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日本周遊紀行(136)竹田 「名水の里」



竹田の町は名水の里として、環境省選定「名水百選」にも選ばれている・・、

大分から竹田、熊本へ通ずる道の主要路は、国道10号線から国道57号線を行くのが一般的であるが、小生はあえて野津原町の国道442を選択して竹田方面を目指してみた。
さすがに車の数は少なく、ゆったりした走行が出来る。 

山間とはいえ人家は途切れることなく点在していて、いかにも長閑な風景日和である。 内陸へ進むにしたがって道路は未改良区間も多くなり、しかも曲線区間が連続して見通しが悪く幅員も狭小なる。 
車がやっと通れるような狭さの道が暫く続くが、これが昔ながらの住人の生活道路でもあろうか。 所々、高速道路の誘致看板が目に付くが、この界隈を予定されている、それにしてもこの一般道路の改良整備することが先決であろう・・?。

町境を過ぎ朝地町に入って道路もだいぶ良くなり、間もなく国道57号へ合流した。この辺り朝地町のこじんまりとした町並みで、近くは豊肥本線の朝地駅もある。
やがて、竹田の町へ入る、この後、国道442号は先刻通った久住高原、南小国、日田市へ向かう、所謂、日田往還道路である。 


すぐ近くを稲葉川、玉木川といった清流が勢いよく流れてる。 
水源は無論西方の久住高原、阿蘇外輪といった豊陵な山地・大草原であるが他に、竹田は緒方川、白滝川など阿蘇の山々の水を集めた川が蛇行しながら幾筋も市内を流れている。
これらは一部が伏流水となって涵養された地下水が市内のあちこちに豊かに湧出している。

奥豊後の竹田は名水の里としても有名で、環境省選定「名水百選」に選ばれ、その湧水数は50ヶ所を超え、湧水量は一日6トンを超えるとも云われている。 
阿蘇山系の数ある湧水の中でも水質は軟水で常温は16℃と安定した透明さを誇り、美味しさの点では群を抜いているととわれる。 
これらの水流はやがて大河の大野川となって、流域を肥沃にしながら大分平野を形造っている。

大野川は今も流域の竹田市、直入郡、大野郡の穀倉地を潤し、大分平野の豊養な土地を育み潤している母なる川であるが、流域には多くの歴史遺産も多数あり、縄文時代の遺跡も出土しているという。
江戸期、中流域の犬飼河港は岡藩中川公の参勤交代で犬飼までは陸路、犬飼から大分までは大野川を下るのが常であったという。 
その影響を受けて一帯は、川筋の物資の集散地としても大いににぎわったという。 古来、大野川の河川流通を通じて、竹田へ文化の波も寄せているという。

次回は、竹田・「岡城」

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日本周遊紀行(136)竹田 「竹田・岡城」




写真:豊後竹田・「岡城址」と本丸跡に建つ「滝廉太郎像」


岡城と名曲・「荒城の月」とは・・、

「豊後国風土記」によれば豊後には八つの郡があり、それらの郡名は基本的に現代まで引き継がれて使用されている。 その中の直入郡には「郷4、里10、駅1」、大野郡には「郷4、里11、駅2、烽1」があると述べられている。 
このことは八世紀の奈良期の頃の地方の行政単位や軍事施設が確認することができ、大野川流域・地域もしっかり中央政府の支配下にくみこまれていることが判る。

その大野川流域が注目されるのは、平安時代の終盤からであるという。 
平家滅亡後、頼朝と対立した義経をこの奥豊後の地・「竹田」に迎えるための城を用意したといい、それが竹田市の「岡城」の始まりであるといわれている、しかし、義経の豊後下向は失敗した。 

頼朝に敵し得ないことを知った義経は、西国へ逃れることを模索して京都を発ち、摂津(大阪)の大物浜から乗船して九州を目ざしたが、船が難破して渡海をあきらめた。
鎌倉幕府の九州支配が開始されると、豊後国は頼朝の知行国として直接掌握され、頼朝の支配が大野川流域にまで及んだ。 それは頼朝直系の家臣・「大友氏」を守護として豊後に赴任させた時期でもあった。

