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日本周遊紀行(173) 下関 「巌流島」



巌流島は、敗れた佐々木小次郎の流派・「巌流」からその名が起こった・・、

下関海峡の彦島(ひこしま・ 下関市の南端にある島で、彦島本島のほか、響灘に浮かぶ六連島・むつれじま、彦島の至近にある竹ノ子島・たけのこじま・彦島と道路橋で接続、巌流島・正式名称は「船島」の3島を含む)の東部、海峡に面して小さな「船島」がある。 
元々、船の形をした島だったそうで、今は島の西部が埋め立てられて昔の6倍もの面積になったとかで、船の形など見る影もない、この島を通称「巌流島」といっている。



宮元武蔵」は備前・大原町の出身で、十代前半の時から諸国を巡って剣の道一筋に練磨し、その間、京都一乗寺下がり松での吉岡一門との戦いをはじめ、槍の宝蔵院や伊賀の鎖鎌の宍戸梅軒などと試合をして勝ち、29才で九州・舟島において佐々木小次郎と決闘する間、60余度の勝負も負けたことがなかった。

一方、「佐々木小次郎」は越前国・今立町(高善寺)の出身で、元々、武将の血を引いてか、幼い頃から仏門を嫌い、当時の越前国領主・朝倉家の剣術師範・富田勢源の道場へ通い、腕をあげ「つばめ返し」という秘剣法をあみだし、18歳の時武者修業の旅に出る。 

全国の一流剣士と他流試合を重ねて次々と倒し、戦国時代1、2を争う剣豪として一世を風びしている。 修行途中、細川忠興公に見出され、細川藩の剣術指南役として小倉に道場を構え、藩士達に剣術を教えていた。
豊前・小倉に日本一の剣士として名高い佐々木小次郎の存在を耳にした武蔵は、細川藩筆頭家老の長岡佐渡興長(ながおかさどおきなが)の仲介により藩主公認の下、佐々木小次郎と決闘に及ぶのである。

江戸初期・慶長17年(1612年)4月、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたことは、あまりに有名で、その内容は物々に語られているが、その大基(おおもと)になっているのが「ニ天記」(武蔵について記述された書、肥後松井家の家臣・豊田景英の編纂による)に拠るところが大きいと言われる。


それによると・・、

その日、巳の刻過(午前十時)武蔵が船島に到着、待ちくたびれた小次郎との間で、遂に決闘が始まった。 小船から降り、波打ち際に立った武蔵の木刀は振り下ろされ、小次郎の頭上を打った。 
小次郎もまた太刀を払うが、武蔵の木刀は、小次郎の脇腹に二の太刀振り下ろされ、勝敗は決した。 勝った武蔵も相当慌てていたらしく、止め(とどめ)をさすのも忘れ、船に飛び乗ったという。

長時間も待たされた後、決闘の最中に小次郎が刀の鞘を捨て、それを見た武蔵に、「小次郎敗れたり。勝つ者が何故、鞘を捨てたりするのか」と言われ、小次郎は逆上して武蔵に敗れたとされている。
結果的には敗れた小次郎だが、彼が強かったというのは本当のようで、巌流島での実力程度では武蔵よりも小次郎の方が強かったといわれるが、小次郎が老獪な武蔵の戦術にはまって敗れた、という見方もできるという。

負けた小次郎の流派・巌流に因んで、船島は以降「巌流島」と呼ばれるようになった。
陸上から見る限りでは、巌流島がどこにあるか皆目見当がつかないが、下関名所「海峡ゆめタワー」(JR下関駅東、高さ約150m)に昇れば一目瞭然とのこと。

宿敵同士であった宮本武蔵生誕地の備前・大原町と佐々木小次郎の出身地である越前国・今立町とは1990年に姉妹縁組を成立させ、二人の出会いとなった巌流島で下関、元細川藩の熊本両市長の立会いのもと調印を行ったという。 
このことで二つの町は宿敵としての関係を越え、同じ剣の道を志したもの同士としての深い絆を結ぶことになったtoiu


次回は、下関・馬関海峡

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日本周遊紀行(173) 下関 「馬関海峡」


関門橋下、みもすそ公園に大砲が四門据ている。
(馬関戦争は、藩が攘夷決行として馬関海峡を通過するアメリカ商船を攻撃したことに端を発する。)


