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  22日目:PartWb(九州山地・椎葉村、南郷村) PartX(米良地方、佐伯、津久見)へ  写真集W  
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日本周遊紀行(167) 九州山地 「椎葉村」



次に、日向・宮崎の山村で、椎葉、米良、南郷地方について・・、

椎葉」は、九州山地の中央部の山襞深く、県境、五家荘や五木に接する日向の最奥部に位置し、共に平家の落人伝説を秘めた地である。 
昔から人跡まれな秘境として知られ、俗に「推葉千軒」という一郡にも匹敵する広い面積の士地に、わずかな人家が散在していたのである。 

昭和30年に、我国初のアーチ式ダムである上椎葉ダムができるまでは、車も行けない秘境であった。
今は自動車で行けるが、けっして道は広くなく山また山を超えて細い道を行くことになる。 
もともと日向・椎葉は、中央から離れ、陸の孤島とされた内陸の流刑地として、有名無名の罪人がこの地に遠流された地でもあったという。


1185年、源平の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は、全国各地へと落ち延びるが、ある一行は険しい山を越え、熊本の阿蘇路を経て九州山脈の最も奥深い椎葉へと辿り着き、かくれ住んだという。 
だが、この山地も鎌倉幕府の知るところとなり、追手が迫ることになる。 
源氏の棟梁・源頼朝より追討の命を受けたのは「扇の的射」で有名な那須与一宗高であった。

ところが、与一自身は病の床に伏していたので、弟の那須大八郎宗久が軍勢を率いてこの椎葉を目指すことになる。 
険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見するが、そこで大八郎が目にしたものは、かつての栄華もよそに、ひっそりと農耕をしながら平和に暮す農民達であった。 
大八郎は哀れに思い「椎葉の平家の残党は一人残らず討ち果たした・・、」と幕府に嘘の報告する。

その後、大八郎はこの地に屋敷を構え、この場所で生活することを決め、やがて、平清盛の末裔とされる「鶴富姫」と出会い、二人の間にロマンスが芽生える。 そして姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音の合図に逢瀬を重ねる。 

そんな中、幕府から、「すぐに兵をまとめて帰れ」との命が届き、仇敵平家の姫を連れて帰るわけにもいかず、大八郎は一人で帰ることにした。
この時既に、鶴富姫は身ごもっており、大八郎は、「生まれた子が男子ならば我が故郷下野の国へつかわせ、女ならこの地で育てよ」と言い残し椎葉を発つ。
この大八郎と鶴富の運命的な逢瀬の時、生まれたのが全国的にも有名な「ひえつき節」だという。

  「ひえつき節」  九州民謡

庭の山椒(さんしゅ)の木 鳴る鈴かけて
ヨーオー ホイ
鈴の鳴るときゃ 出ておじゃれヨ

鈴の鳴るときゃ 何と言うて出ましょ
ヨーオー ホイ
駒に水くりょと 言うて出ましょヨ

おまや平家の 公達(きんだち)ながれ
ヨーオー ホイ
おどま追討(ついと)の 那須(なす)の末ヨ

那須の大八(だいはち) 鶴富(つるとみ)捨てて
ヨーオー ホイ
椎葉(しいば)立つときゃ 目に涙ヨ

泣いて待つより 野に出て見やれ
ヨーオー ホイ
野には野菊の 花盛りヨ


以上、那須の大八と鶴富姫の下りだが、歌詞は、まだまだ続くという。


椎葉村は、標高千メートル近い山の斜面を切り開いて、雑木や雑草を焼き、残った灰を肥料としてソバやヒエが作られてきた。 
有名な「ひえつき節」は、このような生活の中から生まれた椎葉を代表する民謡で、焼畑によって収穫されたヒエを木臼に入れて杵でつくときに歌われる労作業歌でもある。

平家の鶴富姫と源氏の武将・那須大八郎の平家落人にまつわる伝説は、今も残っており、鶴富姫が住んでいたといわれる豪壮な屋敷も存在する。 
平安期の寝殿造りで、建築様式から約300年前の建立と云われ、昭和31年国の重要文化財となっている。

毎年11月の初旬の3日間「椎葉平家まつり」が行われ、祭りのハイライトは大和絵巻武者行列で十二単の平家方の鶴富姫と源氏方の那須大八郎が、よろい姿の騎兵と一緒に町中を練り歩くという。
 
次回は、「南郷、米良」

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日本周遊紀行(167) 九州山地 「南郷村」



椎葉の南に位置する南郷村は、百済王の伝説の地であった・・、

飛鳥期の660年代、「白村江の戦い」(はくすきのえ:朝鮮南西部を流れる錦江と呼ばれる河口付近で、日本と唐:中国との海戦が行われた。 
今から1300年以上も昔のことである)において、朝鮮半島の百済の国の要請により応援にかけつけた大和(日本)の水軍であったが、錦江下流、白村江の河口に乗りこんだとき、そこには唐と新羅の連合水軍170艘が、時こそ来れりと待ち構えていて挟み撃ちにされ、無念の惨敗を喫してしまう。