16世紀末、大友氏の滅亡した後の江戸期の豊後は小藩に分けられ、その結果、大野川の流域は概ね岡藩(中川氏)の領となった。 
内陸部を領地とした岡藩は、参勤交代や諸物資交易のため大野川の水運を利用すようになり、克つ、瀬戸内海運への重要拠点として中流域に犬飼町と河口の三佐町鶴崎(大分市)の整備に力をいれ、犬飼は岡藩主の中継、休憩基地として繁栄している。 
また河口の鶴崎は熊本藩の豊後拠点であり瀬戸内への窓口、参勤交代の中継地として繁栄した。 
その後、大野川の船運は江戸時代から明治時代に入ると、竹田まで通じるようになり更に発展することになる。


竹田の「岡城址」は市街の東方、標高325mの天神山台地に築かれている・・、 

大野川と稲葉川のほぼ合流地点にあって天然の要害をなし、険しい地形を作り出している。 
岡城石垣は苔生し草茂るも堂々とした造りで、曲線を多用しているところは熊本城の「武者返し」に似ている。 世に岡城は、難攻不落の日本三険城の最上の城ともいわれている。


中世・平安末期の1185年頃の岡城は、平家が壇ノ浦で滅亡した際、豊後の豪族である緒方惟栄(これよし)が「源義経」を迎えるために築城したのが始まりと伝えられている。 
緒方惟栄は平安時代末期から鎌倉時代初期の武士で、豊後国大野郡緒方庄(現在の豊後大野市緒方町)を中心に活躍し、平家物語にも登場したほどの人物である。 

元々、荘園・緒方庄は宇佐神宮の所領で、緒方氏はその領主をつとめ平氏側の一族であった。 
平家一族の都落ちを知ると一族を率いて源氏方に寝返り、平氏の九州上陸を阻止するなどの働きを見せた。 こうした緒方一族の寝返りによって鎌倉幕府の九州統治が進んだともいわれる。

源義経が源頼朝に背反した際には義経方に荷担したとされ、このとき彼を匿うために築城したのが岡城とされている。
しかしこれが仇となって、後に処罰(流罪)されることになるが、ただし処罰の対象になったのは惟栄とその直接の親子兄弟のみであったため緒方一族の大勢には影響がなく、その系流にある各家は後々まで豊後南部を拠点として活躍し続けたという。
鎌倉末期に大友氏の一族・志賀貞朝がその砦を修築、拡大させ「岡城」と名付け、代々の居城とした。


戦国末期には中川氏が入国、 以降、近代城郭として一応の完成をみた・・、

岡藩は、中川秀成が初代藩主となり、以降中川家は明治維新まで存続している、父はあの戦国の勇将・中川清秀である。 

清秀は当初は池田勝正に属し、後、荒木村重(戦国時代の武将、明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名)の配下となる。 摂津・茨木城主時代に荒木村重の謀反が起きると信長に従っているが本能寺の変後、羽柴勢に加わり山崎の合戦で活躍する。後の賤ヶ岳の合戦では奮闘するも戦死している。
父・清秀が賤ヶ岳の戦いで戦死した後、家督は兄の秀政が継いでいた。
 しかし、その秀政も早世してしまったため、その弟である秀成が跡取りとなり播磨国六万六千石を継いで豊臣秀吉に仕えることとなった。 
その後に秀吉から豊後・岡に七万四千石の所領を与えられている。
尚「岡藩」は、豊後国内で存在した藩の中では最大の藩であり、しばし竹田藩と呼ばれることがあるが、

岡城と城下町の竹田とは離れていたため「岡藩」が正しいとされている。
明治7年(1874)の廃城令によって「岡城」は大分県に入札、払い下げされ、城郭・建造物は全て取り壊されている。 現在は雄大な石垣のみが残り、城趾は「国指定史跡」に指定されている。 


「荒城の月」という愛唱歌がある・・、

作曲家の滝 廉太郎は東京で生まれているが、父・吉弘は役人で大久保利通の秘書をしていたといい、大久保の没後、地方官として大分県竹田市に移り住んでいる。 
父の赴任に伴い幼少の頃の廉太郎少年は、4年間を大分県竹田市で過ごしている。 15歳の頃、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学し、作曲とピアノ演奏で才能を伸ばしていった。

