日本周遊紀行



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日本周遊紀行(146)鹿児島 「西郷南州遺訓」

『南洲翁遺訓』は、旧庄内藩・藩士が作ったものであった、それは何故か・・、

『 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。 』

『 人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くし人を咎(とが)めず、我が誠の足らざるを尋(たず)ぬべし。 』

南洲翁遺訓」の中の一節である。
この小冊子は鹿児島とは程遠い、山形・庄内藩士が出稿したものである。


それは何故か・・?。

庄内藩(今でいう山形県米沢)は、鳥羽・伏見の戦いの契機となった江戸薩摩藩邸焼き討ち事件や戊辰戦争では、薩長・新政府軍に執拗に抵抗した藩で有名である。 そのため、戦後、藩内では厳重な処罰が下るものと覚悟していた。 
しかし、実際は、温情ある極めて寛大もので、これには陰で西郷隆盛が指示したもの言われている。

西郷の考えは、敗戦者といえども新しい時代の同胞である・・と。 そのことを知った旧庄内藩の人々は西郷の考え方に甚く(いたく)感激、感謝し、後日、人知れず筋道をたてて西郷を訪ね、教えを請うようになったという。 
旧藩士76人を引き連れ、明治3年(1870年)に、鹿児島の西郷を訪ね教えを請い、薩摩の人材教育を学んだ。 後年、西郷から学んだ様々な教えを一冊の本にしたのが、明治23年発刊された「南洲翁遺訓」である。

尤も、西郷の寛大な処分については、もう一つの理由も有ったとされている。 それは豊富な財力で庄内藩を支えた酒田の豪商・本間家の存在を指摘している。 
本間家でも学才のあった本間郡兵衛は幕末薩摩を訪れて勉学を重ねながら、一方では経済面においては藩の御用向き等を株式組織にするよう提案している。 西郷は郡兵衛を通じて本間家を知り、その財力に目を付けたのではないか・・、とも言われている。


城山の北東約1キロメートルの所、鹿児島駅裏手の錦江湾と桜島を望む丘に、西郷隆盛をはじめ桐野利秋、村田新八など西南戦争で戦死した2023名が葬られている。
南洲とは勿論西郷の号名で、墓地中央にある彼の墓は一際大きい。 

その整然と居並ぶ墓石群は異様な迫力に満ちているといい、それは東京へ向って今まさに進軍しようとする薩摩隼人の隊列を思わせるという。 この中には熊本、宮崎、大分といった九州出身者が多いが、中でも目を引くのが東北の山形・庄内藩出身の二名の墓誌が設えてあるという。 

西郷が私学校を開くと伴兼之(20歳)、榊原政治(18歳)の2人が遠路庄内から鹿児島に学び、西南戦争が勃発するとそのまま従軍を願い出て、壮絶な戦死をしているのである。 
墓地の両側には西郷隆盛を祭る南洲神社、西郷南洲顕彰館などがある。そして、山形県酒田市の飯森山にも「南洲神社」が鎮座している。 
戊辰戦争降伏により、厳しい処分を覚悟した庄内藩であったが、意に反して極めて寛大な処置を指導した西郷南洲公を心から敬慕することとなり、昭和51年、かの地、鹿児島の南洲神社から霊を分祀し祀っているという。

「西郷隆盛」という人間像・・、

西郷を観るとき、多くの歴史家の間で倒幕までの西郷は評価するが、維新後の彼は保守反動的で旧武士階級、つまり薩摩士族の既得権益を守ろうとする守旧派だったと切り捨てる向きもある。 政治家として死に場所を求め、故に戦争を想定して朝鮮への使節を自ら望んだと。 
西郷を記した「翔ぶが如く」の司馬氏も「西郷には維新後の国家設計の青写真はなかった」と述べている。

