本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年6月9日 延日数 第19日
出発地 指宿温泉 出発時間 7時20分
到着地 宮崎・青島 到着時間 18時20分
天 候 体 調 やや不良(腹痛)
走行道路名 南九フェリー(指宿⇒大根占)、R269、県68、
佐多ロードパークウェイ、R220
主移動地名
指宿⇒根占⇒佐多⇒垂水⇒鹿屋⇒南根戸⇒日南⇒青島
現在(宿泊)地 青島・簡保センター
道の駅 R269根占  R269くにの松原  日南道路フェニックス
温 泉 休暇村指宿   青島温泉
名所・旧跡
佐多岬  垂水と桜島  くにの松原  鵜戸神宮  
日南海岸  青島

写真集 V

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 5169 今回入油 0 本日支出 5744 本日支出 9096
昨日表示 4904 前回累計 386.55 前日累計 67095 前日累計 91871
走行距離 265 今回累計 386.55 本日累計 72839 本日累計 100967
総距離  

   19日目:PartT(錦江湾)   PartU(鹿屋、志布志、都井)へ     写真集 V  日本周遊ブログ
日本周遊紀行:詳細目次
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               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山

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日本周遊紀行(150)錦江湾 「薩英戦争」



幕末の1863年、錦港湾で薩摩と英国の互角の海戦があった・・、

窓の白のカーテンが、朝日を浴びて輝いている、今日も天気は良さそうだ。
TVを点けると何処のチャンネルも昨夜のW杯の決定戦を映し出している、あの、2得点のゴールシーンは何度見てもいいし、飽きない。 
無観客のせいか、その反動もあろう国内のサポーターが大変な騒ぎで、熱狂的ファンは半ば狂乱状態であった・・、という場面をTVが盛んに映し出している。

さて、例によって朝風呂、朝食と済ませて気持ち良く宿を出て、指宿の埠頭まで車を滑らした。 
昨日のうちに、薩摩半島へ渡るフェリーの時刻を調べておいたのだ、指宿発8時の大根占行きである。
ハイビスカスロードと言われる快適道路を指宿市内へ向かい、案内板にしたがって車を進めると海岸よりチョコンと出っ張っている埠頭があり、そこがフェリー乗り場であった。
小屋風の小さな建物に南九船舶・指宿営業所とあり、指宿⇒大根占とあった。 
小型車〜マイクロバスの車輌8〜9台くらい航送可能のようで、大型車は不可であった。 

通称、ミニフェリー「なんきゅう」 と言い、航行時間は35分で、運賃は普通車で3300円とあった。 
小生のも含んで小型車3台、定刻よりやや早めの出航となった。 
指宿の街並、バックに聳える「開聞岳」の姿が徐々に遠くなる。正面にはひっそりとした根占の町並みが遠望でき、遥か遠方に桜島も望めた。
この辺りは錦港湾の中でも大海に近い海域であるが、海面は穏やかであった。 
この穏やかな錦港湾で江戸末期、一大戦争が勃発し歴史に名を留めていることは、知る人ぞ知るであろう。 幕末、風雲急を告げる大事件は「薩英戦争」と呼ばれた。



その「薩英戦争」について・・、

当時のイギリスは世界の海に覇権を樹立してゆく「大英帝国」と呼ばれ、特にアジアへの進出は顕著であった。 インドを始め東南アジアの諸国諸島、そして、中国(清王朝)へと覇権を延ばし、これ以降、中国は欧米諸国の半植民地に転落していく。
そして、遂にイギリスは日本へも、その食指が向けられるのである。

イギリスが日本への進出を目指した他の理由として、当時イギリスは帝政ロシアと対立状態にあり、イギリスの帝国支配に脅威を与えるロシアの南下政策を牽制する目的もあった。
安政5年(1858年)、イギリスは主に対日通商が目的であったろうが、その真意、背後には中国同様の植民地支配の思惑もあり、その為に日本にやって来たのである。


薩摩藩の「攘夷」・・、

来日した外交公使のオールコックは、母国イギリスの軍事力、軍艦を背景に大言壮語、虚勢を張りながら、幕府代表を脅しにかかる。 
弱腰の幕府は遂にイギリスと「日英通商条約」を結び、翌年からイギリス公使は東禅寺(東京・品川)を常宿として使用し始めた。

この頃の日本は、ぺリーやハリスの来日で開国が進むが一方、攘夷論(外国を廃す)も沸き上がり多くの事件も発生している。 
オールコックの強引な外交に業を煮やした攘夷志士(主に水戸浪士)たちが、オールコックとその公使館を襲撃する(東禅寺事件)。 