一方、奥州・仙台出身の土井晩翠が「荒城の月」の作詞をモデルにしたのは故郷仙台市の「青葉城」や福島県会津若松市の「鶴ヶ城」と言われている。 
東京音楽学校(東京芸大)の教科書唱歌、歌詞コンクールに晩翠は「荒城の月」を応募、そして入選している。これを当時音楽講師だった滝廉太郎に作曲を依頼する。 廉太郎は幼少時代を過ごした竹田に、21才の頃帰省して「岡城跡」に想いを込めながら、この曲を完成させたといわれている。 

晩翠は『滝 廉太郎は歌詞を抱いて故郷大分の竹田町に帰り、その郊外に位置する岡城趾で「荒城の月」を完成した』と言っている。 
「荒城の月」は、廉太郎の岡城趾の原風景と晩翠の「青葉城」、「鶴ヶ城」の詩的情感を加えた名城合作と言えなくはない。 
岡城の本丸跡には瀧廉太郎の銅像が建てられている。 

不朽の名曲「荒城の月」は日本歌曲の原点として、また日本人の心のよりどころとして永遠に歌い継がれている楽曲でもある。

 「荒城の月」  土井晩翠 詞・滝廉太郎 曲
(1) 春高楼の 花の宴
  めぐる盃 かげさして
  千代の松が枝(エ) わけいでし
  昔の光 いまいずこ

(2) 秋陣営の 霜の色
  鳴き行く雁(カリ)の 数見せて
  植うる剣に 照りそいし
  昔の光 いまいずこ

 
次回は、軍神・広瀬中佐

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日本周遊紀行(136)竹田 「広瀬武夫」



明治の軍神といわれら広瀬中佐は・・、

小生、60歳を過ぎるまで医者要らずの身体、きわめて健康体で過ごしてきたつもりであった。 
或る年、成人病検診で血便が出ていて、精密検査が必要であると判定された。 
近くの病院で検査した結果「大腸ガン」であることが分かり、早速、入院、手術、治療で約1ヶ月の病院生活であったが無事治癒し、現在はこうして普通に旅行にも出掛けられる健常者に戻った。 

1ヶ月の病院生活で兼ねてより読みたかった司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読破した、たまたま、2004年は日露戦争開戦100周年に当る年でもあったので。

小説の中の「旅順港」の項で、広瀬中佐の事が詳しく描かれている。

 とどろく砲音(つつおと) とびくる弾丸(ひだま) 荒波(あらなみ)洗(あろ)うデッキの上に・・・・杉野はいずこ、杉野は居(い)ずや・・!! ・・、

文部省唱歌「広瀬中佐」の唄である。

この歌を知っている人はがかなり年配のはずだが・・、
時は明治37年(1904)2月、日露開戦と同時に日本海軍は旅順港(りょじゅんこう)のロシア艦隊を奇襲する。併せて、ロシア艦隊を旅順港内に封じ込めるため「旅順港閉塞作戦」という、古舟を旅順港口に沈める作戦を三回にわたって実施された。

その第2回目に参加した4隻の中の1隻が福井丸であり、その艦長が広瀬中佐であった。
ところが爆沈用の福井丸が旅順港口に近づいた時、敵船の魚雷が命中して福井丸は間もなく沈没する運命にあった。 
即刻、艦長の広瀬中佐は船から撤退命令を出し、全員ボートに乗り移ったかに見えたが、部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)が行方不明になっていることを知り、助けるため船内を三度も捜索中、広瀬は敵軍砲弾の直撃を受け戦死したのである、享年36歳であった。
このことが後に評判となり、広瀬は海軍のかがみであり、尚且つ、部下思いの広瀬は「軍神」とされて、軍国主義教育の好材料とされた。

広瀬武夫は岡藩士・広瀬友之允(重武)の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれている。 飛騨高山の小学校を卒業後に小学校教師を務め、後に海軍兵学校へ入学する。 日清戦争に従軍し、ロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。 この時、旅順港などの軍事施設も見学しているし、後にロシア駐在武官となっている。

