである。 

小生もカメラの撮影ポイントを数箇所巡ってメモリーに収める。 
途中でメモリーが無くなったのが返す返すも残念であったが・・、撮影できないカメラを抱えて橋の真下でややションボリしている時、丁度列車が差し掛かってきた。 
八両編成ぐらいであろうか、特急列車と思われる客車がトンネルを抜けて即、餘部鉄橋を渡っている。 ゴウゴウと地鳴りのような音を立てて勢いよく鉄橋と餘部駅をも通過していったのである。


鉄橋は1909年(明治42年)に着工、1912年(明治45年)に開通している・・、

長さ310m、高さ41m、 11基の橋脚、23連の鉄桁を持ち、これにより京都から出雲までが一本の線路で結ばれた。 その雄姿は「東洋一の名橋」と呼ばれ、この構造の鉄橋としては現在でも日本一の規模だという。 
なお、国道178号線がこの鉄橋の真下を走っていて、その独特な構造と鮮やかな朱色の橋脚が身近に見られる。 
その為もあり付近の情景とも相まって、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも大いに人気がある。 最寄り駅である餘部駅には、その裏山に展望台が設けられており、絶好の撮影ポイントとなっているという。

朝・昼・夕と光の具合でその姿を変えるほか、天候や四季(特に雪)によっても大きく変貌するという。
夜、列車が通過する様子は、さながら空中に浮かぶ銀河鉄道のようでもであり、轟々と響き渡る通過音には趣さえ感じるという。 
鉄道に関する観光地としては、屈指の場所といって差し支えないだろう。 (注意:一般的に「餘部」と「余部」が併用されているが、当項目の正式名称は「餘部橋梁」である。)
 


この鉄橋で唯一の事故が発生している・・、 

1986年(昭和61年)12月28日午後1時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中のお座敷列車「みやび」が餘部橋梁へさしかかった。 その時、日本海からの突風にあおられて鉄橋中央部付近より機関車と客車の台車の一部を残して7両が転落した。 

転落した客車は橋の真下にあった水産加工工場を直撃し、従業員の主婦5名と乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の従業員1名と加工場の従業員5名の計6名が重傷を負った。 皮肉にも大半が貰い事故であった。 
この鉄橋からの列車事故、転落は橋の完成以来初めての惨事である。 原因としては風速25m以上を示す警報装置が作動していたにもかかわらず列車を停止させなかったという、概ね、人為的ミスと見られている。

この事故後、当時の国鉄は運行基準を見直し、風速20m以上で香住駅〜浜坂駅間の列車運行を停止し、バス代行(全但バスが担当)とするよう規制を強化することとなった。 そして、1988年(昭和63年)10月23日、事故現場に慰霊碑が建立され、毎年12月28日には法要が営まれているという。
潮風が吹きつける橋脚には防錆処理をするため、数年おきに橋脚部にネットを張り、塗り替え工事が行われるという。

尚、2〜3年後には鉄橋架け替えが行われるため、小生が訪れた直後に予定されている塗り替え工事(2005年7月)は、この時が最後となる見通しといわれる。


今度は、餘部駅のチョットいい話です・・!!、

鉄橋が聳え立つ餘部に、「餘部駅」ができたのは意外にも鉄橋が完成した約半世紀後の昭和34年(1959年)であった。
それまで餘部の人々は荒天、順天の日に関らず、4つのトンネルを抜けて「鎧駅」から列車に乗っていた。 そこで、人たちは当時の国鉄に駅の設置を強く要請し、更に餘部小学校の児童たちも、当時の兵庫県知事に「餘部に駅を造ってください」と直接手紙を書くなどした。 その結果、ようやく駅の設置が決まったという。

建設時には大人に混じり、児童たちも駅の材料となる石などを、海岸から山の上まで皆で運び上げるなど、町民総出で協力し餘部駅は誕生したという。 
念願の一番列車が到着したとき、村中総出で歓迎したのは言うまでもなく、そして、駅ができた翌年(昭和35年)、餘部小学校の校歌が作られたが、その二番の歌詞には鉄橋が登場し現在も歌い継がれている。

