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紀行(35)下北 「脇野沢、佐井」



最果て・・、地の果ての「脇野沢」・・、

「川内」あたりで大粒の雨が風をともなってやってきた。 
これから「脇野沢」から仏ヶ浦へ向かうつもりだが、この間は激しいヘヤーピンカーブの山岳道路である。 
風雨がやや強くなっているこの悪天候でどうか・・チョット思案したが、相手は四輪駆動車だ・・ママヨ!。

脇野沢へ向かう・・、海から吹き付ける風雨で見通し悪く、走り難い。


下北半島はどうしても「斧・まさかり」に形容されるが・・、


その突き出た下北半島の「まさかり」の刃の下(南方)の部分に当たるのが「脇野沢」であり、上の部分(北方)がこれから向かう「大間」である。 

手付かずの自然が数多く残り、霊場・恐山や点在する鄙びた温泉、夜の海峡にきらめく漁火・・、 
海も、山も、大地も、まさしく「最果て・・、地の果て」に来たことを強く感じるところである。


脇野沢村の村落は、この地、脇野沢地域と西側の九艘泊(くそうどまり)の港の二箇所に分かれる。
九艘泊の港は、源頼朝に追われた義経一行の船が九艘、嵐を避けるために停泊したのが地名の由来と言われているが・・?。 

九艘泊は、脇野沢より地方道で結ばれてはいるが、ここより先は道は無い。
又、吹雪の場合は通行止めにもなり、正に地の果て、「九艘(クソ)止まり」になってしまうという。


自然一杯の地・・?、
自然のみの地は海の幸も豊富であろうが、当地は天然記念物の北限のニホンサルやニホンカモシカの生息地で有名である。 
その北限のニホンサルが、今、脇野沢村民にとって大きな問題を抱えるようになっているとか・・?。

それは、行政、地域で保護に努めてきたお陰で相当数に増えているといい、その為に最近では農作物の被害が拡大し、尚且つ、村民を威嚇し人的被害も出ているという。
これらのサルを有害サルと特定し、認定されれば捕獲に乗り出すらしい、当然、動物を愛護する人々からは、「可愛そうだ・・」という反対苦情が村には寄せられているらしい。

村としては過去に、いろんな施策を講じてもきたらしいが、果たして、村当局はどんな結論を出すのか、・・他人事ながら、興味が尽きない。


海峡ラインと佐井・・、


その通称「海峡ライン」と呼ばれているのが国道338号線である。
脇野沢村を過ぎると深い原生林の中へ突き進むといった感じである。 

見ると津軽半島の平館あたりが、とりわけ近くに眺望でき、そのためか此処を挟む海峡を「平館海峡」と命名している。
その海峡の向こう平館あたりからこちら側を見た風景は、断崖絶壁の壁であった所である。
国道338のこの区間は、海沿いの山岳路とも言うべきもので、尾根を越え谷を渡って進んで行く。 
「海峡ライン」は、とにかく上下動の激しい急カーブ、急坂の連続であった。


下北半島を「斧・マサカリ」に喩えた話であるが・・、

改めて下北半島の地図を平面的に見てみると、まさしく「斧」に見える形状である。 
注目したいのは刃の部分である、現在走っている、所謂、海峡ロードである山域は海岸より水平で見るとホンノ僅かの距離である。
つまり、海岸線より僅かの地点を5〜600mの標高の山稜が、南北に走っているのであり、そこから流れ出る河川、下北半島最深部の川は西側海岸に向っては急流の短い谷となって駆け下りているのである。 
これら、斧の「刃・マサカリ」の部分にあたる地域は、実は立体的・三次元的に見ても斧の刃そのものなのである。



しばらくして、まだ海面よりかなり高目を走っているのに、「仏ヶ浦入り口駐車場」とオンボロ看板があった。
仏ヶ浦」は、霊が宿るという「恐山」の冥土の入口に当たるとも言われる。

この名所・仏ヶ浦については・・、後述するので、お楽しみに・・!!。


さて、海峡ラインも北部に到って、ようやく海岸に出る。
本州てっぺんの村と言われる「佐井村」である。マサカリ状の下北半島の刃の部分の海岸線が凡そ40kmにもなるが、その内、秘境・仏ヶ浦を含めた28kmを占める南北に細長い村である。 
山が海岸線まで迫り、村面積の多くを恐山山地を構成する山岳が占めていて、海岸線沿いの細い平地部分にのみ集落が存在し、古くは蝦夷の定住集落も存在していたと見られている。

現在は海岸線利用した、ウニ・鮭・ワカメなどの沿岸漁業中心の村であるが、江戸時代には南部藩領で「南部ヒバ」の特産地及び積出し港、北前船の中継港として、また、蝦夷地への渡船港として栄えたという。


青森特産・「ヒバの木」・・、


ヒバの木」は針葉樹・ヒノキ科の一種で、北海道南部から四国、九州にかけて分布するが、天然林は「青森ヒバ」が全国的に有名である。 
東京方面で手に入るのは青森ヒバが多く、関西では能登ヒバ(能登アテとも云うらしい)が多いという。ヒバの特長は、第一に虫や木材腐食菌に強いこと。 