しかし、西郷は藩政において一時期、税徴収など積極的に藩の仕事をこなし、農民達の苦渋の有様を見聞して回っている。 又、藩主・島津斉彬に見出され、欧米列強から守るため近代技術を導入しようとした藩主の手助けをしているのであり、この西郷が将来の国家像を描いてない訳はないのともいう。 
明治の思想家、内村鑑三は「西郷は常に“私捨公人”の人で、彼ほど人生に欲得の無い人物を知らない」と感嘆している。


西郷隆盛はどんな人物であったのか・・?、 

なぜ多くの人が西郷を慕い、戦いに従い、庶民がその死を悼み、肖像画や銅像を造られたのか・・?。 権力のトップに上り詰めても人間のあり方、モラルや道義を重視し、政治や外交の場でもその人間性を貫こうとした。

児孫に美田を残さず」の如く、地位や金銭、名誉には淡々として、権力には驚くほど執着が薄かった。維新が達成されて明治以降西洋的な近代的、合理主義が導入される中、日本人らしく大儀に重んじ、「道義の巨人」ともいうべき人物が西郷の人格そのものであったのである。

次回は、鹿児島市内

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写真:市内目抜き通りにある鶴丸城址と照国神社



日本周遊紀行(146)鹿児島 「鹿児島市内」



市内・加治屋町界隈は歴史上まれにみる一角で、幕末から明治時代にかけて近代日本の創世に携わった多くの偉人たちが生まれ育ったエリアである・・、


再び、国道(R10)へ戻る、そのまま城山の麓を行くと、まるで歴史街道とも思える史跡や記念館、神社がずらっと並んでいる。 薩摩義士碑、鶴丸城址(鹿児島城)、黎明館、私学校跡、西郷隆盛像、護国神社、照国神社等々・・。

鶴丸城は「城をもって守りとせず、人をもって守りとなす」という兵学精神に基づいて築城された。 

この城は、一般に知られる戦闘に備えた高い石垣の上に、天守閣の聳える堅固な防備の城郭とは異なり、天守閣のない屋形造りの居館であった。 関が原以降の江戸初期、島津家久が築城、幕末まで島津家の居城となったが・・、

島津家は、鎌倉幕府の創立以来700年間変わることなくこの地を収めている。
藩内は鶴丸城に一極集中して藩経営を行うのではなく、その周囲に「麓(ふもと)」や「郷」といわれる武士集落を構成し、地域の行政を執り行わせるための外城(とじょう)制度というのを設けていた。 
薩摩藩は77万石といわれ、加賀藩102万石に次ぐ雄藩であったが米高に直すと37万石程度であったともいう。 また、総人口の4分の1が士族であり、この比率は全国平均の6倍にあたり財政的に非常に苦しかったという。 



その鶴丸城館は、数度の火災で焼失している・・、

征韓論に破れて下野した西郷隆盛は、この焼け跡に「私学校」を設立した。 それは薩摩王国の行政機関のようでもあり、軍事調練所でもあった。 現在は、西南戦争の弾痕が目立つ石垣と内堀が残っている。

市街通りの中心部といえる市立美術館のすぐそばに、樹木に囲まれて西郷銅像がスックと立つ・・!。 台座とあわせると高さ8mの巨大銅像であり、軍服姿で凛々しく天を仰いでいる。 
顔の感じも上野の銅像に比べる服装も異なり毅然としていて、西南戦役時の緊張感と城山での最後の男の魂の覚悟が表情から読み取れる。

因みに東京上野のシンボル・西郷銅像は筒袖に兵児帯(へこおび)を締めた着流しで、犬を連れていることは周知である。 
銅像の作者は、詩人で彫刻家でもあった高村光太郎の父、高村光雲の作で明治31年12月竣工除幕した。 こちらは、男の仕事をやり終えた満足気な表情であるが・・?、除幕式に参列した夫人のイトさんは「全然似ていないし、うちの人はこんなみすぼらしい格好をしてなかった」と嘆き、二度と上京はしなかったともいう。 
西郷像は彰義隊のお墓に尻を向けて立っていて、彰義隊の怨霊、上野戦争の亡者が悪さをしないように、沈める為に建てられたという説もある。