幕末の思想は「尊王攘夷」であり、事件は攘夷決行の期限であった1863年に勃発する・・、

「みもすそ公園」のほぼ中央に大砲(おおずつ)が四門据えられている。 

これも下関の歴史を物語る史跡の一コマである。
江戸末期・幕末において、もっとも力と意味を持った思想は「尊王攘夷」、つまり天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退するという思想であった。 

ペリー来航以来、日本は鎖国から次第に開国へと方向転換する中、一部藩内では「外夷、外国打つべし」の攘夷論者が台頭する。
そんな最中、事件は尊王攘夷派が攘夷決行の期限であった文久3年5月(1863年)に、長州藩が下関海峡(当時は馬関海峡)を通過するアメリカ商船を攻撃したことに端を発し、ついでフランス商船やオランダ艦船をも砲撃した。 ただちにアメリカ・フランス軍艦から報復の攻撃を受けたが、長州藩は更に砲台を増強し強硬な姿勢を崩さなかった。

更に、イギリスは列国の代表と連合協力体制を樹立し、中国にいた極東イギリス軍の動員も可能となっていたので、攘夷の急先鋒である長州藩に政治的効果をも狙って正式に宣戦を布告、一旦、諸船団を横浜に集結させた。 


元冶元年(1864)7月、イギリス9隻 フランス3隻 オランダ4隻 アメリカ1隻の総計17隻、大砲の総数288門、兵員5000人の四国連合艦隊は横浜を出航し、下関に集結した。
イギリス留学から帰国した伊藤俊介(後の博文)、井上聞多(後の馨)が戦闘回避に奔走するも、長州藩は戦闘の方針は変わらなかった。 
そしてその年の八月、ついに連合艦隊は下関への砲撃を開始し,戦闘が開始された。 連合軍は陸戦隊が上陸して長州軍を打ち破り、3日間で砲台の破壊、大砲の奪取を徹底して行った。 

長州藩は惨敗した・・!!。


その後、高杉晋作等によって和平交渉が行われ、長州藩は下関海峡の外国船の通行の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、下関砲台の撤去などの条件を受け入れて講和が成立した。 以降、長州藩内の攘夷派は没落し、保守派(開国派)へと主導権が移っていくことになる。

この事は、同年代(1863年)鹿児島・薩摩において勃発した「薩英戦争」にも似ている。 

薩摩藩内でも攘夷論が闊歩するなか、実際に攘夷が発生している。(生麦事件:横浜近辺、生麦において薩摩藩士によるイギリス人斬殺事件) これが元で、薩摩、イギリスの間に戦闘が行なわれ、結果的には引き分け程度になるのであるが薩摩藩は、この戦争で攘夷の不可能を悟り、藩論を開国へと大きく方向を転回することになる。

以降、長州、薩摩は倒幕へと転換し、薩長連合を以って「鳥羽伏見の戦い」から一気に明治維新へと繋がってゆくのである。
尚、賠償金300万ドルは、前年の攘夷は幕府の命令によるものと長州藩が主張し、列国もそれを認めて幕府が肩代わりして支払うことになったとする。 尚、幕府が倒れた段階で、残りは明治政府に引継がれている。


関門海峡は、平安末期、武家社会の出発点となった壇ノ浦の源平合戦からおよそ700年後に、はからずも江戸末期、武家社会を終わりに導く歴史の転換の舞台ともなったのである。


下関は、関門海峡を挟んで、本州の最西端に位置する山口県を代表する都市の一つである。
現在の都市規模は山口市をも凌ぎ、山口県一を誇る。 中国地方でも5番目(広島、岡山、倉敷、福山に次ぐ)の大都市で、経済面でも山口県西部(旧長門国)の中心的都市であり、下関市に営業拠点を置く企業も少なくないという。

中心部の下関港周辺は、古くは赤間関(あかまがせき)と呼ばれおり、これを赤馬関とも書いたことから、これを略した馬関(ばかん)という別名も用いられた。
2005年2月、下関市、菊川町、豊田町、豊浦町、豊北町が合併(新設合併)して、新たに下関市が発足していて、国から中核市(法定人口が30万人以上)の指定をも受けている。

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