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紀行(46)北都・札幌 「雪祭り」


石狩市は、「札幌雪まつりの生命線」・・、


その札幌の街のシンボルといえば、やはり「大通公園」であろう。
特に冬の札幌は、ホワイトイルミネーション、雪まつりの期間だけで、2百万人が訪れる。都心部にこれだけのイベントができる場所があるのは、全国でも珍しいといわれる。

市郊外に冬の競技で有名な大倉山のジャンプ競技場がある。
昭和47年の冬季オリンピック札幌大会90m級ジャンプ(現ラージヒル)の舞台となった場所で、標高差300mにあるジャンプ台は着地面から約130mの高さ、ちょうど大通公園にあるテレビ塔が147mだからほぼそのてっぺんから滑り、そして飛ぶのと変わらないということになる。

このジャンプ台から滑り降り、テイクアウトして飛行している時は札幌の町並みが一望できる。 
特にナイターの時は、市街中央の大通り公園の直線的な灯りが、まるで飛行機が着陸する時の滑走路の「誘導灯」の様に煌びやかに輝いているという。

この大通り公園で毎年行はれる「さっぽろ雪まつり」は、毎年2月に開催されている雪の祭典であり、(他に、すすきの会場、真駒内⇒さとらんど会場)今年(2006年)で第57回を数える歴史がある。

雪で作った大小の像を中心にしたもので、北海道内のみならず日本全国、あるいは海外からもおよそ200万人もの観光客が訪れる、北海道で最も大規模な冬のイベントの一つである。


札幌は、世界の同緯度の都市と比べて雪が多い・・!、


ところで、札幌は北の都市だから雪が多いと思われ、言われている。 
実際はどうなんであろう・・?。

札幌市は北緯42度から43度、イタリアのミラノ、カナダのトロント、フランスのマルセイユなどの都市とほぼ同緯度線に位置するが、これらの都市は札幌の雪の量とは比較にならないほど少ない。 

又、冬季オリンピックが開催された札幌と同緯度か、それより北にある都市であるオスロ(ノルウェイ)、アンカレッジ(アメリカ)、モントリオール(カナダ)などの都市と比較しても圧倒的に札幌が多く、北方都市としてはダントツ一位なのである。
因みに、札幌の降雪量(降った雪の量の合計値)は平年でも5mを超すといわれるが、他の都市はせいぜい1m台なのである。


道内の雪の降り方には三種類あるといわれる・・、

一つ目は低気圧通過に伴う「低気圧型」、二つ目が、所謂、冬型といわれる西高東低の気圧配置となり、日本海側の山間部に多量の雪を降らせるタイプ、三つ目は「里雪型」で札幌では「石狩湾低気圧」といわれる。 
この三つのパターンの繰り返しで、札幌には雪が大量に降るというわけである。
これら大量の雪は当然除雪が必要になり、その予算・費用、労力は大変なもので、冬の生活を快適にしようとするほど、除排雪の量は雪だるま式に増え年間百億円にも膨らむといい、これは一般会計予算の0.2%にも当たる。


さて、その一方で雪祭り用の雪は市街地に降った雪は殆ど使用されないという・・!!。
汚れた雪をよそに捨て、きれいな雪を貰うということになっているらしい・・、何とも妙な具合であるが、これが現実らしい。

さっぽろ雪まつりには、大量の雪が必要なため、石狩市の開発途上の新港湾に積もる雪が利用され、雪の四分の一は石狩市から戴くという。 
石狩市は、札幌雪まつりの生命線」ともいわれる所以であると・・。


札幌市の市章は「六花」であるが・・、
 

六つの花、六花は「ろっか、りっか」とも呼び、結晶が六角形であるところから「雪の異称」でもある。
市のマークである外側の六角模様は、すなわち「雪」をもって北海道を象徴している。 

ところで、雪の札幌をイメージした札幌の銘菓「白い恋人」がある。
近頃、消費期限の偽造問題で揺れたが、札幌市内にある菓子メーカー・「石屋製菓」が製するものである。 

ある年の師走、社長が近くの公園から歩くスキーを終えて会社に戻ってきたとき、「白い恋人たちが降ってきたよ」・・と、ある人の何気ない一言が、名前の由来だという。
1976年に発売され、色が白いことが北海道の雪景色を連想させることや、北海道限定販売にしたことが功を奏し、出張や旅行の際の土産品として人気を得た。 

現在では年間約2億枚を売り上げるまでになり、北海道の土産と言えば「白い恋人」とも言われ、土産品の単品売り上げでは全国2位とされる。
因みに、1位は三重県伊勢の「赤福餅」で、伊勢神宮の土産として有名である。
だが、こちらも同様に不適正表示や製品改竄問題で矢面に立たされた。 


