日本周遊紀行



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 18日目:PartV(隼人、薩摩)   PartW(鹿児島)へ       写真集V  日本周遊ブログ
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日本周遊紀行(144)隼人 「熊襲と隼人」



神話と歴史の中心地、大隈隼人の「隼人」とは・・、

霧島神宮を後にして、国分、隼人方面に下る。
この地方は名称からして、往時の薩摩地方の中枢部といえるのではないか・・? 西の川内から入来、姶良、牧園、霧島、そして、この地の隼人、国分、都城、西都、日南、その他の周辺地域も古代日本の歴史の表舞台に出てきている。

古代の九州の南部地方は「日向の国」(ひむか、ひゅうが)と言われて「日向:ひゅうが」、「薩摩:さつま」、「大隅:おおすみ]に分けられたは、律令国家が成立した奈良朝以降のことである。 

この隼人、国分は薩摩(地域)半島と大隈(地域)半島との付け根、中間に位置しているが、どちらかと云えば大隅地域に属しているという。
この地に「大隅隼人」という人種が根拠を持っていた部族を「隼人族」という。 
古代の隼人族は北方系の民族であるとか、沖縄経由の南方ルートからやって来た(隼人・ハヤヒトのハヤはハエ・南風で東南アジア方面を指すとも、国分市上野原遺跡〉民族と関係があるとか伝説、史実入り混じり諸説あるようだ。 

この辺り「熊襲」という名も目に付く。 熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する一族名で、南九州に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗した一族名であろうが、地域名をも意味するとされる語でもある。 日本書紀には「熊襲」と表記され、古事記には「熊曾」と表記されてる。

有史の初めのころは熊本の南部の広い地区を「球磨」と呼び、現在の宮崎県の日南海岸から鹿児島県大隅半島の志布志湾以北を「曽於」とよび、総称として球磨と曽からいつの時代からか「熊襲」と呼ぶようになっていたともいう。 その熊襲が、隼人のルーツであり対象とされるともいわれる。


熊襲というと、北海道・東北の蝦夷(エミシ)を連想する・・?。 

蝦夷については、アイヌ民族とのかかわりで歴史上の様々なできごと、とりわけ何世紀にもわたるヤマト政権つまり天皇制国家との紛争を通してある程度のイメージを描くことできる。 
これはアイヌ文化と伝来の弥生文化(稲作における)の抗争でもあるとされるが、しかし熊襲・隼人は、蝦夷にくらべて早いうちからその独自な人間集団としての存在感を失い、まったく過去の存在となってしまっていた。 

一般に、蝦夷地は日本古来のアイヌ民族の地であり、大和朝廷に属さない東北以北の原住民であったが、朝廷に服属した後は俘囚(朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷・アイヌで、同化の程度の浅いものは夷俘・イフと呼んで区別)と呼ばれた。 
熊襲は隼人族の地であり朝廷に属さない南九州の原住民であったが、朝廷に服属した後は熊襲とは言わず隼人と呼んだようである。 


熊襲、蝦夷の共通するのは縄文期における日本の原住民であったことである・・、! 

西日本は大陸人(いわゆる弥生渡来人系)による開発が早くから進んだため「熊襲」は、ほぼ7世紀頃までに駆逐され、その頃の弥生人の武勇伝が古事記に盛んに記録されている。 
しかし、東日本は8世紀はおろか10世紀頃になっても、まだまだ未開地(朝廷の統一国家以前)ばかりだったので縄文人の駆逐が遅れ、弥生人の進出が出来なかったので古事記などの記録には東日本はあまり登場しない。 古事記に東日本があまり出てこないからといって、東日本に人が住んで無かったわけではなく、多数の縄文人の天国だったからである。 

ただ、「蝦夷」というのは当時(14世紀以前)は東北に限定されていたのではなく、中部山岳を挟んで東日本全域が蝦夷だったとも言われる。 
熊襲や隼人についての一般的な文献も、蝦夷に比べて目にすることが少ないと言われ、目下、調査、研究がなされているという。