朝鮮の史記の記述によれば、「大和軍の船は火災につつまれて次々と沈没、海に呑まれる兵士は数知れず、炎は天を焦がし、海の水は朱に染まったという惨状であった」とされている。 
敗戦の悲報は、翌月には早くも筑紫の「那の津」(現在の博多)の本営にもたらされ、やがて敗残兵や戦に敗れて亡命する百済人たちが那の津の浜に次々と渡来してきた。 
この時、連合軍に滅ぼされた百済の王族達は大和・畿内地方に亡命してきたが、その後、国内の内戦、動乱に巻き込まれ、その王族たちは日本を転々としながら最終的に落ち着いたのが、「南郷村」であったという。

南郷村の中心に位置し、守護神でもある「神門(みかど)神社」には、百済王の御神体が祀られ、隣にある「西の正倉院」といわれる倉庫には、百済製とされる銅鏡や馬鈴・馬鐸(鈴などの馬に付ける装飾具)などの遺品が多数収蔵されているという。
古色蒼然たる神門神社の創建は西暦718年という古社で、主祭神に大山祀命(オオヤマズミノミコト)と百済国・禎嘉帝を奉ってある。


普通、日本各地の神社には、偉人や神格化された人物以外の例外を除いて、概ね、神話に出てくる国造りの神を主祭神としていて、大山祀神もその一神である。 
ここ神門神社は、それ以外に韓国の百済滅亡の時逃れてきた禎嘉帝(伯智王ともいうらしい・・)をも奉ってある珍しい神社である。 

神社はこの地に伝わる百済王伝説と密接なかかわりを持ち、しかも併せて、千年以上の長い間、百済王の秘宝とされる宝物が神社に保存され、地域の人々によって守り継がれてきたという。
南郷村に落ち着いたとされる百済の王族は、禎嘉王とその子の福智王で、本国より追尾の手が迫ったが土地の豪族の援助もあり、これを撃退したと伝えられている。 王はこの地で崇敬され、死後、神として祀られたといい、福智王は現在の木城町に住んだとされ、町の比木神社に奉られている。 

神門神社の近くには、「百済王禎嘉帝古墳」と書かれた標柱が立てられ、王の遺品として伝わる鏡24面が社宝として残っているという。 
又、本殿内には、千点以上の鉄鉾や鉄製の武器類が保管されており、当時の戦闘の様子や関わりが考えられるという。
さらに、須恵器(古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた、大陸系技術による素焼の土器)の大甕(おおがめ・底の深い壺形の陶器)や古墳時代の直刀や銅鈴、馬鐸(ばたく)などが保存されている。 これらの宝物、遺蹟品は「西の正倉院」といわれる特別仕立ての倉に納められている。


小さな村に「正倉院」・・?、

因みに、「正倉院」とは、奈良の東大寺・大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造り(あぜくらづくり)といわれる特殊な木造建築で造られた倉庫で、聖武天皇や光明皇后(東大寺や各地の国分寺を建立)に縁(ゆかり)の品をはじめとする、天平時代(奈良時代のこと)を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設である。 
奈良・正倉院は、東大寺伽藍の一部として、「古都奈良の文化財」のユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
「正倉」とは、中央や地方の官庁や寺が、宝物を収めるために設けた倉庫のことである。   

南郷村の神門神社に保存されていた数々の遺品のうち、特に貴重とされる宝物も有ったという。
それは奈良・正倉院にあるものと同じ伝世品(美術品などの、古くから大切にされて世に伝わってきたもの)の鏡銅といわれる宝物があり、しかも、奈良正倉院のものが、遺跡から発掘された出土品であるのに対して、こちらの神門神社の鏡は大切に保管、保存されていたものであった。 
これによって更なる調査が始まり、数々の遺品を鄭重に保存すべく、東大寺・正倉院を忠実に再現した南郷・正倉院を建造することなったという。

村人は、「本物をつくる」ことにこだわり抜き、門外不出の正倉院の設計図を学術目的で入手、木曽の国有林からヒノキを調達、建築方法から瓦、金具にいたるまで学術支援のもと、古代建築の修復などに携わった名工達を呼んで当たらせたという。 この間、柱を運ぶ御木曳式(おきびきしき)、礎石の上に柱を立てる立柱祭、上棟式など大切な行事には村人が総出で参加し、「西の正倉院」は計画から10ヶ年の歳月をかけて平成8年に完成したという。 


現在、神門神社の東側には、西の正倉院といわれる奈良・東大寺の正倉院と寸分違わぬ造りで、巨大な姿を見せ、その高さは4階建てのビルに匹敵するほど大きいという。 
館内には銅鏡をはじめ、神門神社に集積された宝物、又、百済王伝説の祭りとされる「師走まつり」に関連する物など、百済伝説を紹介する品々などが展示されている。 

それにしても、よくぞ人口2500人足らずの貧村が、歴史に残る豪奢な建物を造ったもんであると感服する。 
現在でも、離れ離れになった百済王の子孫達が、祖先である百済の人々の御霊をお祀つりするため、年に一度再会するという「師走祭り」が、1300年以上もの間村民によって受け継がれているという。 
南郷村の「百済小路」といわれる村を見下ろす小高い丘には、「南郷温泉・山霧」をはじめ西の正倉院、百済の里、恋人の丘、コテージ山霧・霧の宿等数多くの観光施設が点在している。

次回は、「米良」     PartXへ

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