中でも1862年、江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩主・島津久光一行の行列が生麦村(現、横浜市鶴見区)に差し掛かった所、前方を横浜在住のイギリス人4人が乗馬のまま行列を横切った。これに怒った一部薩摩藩士が斬りかかり、イギリス商人・リチャードソン1人が死亡、他の2人が負傷した、所謂、「生麦事件」である。

この頃、薩摩藩では久光の兄・斉彬の時代から既に西洋列強に対抗するための軍備近代化 (「集成館事業」と呼ばれる) が進められ、斉彬の死後、頓挫していたその事業を積極的に復活・推進させたのが次期藩主となった久光であった。
この事件でイギリスは、さも当然の如く薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求するが、薩摩藩はこれをガンとして拒否する。 

新しく赴任してきたイギリス公使代理のジョン・ニールは、既に幕府から生麦事件の賠償金として10万ポンドを受け取っており更に、イギリス艦隊を引き連れて鹿児島湾(錦江湾)沖に到着、生麦事件犯人の逮捕と処罰、および生麦事件の遺族への賠償金2万5000ポンド(現在の3億円程度)を要求している。
しかし、藩主・久光は「生麦の一件は、武門のしきたりに従ったまでのこと」と薩摩藩はこれを断固拒否する。 
結果として「薩英戦争」が勃発するのである。

生麦事件後の薩摩藩はイギリスの要求には一切応じず、攘夷実行の準備を着々と進めていた。 
実弾射撃演習などの訓練に励み,鹿児島湾内で模擬実戦をも行っている。
この頃、イギリス東洋艦隊七隻が出動して鹿児島・錦江湾に侵入してきた。 
久光は「粉骨砕身し、夷賊を誅伐せよ」の号令とともに、湾岸に配した大砲が一斉に激射を開始するに至る。

英国艦隊も応戦し、激しい砲戦が展開された。 
英国艦隊の艦砲射撃で鹿児島城下北部は焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けた。 しかし、イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷するという大損害を出している。 
艦砲の射程はイギリス軍艦の方が上回るも、薩摩藩は先刻前に射撃演習したばかりの標的近くに敵旗艦が進入してきたために、正確に狙い撃ちができた。 
乱戦の中、イギリス艦隊は桜島を砲撃しながら撤収、損傷艦を応急修理しながら鹿児島湾を脱出していった。

無論、薩摩は英国の近代的な兵器に驚き、藩士はイギリスの砲弾を見て、生まれてこの方一度も見たことのない砲弾だったと驚かない者は誰もいなかったという。 結果として、横浜で両者の和議が成立することになる。
戦乱の結果として、藩主・久光は諸外国の近代化された軍備に驚き、「もはや無謀の攘夷は不可である」と悟ることになる。

その後、薩摩藩は軍備近代化の必要性を痛感、生麦事件の賠償金の支払いと犯人捜査を約束し、又、イギリスも薩摩藩の実力を再評価して和解することになる。
これ以後,両者の関係は親密化し、イギリスは幕府支持から薩摩藩など西南雄藩支持へと傾き、薩摩主導の明治維新へと進んでいくことになる。 
更には、明治期の最大の大戦「日露戦争」でイギリスの補佐、協力を得て、日本は歴史的勝利を得るのである・・!。

次回は、佐多岬

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日本周遊紀行(151)佐多 「佐多岬」





写真:本土最南端の佐多岬と向いの大輪島に建つ佐多岬灯台



日本本土最南端の地・「佐多岬」は、有料観光地・・?、


一時して、大根占の埠頭に着岸した・・、雄川の河口でもある長閑な漁村風の港で、埠頭の周辺には小さな漁船が密集している。 
国道269号を南下すると、程なく道の駅・根占に到着し一服する。 「道の駅・根占」は、本土最南端に位置しているらしい。やや傾斜地に位置していて、駅舎はその高台にあり、錦江湾・開聞岳の大パノラマを眺められる。

実は、大根占町は2005年3月、田代町と合併して、新しく「錦江町(きんこうちょう)」が発足している。
R269を南下すると間もなく「日英戦争の砲台跡」というのがあった。 
“日英”とあるが、実際は“薩英”が正しい表現であろう、古い石垣からは大砲が錦江湾を睨んでいる、なかなか趣があって歴史を感ずる。

R269はこの先も殆どが海岸沿いの道で、錦江湾の静かなる海原と、その向こうに絶えず開聞岳の円錐形が見守っている。 こちらは、「南大隅町」といって、鹿児島県(離島部除く)の東南部、大隅半島の南部にある町で2005年3月、根占町と佐多町が合併して発足した新町である。 
根占という町名は大根占町と根占町と在って、何故か、其々が別の町と合併し、其々の新しい町名を名乗っているのが面白い、何か、曰く因縁でもあるのだろうか・・?。