ただ、熊襲つまり隼人族は、現在の薩摩隼人に繋がっていることは確かである。 
熊襲につながる地名として、現在も肥後国球磨郡、大隅国贈於郡が残されている。 

2005年7月には曽於郡の末吉町、財部町、大隅町が合併し「曽於市」(そおし)が誕生している。 この三町は、古代から熊襲(曽・くまそ)と呼ばれた人々が住む曽の国であって、「曽於」の名は昔から人々に親しまれているとし、この歴史ある地名を後世に残したい願いが込められて付されに違いない。

古代大和朝廷の起源は不透明ながら、「大和朝廷や天皇家の起源は百済人の子孫である」と言うのはほぼ定説となっていて記・紀等にも記述がある、つまり北方系の人種といえる。 
渡来人である新進大和族は、鉄器文明や稲作文化を同時に北九州地域に上陸させている。
やがて、中央(畿内)に拠点を得た大和朝廷は中央集権化を計るが、九州南部の地・熊襲・隼人族は大和の中央政府に対する抵抗を繰り返す。 


日本武尊の熊襲征伐・・、

記・紀の中では日本武尊(ヤマトタケル)が九州南部の熊襲を攻めた話は有名であるが、史実においても大和朝廷にはむかったことは知られている。 
この時、隼人は大隅・日向(当時は“ひむか”とも称した)に7ヶ所の城をかまえて抗戦し、国府などを襲撃したりするが、この時、万葉集で有名な歌人・大伴旅人が率いる大和朝廷の遠征軍に敗れている。 

更に、大宰府の反乱(朝廷の中枢にいた藤原広嗣・ひろつぐが大宰府に格下げ左遷され、広嗣は大宰府の手勢や隼人などを加えて朝廷に対し反乱を起こす)のときも、中央政府軍に鎮圧されている。
初め隼人のゲリラ戦法に手を焼き、激しい戦いが1年数ヶ月も繰り広げられたが、兵器と兵力に勝る政府軍によって敗れ去っている。この時の犠牲者は1000人以上の隼人たちが首を切られたり、多くの者が捕虜になったという記録も残っているという。

奈良時代も半ばになり、大和朝廷による支配力が強まってくると隼人族の抵抗は弱まり、隼人の国も分裂し、隼人の族長の中には県主(あがたぬし・大和朝廷時代の県の支配者、当時の大県や小県)や国造(くにのみやつこ・「国の御奴」の意、古代一郡の地方長官)になる者もいて、こうして隼人の国は大和朝廷の支配、構造の中に取り込まれてゆくことになる。

次回は、更に「薩摩隼人」

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日本周遊紀行(144)隼人 「薩摩隼人」



薩摩地方は、中央政府(権力者)との抗争が古代より近代に至るまで変わらなかった・・、

645年の「大化の改新」の後、中央政府は土地私有を禁じ、地方豪族の所有する土地や人を開放して中央政府の管理下に置くとした。 
所謂、「公地公民制度・班田収授制度」を採用する。 班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)とは土地制度と税の仕組みのことで、日本の律令制の根幹制度の一つであり、概ね、租税として田から採れた稲の約3%を収めることとした。


隼人族の衰亡・・!、

大和朝廷と隼人族との戦いは、蝦夷のアイヌの抗争と同様、西南端においての稲作奨励の戦であり、制度を設けて稲作による米の収税を行うのが主目的であった。
又、北方民族と南方系の人種との争いでもあった。

隼人族は大和朝廷への降伏条件として、交代で一定人数が中央政府の雑役に服す義務を課せられ、大和朝廷の門衛や行列の供人、兵士といった役務に就いている。 
又、土地制度による納税義務を果たせない農民たちは中央政府の衛士(兵隊)など、労働力で補うようになっていた。 


こうして、隼人族は大和民族と次第に“同化”してゆくことになる・・、 

この時期、朝廷等に仕えることになったのをきっかけに多数の隼人族(大隈隼人)が近畿地方に移住していたという。
これらの隼人族を「畿内隼人」と称し、丹波、近江、大和の国に移住したといわれ、特に、大隈隼人の移住の地は山城国綴喜郡大住郷(京都府京田辺市大住)で、大隈隼人が移住し荘の名を付けて「大住」としている。