序(ついで)ながら「六花亭」のこと・・、


「六花亭」という製菓会社がある。 
これは市章で「六花」をもつ札幌ではなく、十勝地方・帯広の会社である。 

製品の一つに、「白い恋人」に並ぶとも言われる「マルセイバターサンド」というのがある。
十勝地方の開拓に父といわれる、明治初期、伊豆・松崎からの入植者・「依田勉三」(詳しくは十勝の項で・・)に因んだ御菓子で、クッキーとバターとレーズンを適度にマッチさせた感度は、北海道を代表する銘菓であろう。 

道内の有志家、自称・北海道お土産探検隊と言われるその道の団体などは、味、品質は最高級で道内一位であるとしているし、実は小生も北海道を訪れた際には、この「マルセイバターサンド」を優先土産にしているのである。


石狩挽歌・・?、

右手に手稲のスキー場、山並みを見つめながら、やがて平原地帯を行く。 
平原と言っても北海道特有の原野ではなく、ある程度整備された産業団地のようなところである、所々に流通団地、トラック団地という看板が立つ。

この平地は、石狩湾の最奥に位置し、石狩湾を挟む東西の山域の丁度谷間に位置している。
気象的には、海洋性気候で寒暖差は小さく、対馬海流の影響もあり冬は比較的温暖ではあるが、北東からの季節風が日本海を越えて吹きつけるため積雪が多い。
また「石狩湾低気圧」が発生する場所でもあり、この時は猛烈な吹雪となる、一年を通して風が強いため、市内には多くの防風林が設けられているという。 

札幌の町も同様な影響を受けるのである。
手稲の山陰から、遠くに札幌の高層市街がくっきりと見えている。
ここ「石狩市」は、西に小樽市、南に札幌市と大都市に隣接した小市域である、ところが、2005年10月1日付で厚田郡厚田村、浜益郡浜益村を編入合併し、石狩湾の東部地域の全域を含む広大な市域になった、従って、両郡、両村は消滅している。


やがて、長大な石狩川の河口橋を渡る・・、

石狩川は語源となったアイヌ語、「イ・シカラ・ベツ」に見られる様に非常に蛇行を繰り返す河川である。
石狩川は、大雪山国立公園の石狩岳から層雲峡、旭川市の上川盆地と石狩平野を南へ流下し、札幌を経て日本海へ流入する全長365km、流域面積は北海道総面積の約6分の1を占め、日本で2番目(現在は3番目)の大河川である。

元々は、現在の苫小牧市付近で太平洋に注ぐ河川であったが、約三万年前に支笏火山群の噴火に伴う火山灰・溶岩などの流出物が今の千歳市周辺に堆積し、よって流路が北西に変更され、現在の様に石狩湾に注ぐ様態になった。 

従って、太平洋に極近いその千歳川は、支笏湖を水源としながらも、その石狩川・下流部の江別市あたりまで北上して合流する石狩川の一支流になっている。

札幌の海の玄関口でもある石狩市の海岸付近は、現在、港湾事業が盛んに行われているようだが、昔は石狩川付近に「石狩番屋」も置かれ、やはりニシンで栄えた町である。

次回は、「厚田」


 
「石狩挽歌」   唄・北原ミレイ  作詞・なかにし礼

海猫(ごめ)が鳴くから、ニシンが来ると 
 赤い筒袖(つっぽ)の、やん衆がさわぐ

雪に埋もれた、番屋の隅で 
 わたしゃ夜通し、飯を炊く

あれからニシンは、どこへ行ったやら 
 破れた網は、問い刺し網か

今じゃ浜辺で、オンボロロ  オンボロボロロー
沖を通るは、笠戸丸  
わたしゃ涙で、ニシン曇りの、空を見る
燃えろ篝火(かがりび)、朝里(あさり)の浜に 
 海は銀色、ニシンの空よ

ソーラン節に、頬そめながら 
 わたしゃ大漁の、網を曳(ひ)く

あれからニシンは、どこへ行ったやら 
 オタモイ岬の、ニシン御殿も

今じゃさびれて、オンボロロ  オンボロボロロー
かわらぬものは、古代文字 
 わたしゃ涙で、娘ざかりの、夢を見る

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紀行(47)厚田 「新撰組と名力士」



作家・子母澤寛と「新選組始末記」・・、


広大な「石狩川」を渡って、山間づたいの海岸を行くと間もなく厚田村入った。

この変哲の無さそうな寒村に歴史小説の大作家がいた、「子母沢寛」である。

歴史物が好きな小生は、「勝海舟」や「新撰組始末記」は勿論読破しているが、「新撰組」は今現在、NHKの大河ドラマで放映中でもある・・!!(2004年度)。

今迄、いろんな作家が新撰組またはこれに類する書物を出しているが、概ね子母沢寛の新撰組始末記が基礎になっているとも言われる。

厚田村は、札幌から北へ約40キロ、日本海に面し、やはりニシン漁で栄えた漁村である。
子母澤寛の祖父・「梅谷十次郎」は元々江戸の御家人で、江戸開城の後、彰義隊に参加して戦い榎本軍とともに箱館に渡り、五稜郭で敗れている。 
降伏した十次郎は士籍を離れ、厚田村にわたり隠遁生活をする傍ら、旅館などを営んでいたという。