国道10号線と3号線の境目の交差点には、広々とした境内に照国神社がある・・、

島津斉彬を祭神としてまつる神社である。 
薩摩藩主28代・島津斉彬は僅か7年の藩主のあいだ、先にも記したが西洋文明の吸収に努めて、工業を興し(集成館事業)、西郷隆盛や大久保利通らを育て、近代日本の基礎を築いた名君である。 境内には斉淋、久光、忠義三候の銅像が立っている。

更に、1km先、鹿児島中央駅前の、台風時の洪水でも有名になった「甲突川」(こうつきがわ)界隈は加治屋町といって、歴史上まれにみるユニークな一画である。 
幕末から明治時代にかけて近代日本の創世に携わった多くの偉人たちが生まれ育ったエリアであり、 周辺は西郷隆盛、大久保利通をはじめ、少し歩けば大山巌、村田新八、東郷平八郎など、余りにも有名な偉人たちの生誕の碑が残る一画なのである。


なぜ、このエリアから偉人たちが多く育ったのか・・? 

薩摩藩特有の外城と言われる一角の武士達は「郷士」と呼ばれ、西郷隆盛と大久保利通は、たまたま同じ界隈に暮らし、お互いがいいライバルだったといえる。
西郷は島津斉彬に、また、大久保は島津久光に登用されたが、そんな二人の大先輩を慕って大山巌や東郷平八郎など多くの偉人たちが次々と育っていったのである。 「人をもって城となす」半農半士の武士を住まわせ、それぞれの外城での郷中教育が徹底していたともいう

ところで、城山山麓には薩摩藩にちなんだ史跡や神社が多く存在し、併せて神社仏閣といって、大抵の場合それらに伴った寺院が存在している訳だが、その寺院仏閣が見当たらない。 

調べてみたら一箇所在った、JR線と国道10号が交差するところに、一寸モダンな「高野山最大乗院」という真言宗の寺が・・、 島津氏縁(ゆかり)の場所に建つ寺院として歴代の藩主の尊崇が厚い寺院であった。
しかし明治2年の廃仏毀釈の時、最初にターゲットとされ破壊された寺であり、現存するのは明治29年に創建したもので比較的新しいという。


薩摩の名刹・寺院は・・?、

仏教王国の日本は各地に名刹・古刹と呼ばれる寺院が残され、「京都八百八寺」と言う様に、異なる空間を散策できる楽しさがあり、昨今ブームの和辻哲郎や五木寛之の《古寺巡礼》の世界などが体験できる。 しかし、ここ薩摩の地、鹿児島県には数千年の時間を超えた静寂なる風情を味わえる寺院が皆無といっていいほどない、特に仏教寺院に関してはこれが顕著だという。

今は「○○院跡」という碑や破壊をまぬがれた墓石や仁王像があるのみと。
明治維新の歴史の中の暗い一面として、「神仏分離」併せて「廃仏毀釈」の政策があり、全国に嵐のように飛び火した時である。 
薩摩の地では、顕著にその傷跡が各地に散見されるという。 薩摩での廃仏毀釈運動は、既に江戸期の末頃には始まっていたとされている。

江戸期に林羅山などの朱子学(権力支配の正統性を説く)が盛んになり、元々、薩摩には薩南学派と呼ばれる筋金入りの朱子学の伝統があり、この思想が国学へ転向していく。 
国学は国体を維持する、所謂、富国強兵が基本になっている教えであり、長い間の伝統で寺院を軽視する思想の土台が用意されていたのである。

幕末の薩摩藩にとって何よりも富国強兵が必要で、そのためには、寺院勢力からも経済的助成が必要になり、従って、いち早く神仏分離政策を推し進め、藩内の寺院の僧侶は兵に、梵鐘を徴発して武器製造に充当したとされる。 