然るに現在、北海道でアイヌ民族は存在するが、隼人民族は存在しないという。(元々、隼人族と大和族は同一民族という見方もあるが・・、)
因みに、班田収授制度はやがて鹿児島県だけでなく九州全体に広がり、当時の名残の院や別府といった地名が多く見られるようになる。
又、班田収授制度に拘束されない開墾田はやがて荘園の発達へと繋がっていくことになる。

律令国家である朝廷を中心とする安定した平安期も、中期になると東国では「平将門の乱」が起こり、将門謀反の報はただちに京都にもたらされる。
また同時期に西国では「藤原純友の乱」の報告もあり、中央政府軍対地方反乱軍の武士団間の抗争が起こって朝廷側は驚愕する。 
この頃より「律令制度の崩壊」が起こりはじめ、武士団が台頭するようになり、中でも「平忠常の乱」が起こって源頼信が平定するという、源平両氏の兵(つわもの)が歴史の表舞台に現れることになる。 

その後、平安末期には保元や平治の乱が起こり、源氏(源義朝)や平家(平清盛)の武士団が台頭し、貴族中心の社会が目に見えて衰退してゆくことになる。


九州・薩摩に「島津氏」が出現・・、

九州・薩摩地方でも平安末期の源平の争いでは平氏側の薩摩は苦杯をなめ、新興・源頼朝の「鎌倉」の勢力下に入る。 
この時、日向・薩摩地方は、鎌倉より派遣された「島津氏」によって支配されることになる。(詳細は後報) 

島津氏は、室町期は中央の南北朝の動乱に巻き込まれ、戦国期は豊臣秀吉軍と地元で直接対峙するが、講和して領土は安堵されている。 
しかし、関が原では西軍に組して徳川家康と対立し、敗戦の憂き目を見るが、その後、徳川家康と硬軟とりまぜての交渉で薩摩藩・本領(77万石)は辛うじて安堵される。 
関が原での島津兵の剛強ぶりを知る家康は無理押しして内政が混乱することを恐れ、島津とは妥協したとされる。 

比較して・・、毛利藩の10州から2州への減封に比べると島津の本領安堵は大成功であり、それにしても、凄まじい島津の戦いぶりに家康は驚くばかりであったという。 
しかしこの為、江戸期においては勃興する江戸・徳川政権下、薩摩は忍従の時代を強いられるのである。 


しかし、「薩摩隼人」は、この忍従の時代を経て江戸末期には、遂に日本国の中枢に躍り出ることになる・・!!。 
薩摩地方は、こうした中央政府(権力者)との抗争が古代より近代に至るまで変わることはなかったのである。
尚、薩摩地方、薩摩隼人そして島津氏については、この後、おいおいと述べます・・!。

次回は、薩摩・島津氏

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日本周遊紀行(145)薩摩 「島津氏」



以外だった、島津氏と堺商人の関係・・、

400年前天下分け目といわれた「関が原」に、東西合わせて17万余の大軍が対峙したそして、慶長5年9月(西暦1600年10月)、遂に戦線の発端が開かれた。 
諸端の開戦からしばらくは西軍有利の状態が続いたが、突然の小早川秀秋の東軍・徳川方への寝返りによって形勢が一気に逆転し東軍が優勢になった。 
西軍は一斉に退却を始め、その西軍の中に薩摩軍の島津義弘がいた。 屈強で知られる島津軍であるが未だ一発の銃砲も打たなかった、それは国元が「中立」を決め込んで援軍をよこさなかったためともいわれる。 


薩摩軍、「関が原」敗退・・!、

西軍総勢が退却する中、凡そ1000人の島津軍は突然、前へと突撃を始めた、敵将・徳川家康の本陣を突くために。 
東軍本陣がたじろぐスキに、島津軍はそのまま伊勢路から甲賀へと退却する。東軍も激しく追撃して殿軍(しんがりぐん)との戦いとなり、滋賀の信楽(しがらき)から奈良を抜け堺に辿り着いた時は、主従は80人に減っていたという。 
堺衆は義弘を匿い、その間に船や食料を調達して島津軍はようやく薩摩へ脱出した。 