この海岸道路は、別名「佐多街道」といって諸島を除く本土最南端に位置する「佐多岬」へ通じている、その、佐多岬へ向かっているのであるが。 
佐多の小さな町並みからは、大隈道という内陸を通るようになる、山間部の多少の上下屈曲を繰り返しながら大泊地区へ出た。

ここからは「佐多岬ロードパークウェイ」というチョット長ったらしい名称が付いている、ところで、ロードとウェイはどちらも「道」という意味であり、呼び名が重複しているのでは・・?、その有料道路の入り口へ来た。  
通行券には「佐多岬有料道路」とあり、大泊から佐多岬までの約10キロのドライブウェイで、有料道路のわりにはかなり古そうな道で、カーブもかなり急であり、云わば、ワインディング・ロードともいえそうだ。 
だが、沿道には並木や花壇はよく整備され、ハイビスカスやブーゲンビリア、ビロウ、ヤシの木などの亜熱帯植物が生い茂り、さながら南国の植物園に来たという醍醐味が感じられる。 
一見、通行料の1000円は高そうに思えたが、この側道南国植物園で納得しよう。

途中、「北緯31度」の掲示板があり、はて・・この意味はと思ったが、本土最南端の緯度というわけであろうか・・?。 その下にカイロ、ニューデリー、ニュウオーリンズ、上海、カラチともかいてあり、主要都市の同緯度を示したのであろう。


緯度、軽度について・・、

ところで緯度とは、経度とともに、地球上の位置を示す座標の一つで、緯度は、地図上では上下方向、つまり、その地点における赤道を中心として北極の天頂、南極の天低までの方向と角度で表される。 

赤道が緯度0度となり、北を北緯(ほくい)、南を南緯(なんい)と言い、北極・南極が90度となる。 又、北緯に+(プラス)、南緯に−(マイナス)を付けて表す場合もある。 

緯度10度分の距離は、6370km(地球の半径)×3.14÷180×10の計算によって約1111km であり、当然、1度は111.1kmである。 1度よりも細かい緯度は、1度=60分=3600秒と分割して表現する。 又、1海里は、緯度1分(経度も同じで111.1km÷60)の地球表面上の距離を元に作られており、正確には1852メートルと定義されている。

因みに、北海道最北端・稚内市は北緯45°25'N、東経141°40' E、本土最南端都市・鹿児島市は北緯31°36'N、東経130°33'Eであり、円形地球上の稚内市と鹿児島市の直線距離は計算によって1810kmとなる。 

序ながら経度は、同じ経度の点を結んだ線を経線と言い、子(北)と午(南)とを結ぶ線であることから「子午線」とも言う。 
そして、経度は地球上の時間(標準時)を定める基準にもなっている。

地球の自転・1回転が1日に当たるので、15度移動すると1時間進むことになる。つまり、東経0度から東(又は西)に向かって国際時は決められていて、世界標準時は経度ゼロ(イギリスのグリニッチ)の子午線上の時刻で表され、グリニッチ標準時とも言われる。
日本は明石市が東経135度に位置しているので、日本時間は世界標準時より9時間進んでいることになる。 言いかえれば、日本時間の午前9時が世界標準時の午前0時に当る。 

日本の標準時である日本標準時(JST・地方標準時)は、明石市を通る東経135度の時刻と決められている。 つまり、イギリスが午前0時のとき、日本は全国が午前9時を示すことになる。 尚、経度180度の線が国際日付変更線となる。


終点の駐車場から歩いていくと隅の遊歩道の入り口にトンネルがあり、中の入り口に小さな小屋があって、ここで通行料として100円を支払うようになっている・・?。チャッカリしているがトンネル通行料は兎も角、園内の環境整備代と思えば良しとしよう。

トンネルを抜けると遊歩道になり、御崎神社という真赤な屋根の派手な社(やしろ)が鎮座していて、航海の守り神として崇められているとゆう。 神社の右手の道を行く、岬突端の展望台までは起伏のあり、両側が切り立ったやせ尾根の稜線でスリルもあるが展望もすこぶる良い。 
途中、休憩所・レストハウスという建物の脇を通るが、閉鎖されていた。 最後に、展望台の建物に着く、

「日本本土最南端・佐多岬」
と標識が立つ。 
すぐ前には大小の島々が並び、一段と大きく屹立した大輪島に白亜の灯台が建っていた。 そして、やや遠くなったが相変わらず薩摩富士の姿が遠望でき、周辺海域は地球の丸さ・・?を実感できりのである。 
地球の丸さ云々は脇へおいて、やはり岬の先端というのは当然ながら絶景なる風景であり、何度見ても良いものは良い・・!。

因みに、日本本土・最北部は北海道稚内(宗谷岬)、最東端は同じく北海道根室市(納沙布岬)、最西端は長崎県佐世保市小佐々町(佐世保市小佐々町の神崎鼻先端部であり、神崎鼻公園と本土最西端のシンボル塔が建っている)で、其々、「四極交流盟約」というのがあるらしい。