名君の誉れ高い島津斉彬もその意志は受け継がれ、島津久光もその藩全体の意志を奉じる形で、神仏分離政策を推進していった。 
維新を迎えた薩摩では、新政府の財政難を支える意味からも、寺院の財産没収と僧侶の兵士への転職の一石二鳥政策が進められ、この結果として藩内の寺院1000程度が廃寺となり、3000人の僧侶が失職、結果として多くが軍人となり薩摩藩が得た財源は、寺領合わせると約10万石にも達した言われている。



本土終着の地・鹿児島は各国道の終着、始発にもなっている・・!、

照国神社の前の左右、正面の広い通りは、海岸に向かって左は10号線、右が3号線、そして正面が薩摩半島の沿岸を一周している226号線である。(実際は225であるが市内で226に引き継ぐ)

国道3号線は大江戸・日本橋の1号線より発し、大阪駅付近梅田より2号線、福岡県北九州市門司より3号線となって鹿児島に至っている。 

3号線は主に九州の西側の主要都市を通るのに対して、同じく北九州市門司より発して東の主要都市を巡って、同地点へ至っているのが10号線である。
そして、すぐ横の西郷銅像の正面の道は、国道58号線で海岸に向かっている。 

この国道58号線市内は、たった700メートルの短い国道で、「朝日通り」との愛称があるが、驚いたことに、この国道は実は沖縄まで延びていたのである・・!!。 
途中、種子島、奄美大島を経て沖縄本島に達する、所謂、海上区間が大部分を占めているのである。 小生もそうだが、沖縄を訪れた人は、この58号線が沖縄本島の大幹線道路になっているのである。 


そして、国道58号線のその距離であるが・・、

陸上距離では255kmで、海上区間を含めた場合だと総延長は約857kmとなり、日本国内の最延長である。
国道4号(東京・日本橋から青森の全長739km)を抜いて日本最長の国道となっているのである。
いやはやである。



因みに、一般の国道に関しては・・、


整備とその番号は1952年(昭和27年)に道路法が全面改正されたことにより決められている。 
新しい道路法では一級国道、二級国道、都道府県道及び市町村道に分けられ、国道は一級国道と二級国道に分けられることとなった。 

一級国道は国土を縦貫し、横断し、又は循環して全国的な幹線道路網の枢要部分を構成し、且つ、都道府県庁所在地などを連絡する道路とされ、政令で指定されている。 
現在、一級国道は40路線が指定され、又、二級国道について144路線が指定されている。 
路線番号は一級国道は1桁または2桁とされ、二級国道は3桁とされ、基本的に北の路線から南へ行くに従って数字が大きくなるように採番されている。(尚、事情が特殊な北海道については最後に回されたため、正確には本州東北地方〜中国地方、四国、九州、北海道の順に採番された)

因みに、東海道に相当する路線が国道1号、山陽道に相当する路線が国道2号、そして、主に九州西海道である国道3号線は北九州市から鹿児島市を結んでいる。 
大江戸日本橋より薩摩・鹿児島の照国神社前までの総延長距離は1490.7kmである。

序ながら、小生の自宅から本日の指宿までの車での総走行距離は4904kmであった。

次回は、「知覧」

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写真:清楚な知覧武家屋敷と「知覧型二つ家」



日本周遊紀行(147)知覧 「外城・武家屋敷」



知覧・麓の薩摩郷士も知覧茶を栽培した・・?!、


その226号線で指宿温泉方面を目指す。 
暫く、鹿児島の喧騒の街中を行くが、やがて、錦江湾の海べりへ出てホッとする瞬間である。 程なく「平川」という大きな交差点に至ると標識に指宿・知覧とあった。 