帰国後、薩摩は軍備を強化し徳川方の来襲に備えたが、家康は攻めてこなかった。 
それは薩摩の巧妙な外交もあったが、家康は島津軍を極度に恐れたからであるという。 
退却の最中でも1000人が80人になるまで奮戦し、その強固な軍武魂は既に天下に知れ渡り、家康はそれを恐れたともいわれる。


戦後の始末において・・、

西軍の首謀者や各武将は捕縛されて斬首されたり、領地の召し上げや減封が行はれたが、島津氏は西軍の中で例外的に薩摩、大隈、日向の領地をほぼ現状維持で安堵されたという。
その後の薩摩は2百数十年に亘り藩を改革し、近代化し、国力を蓄えた。それが、明治維新の原動力となったことは言うまでもなく、維新という日本史上最大の改革の源流は関が原そして「堺」に有ったとも云われる。


その堺と薩摩の繋がりは鎌倉期から有ったとされる・・、

通説では源頼朝の御落胤とされる薩摩家初代の忠久は、大阪の住吉に生まれているという。堺の商人はこの住吉大社に参詣して忠久とは浅からぬ因縁があり、忠久の二代目・忠時は住吉地域の地頭を勤めたことも記されているという。 

又、室町期、堺の商人達は紀伊水道から土佐沖、南九州をして琉球にまで交易を発展させていた。 
室町幕府は琉球貿易の管理を島津氏に任せたため、堺と薩摩は強く結びついていたとも言われる。 
現在の堺衆も「明治維新は薩摩をして、堺からはじまったんどっせ・・」と言うそうである。

そして、遂に江戸末期、文明開花の為に薩摩隼人は動くのである。


その薩摩・鹿児島で最も尊敬されている人物といえば、やはり「西郷隆盛」であろう。 
土佐の坂本竜馬もそうだが、特に、地元鹿児島では西郷隆盛の悪口を言うのはタブーとされ、西郷といえば質実剛健で骨太、頑固で気性の荒い豪傑で、理屈を言わず即実行に移す行動派というイメージがある。 
薩摩隼人は薩摩人の気質であり西郷隆盛そのものでもあるといい、男は「薩摩隼人」、女は「薩摩おごじょ」と称される。


古代より紛争が絶えなかった薩摩地方で、特にこの隼人、国分はその頃の城跡や隼人塚をはじめ、多くの古墳や遺跡が残っていると云われる。 
そんな中、隼人町の「隼人塚」は隼人の多くの亡霊が人民に祟りをすると恐れられ、其の霊を慰める為に造られた供養の塚だという。

今日(こんにち)の世代になっても薩摩隼人は、熊襲、隼人族の古代より脈々とした闘争的血脈が流れているといえる。 
もっとも、実際の西郷隆盛は一般に伝えられているイメージのような人物ではなかったという説もあるし、「いまどき薩摩隼人なんて・・・」という声がないこともない。 
しかし、特に男の場合(薩摩隼人・薩摩人)は、最近多くなった都会的な軟弱派とは一線を画しているのは事実であるという。


「丸に十の字」の由来・・、

薩摩・藩島津氏の旗印は、「丸に十の字」として有名であるが、この旗印や紋は、隼人「隼」の字から、上の「隹」を取って「十」を表したと言う説もある 。

蛇足ながら、現在の「日の丸」の旗が正式に採用されたのは、薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)によるものと言われる。 
斉彬が船舶の建造申請を行ったときに日本船の総印として、白い帆に太陽を象徴した白地に朱色の日の丸の使用を求め、日の丸を日本全体の総印とするように進言し、これにより幕府もその必要性を認めて承認したという。 
斉彬は我が郷土の日向(ひむか)の国、日出ずる国を想定して決めたものと思われる。

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