 『 ♪♪ 緑の谷に そびえ立つ 鉄をくみたる 橋の塔
 』




写真資料(香美町):線路を通う町民と餘部駅完成を祝う地元の人々と初列車


次回も更に「餘部」について、

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日本周遊紀行(195) 餘部 「餘部鉄橋(2)」


鉄橋3

鉄橋下
餘部鉄橋(手前が餘部駅)、トレッスル橋といわれる橋下の橋架部

新鉄橋イメージ
新鉄橋イメージ(資料)


餘部鉄橋の架け替えの議論・・!、

列車転落事故により運行基準を強化した結果、風速20bで列車を止める措置がとられ、その為、冬の観光シーズンを中心に年間250本もの列車が風のため運休・遅延する事態となっているのが現状という。 
その為、定時運行が困難となった事を契機に、現鉄橋の南側にPC橋(コンクリート橋)を新たに設置する計画が浮上した。 
以後、余部鉄橋は定時運行、高速化を目指した「架け替え」か、景観維持を優先させる「存続」かで揺らぎ続けているという。 

PC橋では風速30mまで運行可能な設計とされており、また保守も容易なことから、JR西日本では出来る限り早い着工を目指しており、既に平成14年には、新橋新設案が余部鉄橋対策協議会総会で決議され、新しいコンクリート橋への架け替え計画が決定をみていたのであった。 
2007年春(予定) 新橋架替工事着手、2010年 には新架橋工事完了が予定 しているという。

しかし、地元の一部には景観存続を望む声が今も根強く、観光客や地元住民からは現在の鉄橋が無くなる事を惜しむ声が後を絶たたない。 地元からは、新しいPC橋が観光資源となり得るかどうかについては、疑問の声も多いという。 
コンクリート橋脚の工事はいずれ始まるが、完成後にこの「東洋一の名橋」は撤去されるのか、一部は残るのか、未だ不透明だという。

【追伸】、架替工事は2007年5月に着工、2010年度の完成にむけて着々と工事は進められている。(長さ約307m、高さ約42m、)


最近、旅行ブームなのであろうか・・?、

テレビ放送で鉄道を利用した旅行番組などが多く、北は北海道から南は九州まで、全路線を乗り継いで行く旅番組などもNHKで放送された。 又、「汽車の旅・放浪記」などという本も出版されて人気を呼んでいる。
鉄道といえばやはり「SL列車」が郷愁を感じるのも確かである。 


私事になるが・・、


小生、学生(列車通学の高校生)の頃は、福島県の田舎である常磐線にはまだ悠々と蒸気機関車が走っていた。 湯本駅から平駅へ向けて定時に発車した蒸気機関の列車は、ゆっくりと動き出す。 小生は慌てふためき、定期券を見せる間も惜しんで発車したあとを後ろから追い掛けていって乗り込んだのも度々であった。 
駅員も承知したもんで、「気を付けてノンなよ・・!」と、のんびりしたもんであった。
その後ジーゼル化され、更に数年後には電化されてスピードアップされたが、その発車間際の加速度的速さに、びっくりしたのであった。
 

汽車好き、鉄道好きは昔からいて・・、


普通、小さな男の子は大抵乗り物好きであった。 高じて大人になっても鉄道好きは変わらない御仁が多いようである。 
鉄道事情が大き変わりつつある、或るいわ大きく変わった今日、又、運行列車の変遷が目立つ昨今、全国の鉄道ファン、鉄道マニアは大忙しであろう・・!。

濃厚な鉄道マニアのことを、「鉄ちゃん」などと言われ、又、汽車、列車などの写真好きを「撮ちゃん」とか「撮り鉄」などと称しているようである。 
中には、「撮り鉄」の熱が高じて線路間際に寝転んでカメラを向け、特別運行のSL列車を止めてしまった、・・などという極端な事例もあるという。

どの線でも列車が美しく撮れる場所は大方決まっている。 
高くて長い、しかも鋼鉄製の骨組みで出来ている餘部鉄橋などは、今、恰好の標的になっていて、カメラマンが引きもきらないという。 

餘部鉄橋ポイントは駅からさらに登った高台であるが、そこは「撮り鉄」たちの集団で踏み固められ、今では草も生えないといわれるほどである。

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