次回は、「吾平」(あいら)

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日本周遊紀行(152)吾平 「吾平山稜」



「吾平」と「姶良」は同じ読みながら、その関連性は・・?、

佐多岬の断崖絶壁からの展望を満喫して戻ることにしよう・・、 R269の大根占までは先刻見慣れた風景である。 
大根占町(旧)の東隣の町に「吾平町」(あいらちょう)がある。 


ここで、先般「川内」の項でも若干記したが、「吾平山稜」(あいらさんりょう)について・・、

吾平町の中央部に、あの薩摩・鹿児島県の神代三山稜の一つで「吾平山稜」が鎮座している。 
山陵とは、一般に天皇・皇后の塚墓のことであり、吾平山稜の祖霊は、神武天皇の御父君・鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、 そして御母君である玉依姫(タマヨリヒメノカミ)のものとされている。

境内は清流と神聖な樹木が鬱蒼として清々しく、数百米にわたり玉砂利が敷き詰められ、別世界のような静かな世界であり、雰囲気が伊勢神宮の内宮に似ている処から「小伊勢」とも呼ばれているという。 

拝殿の前は沼池が配してあり、その向こうに本殿御陵が岩窟の中にあって、神代三山稜の中で随一岩屋の陵になっている。その窟内に大小二つの塚があり、大きい塚が神武天皇の御父君、小さい塚が御母君の御稜とされている。 

この御陵山を鵜戸山(うどさん)といい、窟を 鵜戸窟と称している。
鵜戸というと日南の鵜戸神宮と同じで、こちらの神宮は鵜草葺不合を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの六代の皇祖神を相神として奉っている。 
この神宮へは本日この後訪れる予定である。
吾平山稜は昭和10年11月、昭和天皇が御親拝になり、昭和37年 5月には皇太子(今上天皇)、同妃殿下が御参拝されている。 正月、初詣には近郷近在から、数万の参拝者がお参りされるという。


ところで、薩摩には「吾平」と「姶良」というの二つの「アイラ」自治体が存在する・・、 


姶良は、鹿児島市の北、両半島(薩摩、大隈半島)の付け根に当る地域に姶良郡姶良町である。 一方、こちら吾平と書くと、普通「ごへい」と読んでしまいそうだが・・、この、二つの「アイラ」には何か関連性があるのだろうか・・?。
この吾平山稜の脇を流れているのが姶良川(あいらがわ)で吾平町中心を北流している。そして元々、吾平町は姶良郡姶良村という自治体名であったという。 

古代、この地方は大隅国で四つの郡があり、その中に姶羅郡(あいらごうり)があり、一方、始羅(しら)郡と呼ばれていた地域があったそうで、「姶」と「始」の文字は似ているので紛らわしく判別が付き難い、その為、近代以降単純化して「姶良郡」に統一されたとも言われている。 
これにより近年、姶良郡姶良町が発足し、吾平山稜の周辺地においても姶良村や姶良川等の地名、固有名が起こったとされている。 そして、姶良村は1947年(昭和22年)町制施行の際「姶良」を「吾平」と改めているのである。

吾平という町名は、吾平山陵が由縁であることは確かだが、尚且つ、神武天皇の妃(きさき・妻)の御名が「吾平津姫」(アヒラツヒメ)と称し、故に吾平山稜、吾平町が誕生したとされる。 
アヒラツヒメの吾平(アヒラ)を「あいら」と読み、吾平と姶良の読みが同じなのは偶然かも知れない・・?。

「吾平町」は周辺の鹿屋市、輝北町と2006年1月1日対等合併し、新市制による鹿屋市となっている。又一つ、歴史ある町名が消えることになった。



相変わらず見通しの良い海岸道の一本道が続く、R269から一部県道を乗り継いで、R220を行くことになる。 
鹿屋市の高須、天神、古江、垂水市の新城、宮脇、柊原、浜平、垂水と大隈半島・錦江湾沿いの地名が連なるが、かってはこの地を鉄道が走っていたらしい。
日豊本線・国分駅から鹿屋を巡り、高須から大隈半島を横断する形で吾平町を通り、日南線・志布志迄行く国鉄・大隈線であった。 

結局は国鉄合理化の一環として1987年に廃止された路線であり、全通してからわずか15年目のことであったという。 
当時は、鹿児島市と鹿屋市を結ぶ幹線鉄道であったが、鹿児島湾をぐるっと廻る為に鹿児島湾を渡る船便の方が速く、移動するには致命的な欠点があったとされた。 
又、沿線は人口が少ないうえ、自動車の普及が盛んになり、国鉄経営再建のためにも廃止につながったようである。

次回は、鹿屋    PartUへ


PartUへ     写真集 V    日本周遊ブログ
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