知覧とは、あの大戦中の「特攻の知覧」というのは記憶にあったし更に、地図を見ると「知覧麓武家屋敷」とあった・・、先ずそちらに向かおう。 丘陵地のジグザグの道を暫く行くと、指宿スカイラインと交差する。 
スカイラインは鹿児島市内より(九州道に直結)錦江湾を望みながらの、丘陵山地を薩摩半島南端の池田湖へ至る、いわば観光道路であろう。

知覧I・Cを横目にながら手蓑峠を超え、知覧町内へ近ずくに従って目に鮮やかに茶畑が見渡す限りに広がる。 
我々東国の人間は「知覧茶」というのはめったに耳目にしないが、何でも鹿児島県のお茶の面積・生産量は、静岡県に次いで日本第2位を占めてるという。 中でも全国茶品評会で連続日本一を受賞、皇室献上茶の栄光を得るなど品質についても折り紙つきだといわれる。 

知覧茶の起源については、平家の落人が北部山間地の手蓑地方においてお茶の栽培を始めたという古い言い伝えが残っている。 本格的な栽培は明治の初年頃で、標高200m〜500mの山麓に拓けた山間冷涼の地が適した生産地といわれる。 
昭和20年代頃までは林業と組合わせた茶業経営であったが、30年代になってからは生産も拡大され、緑茶の製法は技術的には京・宇治茶を伝習し、生産拡大に努めたという。



「知覧」の町へ入った、清楚で美風な町並みであることが先ず印象に残った・・、 

一直線の道路の両側に清流が流れる大きな側溝を配し、その清水に錦鯉が悠々と泳いでいる。 
そして、この広い表通りを一歩中へ入ると「薩摩の小京都」呼ばれる武家屋敷群が広がっているのである。 先刻、出水の武家屋敷群を拝見したが、屋敷群造りの目的は同じである。


知覧・麓という武家屋敷・・、

知覧・島津公の時代(18世紀中頃)に整備された武家屋敷群は、薩摩藩の本丸・鶴丸城を中央拠点として113ヶ所の外城を設け、薩摩藩は武士を郷村に集住させた。 
平静は農業に従事させながら武道を訓練し、一朝事ある時は、戦場に向かわせる武農両道の郷士制度を推進したという。 
その郷士の居住する地区を「」と称し、知覧もその一つである。

苔むす石垣に、緑の生い茂る垣根が見事な造作美の屋敷群であるが、こちら知覧の特徴の一つに、戸別の垣根の内側にはこれまた美しい庭園が築かれていることであろう。 
庭園自体も実に繊細で美しく、小振りながら京都や鎌倉の庭園と比べても遜色がないように思われる。 ただ京都や鎌倉の庭園のように“侘びとか寂び”とか、枯れた幽玄の世界ではなく、南九州という土地柄もあってか南方系の植物が青々と生い茂り、更に、高低、奥行きの立体感を表し、生命の躍動の世界を表わしている。 
これらの庭園を「知覧麓庭園」と称し、主なもものは国指定の名勝にもなっているという。 知覧麓は、一種の庭園都市と言うべき貴重な街並みを、今日に伝承しているようである。

知覧屋敷群の一つに、建築手法としては珍しい「知覧型二つ家」というのがある。 
藁葺き屋根がL形(直角形)の平面構成を成しているのが特徴で、出入り口が「おとこ玄関」、「おんな玄関」というのが二箇所ある。 これは琉球の民家と共通するものというが、二つの屋根の間に小棟があるのが知覧型二ツ屋とも言われるようである。(国指定文化財)

尚、これらの屋敷は一部見学用を除いて、現在でも子孫の方々が住居として利用されている。 やはりというか、武家屋敷から裏手の一角は名産・知覧茶の畑が無際限に拡がっていた。 

平穏静寂なこの町並みに時折、平日にも関わらず大型バスの団体客がゾロゾロと来場し、中でも外国人グループ(中国、韓国人・・?)が大声で嬌声を発している様は、一寸頂けない・・!。

次回は、知覧の「特攻記念館    PartYへ

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