1904年(明治37)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事し、第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮しすることになる。 
広瀬は、戦死の際に首を飛ばされ、流れ着いた胴体はロシア軍により埋葬されたという。 
戦死後中佐に昇進し、日本初の「軍神」となり、大分県竹田市の「広瀬神社」では祭神となっている。
「広瀬中佐」の歌は文部省唱歌の題材にもなった。


これには後日談が有った・・、

日露戦争時から、戦死したはずの杉野兵曹長の「生存説」が世間の噂として囁かれていた。 
広瀬が探した杉野兵曹は公式には戦死とされているが、実際には存命していたという。 
知らせを受けた実家でも「そんな馬鹿げたことが・・、信じられません」と・・、既に仏壇には「護国院釈忠誠勇義居士」の法名が掲げてあった。 
新聞記者の会見によると、彼は旅順港口で人事不省に陥っていたが、ロシア人に助けられ近くの島で暮らしていたとされる。 
戦後一時、帰国を決意したが内地で自分が広瀬中佐と併せて軍神にされていることを伝え聞き、帰還を断念したという。 

広瀬武夫」はロシア公館付武官であるから、かれはロシア語の会話はもちろんトルストイをはじめロシア作家の作品を読破したという。 
おまけに身長175の偉丈夫で美男子ときているからロシアの娘たちが騒がないわけがない、中でもとくに熱心だった女性が二人いたという。

広瀬が日本へ帰ってから二年後に日露戦争が勃発する。恋人同士を無残に引き裂いた戦争は間もなく広瀬を死に至らしめる。
彼の戦死を知った女性は広瀬の生家へお悔やみ状を送ってきたのが残されているが、それはまるで恋文だという。 
それほどまでに外国人女性に慕われていた広瀬は、死後「軍神」になったが、生前は生身の人間であり誇り高き日本男子だったのである。


田といい、高山といい山国育ちの広瀬がなぜ海軍軍人なのか・・?

その鍵は実は「坂本龍馬」にあるのではないかという有力な説がある。 
京都国立博物館の坂本龍馬関係資料のうち「有魂姓名録」の冒頭に勤王の志士達の名簿がある。 
そのなかに中川藩・家中の「広瀬友之允」の名が載っていて、彼は広瀬武夫の父広瀬重武のことである。 
重武は天保7年生まれなので龍馬より一つ下で同世代であり、文久2年に脱藩したのも龍馬と共通している。


広瀬武夫の父と坂本竜馬・・、

幕末騒乱期、京都・寺田屋に竜馬と共に倒幕謀議に参加するはずだったが、出発が遅れ参加できず、難を逃れたと言う説もある。 
「維新は、寺田屋の一室から生まれたり」と言われるように、寺田屋は明治維新のメインステージとなったところであり、文久2年(1862)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名である。
また、ここは坂本龍馬の定宿で、お龍(おりょう・後に竜馬と結婚)との恋の宿としても知られている。

文久3年頃、亀山社中(海運・貿易業を中心とした会社組織、結社でメンバーは龍馬と行動をともにした若者たちを中心に20数人)を興し、神戸海軍塾の創設に走り回っていた坂本龍馬が、広瀬重武を含む岡藩の志士らに、“これからの日本は海軍を起こすこと が急務である”ことを力説した。 
それに感化された広瀬重武は、山国育ちの息子・武夫を明治海軍に入隊させたのではとも言われている。

龍馬が京都・近江屋で暗殺されたのは1867年(慶応3年)、武夫が生まれたのは翌・1868年(明治元年)である。

広瀬武夫は父親と龍馬の海軍精神を受け継ぎ、旅順港で戦死する運命もまた龍馬が与えたものと想像でき、共に国の為に殉じた「死」は共通する。
尚、武夫の兄の勝比古も海軍軍人で少将、勝比古の養子になった末人(すえと)は海軍中将までなっている。 

豊後竹田駅から岡城に向かうトンネルの手前に「広瀬神社」がある。


 「広瀬中佐」
  尋常小学唱歌(卷四、大正元年12月) 
轟く砲音(つつおと) 飛び来る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処 杉野は居(い)ずや」
船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)
呼べど答えず 探せどみえず
船は次第に 波間に沈み
敵弾いよいよ あたりに繁し

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