十次郎は、夜にもなると孫の「松太郎」を膝の間に入れて、大きな湯呑茶碗で酒を飲みつつ、「江戸弁」で江戸の話や彰義隊のこと、五稜郭戦争の話などをよくしたという。 
そして・・
 彰義隊は誰一人あの戦で勝とうとなんて考えていたものはいないんだ。(中略)それを覚悟で、命を投げ出しているのは、そ奴らに、人間の恩というものがどういうものか、それを知らせるためなんだ。それが武士(さむらい)の道というものである・・解るだろう 』・・と。 

子母澤寛は、祖父の言葉として「蝦夷物語」や「厚田日記」でこう語っている。
遠く海鳴りを聞き、日本海に沈む夕日をながめながら、「サムライの魂」をもちながら厚田村に生きた祖父・十次郎・・、そして孫・松太郎である。 
戊辰の戦いに敗れ、北の大地に根付いた者たちに、同様の物語があっただろうことは想像に難くない。北海道そのものが持つ無骨さの一片は、そのサムライの精神なのかもしれない。

新選組の最期の物語を語り継ぐ場としての北海道は、それに相応しく土方歳三や旧幕軍、新政府軍の多くの将兵がこの地に倒れたことも、無為ではなかったのかも。

燃えよ剣」で新選組・土方歳三の生涯を描いた「司馬遼太郎」は、ライフワークとなった『街道をゆく』の取材で北海道の厚田村を訪ねている。 

厚田村は、「新選組始末記」など一連の著作を世に送った作家・子母澤寛のふるさとであるが、現住所の自宅は神奈川・藤沢市鵠沼に在り、作家生活はここ梅谷家で送り、墓地も近くの丘にあるという。


次に、昭和の名横綱「吉葉山」もこの厚田の出身とか・・

昭和の破天荒横綱と言われた第43代「吉葉山」(池田潤之輔)は、日本海に面した鄙びた村落、厚田郡厚田村(現、石狩市)生まれている。

彼にはいろいろなエピソードが残っているらしい。 

学問を志して北海道から東京へ上京した池田少年(後の吉葉山)は、上野駅で高島部屋の力士に捕まり、訳も分からずに部屋へ連れていかれてしまう・・?。 
実は、この力士は青森から上京するはずの新弟子を待っていたのだが、その新弟子が途中で逃げてしまい、たまたま同じ列車に乗っていた彼が新弟子と間違えられてしまったというのである。
これがきっかけで池田少年は、相撲界に足を踏み入れることとなった。
入門後、彼は悪性の盲腸で死にかけたが、運良く一命をとりとめた。 

四股名の「吉葉山」は、この時に救ってくれた医師・吉葉庄作にちなんだものと言われている。 
その後は順調に実力をつけていったが、十両目前で太平洋戦争に召集されビルマへと赴いた。 
一時「戦死した」との噂も流れたが、足に銃弾を受け、痩せ細った体ながらも何とか生還したという。 

部屋に戻った時には、あまりの変貌ぶりに幽霊と間違えられたという。
相撲界に復帰後は、とにかく体を回復しようと食べまくり「胃袋」というあだ名がつけられたとか、1年で50キロ太ったとの説もある。 
色白で均整の取れた体格と俳優の市川 右太衛門に似た美貌に加えて明るく磊落な性格で人気を集めた。

昭和26年9月場所12日目の「東富士」との対戦では同体となり、取り直しの一番は水入りの大相撲となった、再開後の相撲が再び同体となると、高熱と疲労の東富士は立つことができず吉葉山の承諾もあって協会預かりとなった。  

歴史に残るこの死闘は、現在も戦後唯一の「預かり勝負」(勝負なし)となっている。


昭和29年 1月に全勝優勝して横綱昇進を決定ずけ、大雪の中での優勝行進は「雪の全勝行進」と言われた。 
従軍経験が有ったので元軍人達の人気が高かったが、当時は絶頂を極め、祝宴続きで体調を崩して新横綱の場所を全休してしまった。 

以後も優勝はできず、結局、「贔屓の引き倒し」(贔屓することによって、かえってその人を不利に導くこと)のような格好になってしまった。
同時期の横綱として羽黒山、東富士、照国、千代の山、栃錦、鏡里、若乃花等がいる、いずれも小生が少年の頃の懐かしい面々である。

引退後は後進の指導に熱心で、現役中に総檜造りの「吉葉山道場」を設立し、後に「宮城野部屋」となって多くの弟子を育てながら理事を務めた。
通算で 37場所、通算成績・304勝151敗1分85休、優勝1、殊勲3、金星2、従五位勲四等旭日小綬章が追贈されている。

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