昔から「ヒバ普請の家には蚊が3年は寄り付かない」といわれ、特に白蟻に対する強さは他の樹種には見られないほどであるという。

これは防蟻に有効な成分を含んでいるためで、シロアリが青森ヒバを食べた場合死滅するともいう。 
ヒバは殺菌性のあるヒノキチオールの含有量が多く、腐りにくく、耐水性があって湿気にも強い。

ヒバの薬効製は、皮膚病の薬(アトピー性皮膚炎)、水虫の治療薬、養毛剤などの医薬品、化粧品など各種抗菌剤があるとされ、ヒバ油は芳香剤として、部屋、浴室の壁板、 浴槽アロマテラピーなどに利用されるという。

特に、北方型の青森ヒバ(「ヒノキアスナロ」とも云うらしい)の美しい木肌、高貴な香り、そして世界中探しても 青森ヒバのような強い抗菌力を持つ木は他には無いと言われる。 

東北北部、特に、下北半島・恐山一体は全山南部ヒバ(ヒノキアスナロ)の原生林で、木曾ひのき、秋田杉とならんで古くから日本三大美林の名で知られている。


下北の民族誌には・・、
 

『 ヒバの花盛りは、雪のしんしんと降り積もる一、ニ月の頃でございます。雪とともに空中高く舞い上がって実を結び、地上の雪に根づいて、百年、それは生命の極限を越えてやっと成木するという、北国特有の銘木でございます。 』と記されている。

ヒバの木は年々減少し、近年、保護育成のため伐採は計画的に行われているといい、難しいとされる青森ヒバの植林も其々の工夫とアイディアで順調だというが、成木になるには、2〜300年もかかるという。


その佐井港は、江戸時代には東北・北海道と京・大阪、江戸を結ぶ北前船の中継地として大いに繁栄したという。

その交流を通じて文化や芸能が伝わり、中でも歌舞伎は、この地の人々の心身に染み込んだ故郷文化として残されているという。 

上方の地回り役者が伝え、漁師によって伝承されてきた漁村歌舞伎で知られる「福浦歌舞伎」は、全国でも珍しいもので県の無形民俗文化財に指定されているという。

次は、 いよいよ本州最北端「大間

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紀行(36)大間 「本州最北端」



本州最北端の地は、マグロの一本釣りのメッカ・・、

佐井の港を見ながら、大間へ向かう。

「奥戸」の集落を抜け、概ね予定の時間に「大間」の埠頭へ着いた、時に14時40分。


正真正銘・本州北端の「大間」に到った・・、


町並みには・・、『祝、泉 浩君 アテネオリンピック柔道・銀メダル』と横断幕が目に入った。

先般、日本勢が大活躍した、そのオリンピックが終わったばかりであり、因みに日本勢の獲得したメダルは金・16、銀・9、銅・12の成績で、世界ランク第5位、メダル数は史上最高だとか。

「泉 浩」氏はこの大間の出身である。 
父親は大間では有名な、あのマグロの1本釣りの猟師であることはニュース等で報じられたが、今年の大間のマグロ漁(1本釣り)は大漁だという。 
聞くところによると、マグロ漁は1月半ば頃までで、この猟期が終わる。その後は、20t足らずの船で遥か西南の地、長崎の五島列島まで三日三晩かけてイカ漁に出かけるらしい。


大間と奥戸・・!!

「大間町」は、本州最北端に位置し、人口 7000人の漁業を主産業とする町である。 
だが明治以前は、良港にも恵まれていた南の隣村「奥戸」の方が大間より繁栄していたともいう。 

もともと、大間と奥戸は別々の二つの村であり、両村が合併し大奥村となった時代には、奥戸に役場が置かれた時期もあった。  
しかし、大間は水産業で徐々に発展し、明治維新前後の斗南藩士(旧会津藩士)の定住などで大間が活況を呈し、農業中心の奥戸は相対的に地盤沈下することになる。 
役場も大間に移り、昭和17年11月3日の町制施行で大間町が誕生し、時勢は大間中心となった。


大間の赤猫、奥戸の《でんで》」という言葉があるらしい。
これは両地区の気質をよく現しているという。

つまり、大間は奥戸から見て、「赤猫」のように気性の激しい漁師気質であり、一方、奥戸は農耕型であり、土とともに生きる農民気質で、人々はおっとり、のんびり型が多く、それは自然への依存の影響だろうと。

「でんで」というのは「代々」のことであり、伝統と格式を重んじたのが奥戸だったといわれる。

やはり、これも時代の流れであり、歴史の相違かもしれない。


大間名物、「マグロの一本釣り」・・、


大間から津軽海峡を挟んで北海道・亀田半島の汐首岬までわずか17kmしか離れておらず、晴れた日には、間近に北海道を見渡すことができる。 

三方を海に囲まれているこの地沖合いは、日本海の対馬海流と太平洋の黒潮が出会う絶好の漁場でもある。

そして、明治時代から引き継がれてきた伝統漁法の「マグロの一本釣り」は余りにも有名である。 
漁師が腕一本で数百キロのマグロに挑む昔ながらの漁法は、昨今、TVなどでも紹介されてるが、先刻も某TV局で、一年に何と60本ものマグロを水揚げする漁師が放映されていた。


大間で獲れた近海もののマグロは鮮度が高く、味が良いことから市場では超一級品の名を受け、高値で取引されるほどの活況を見せていた。
だが、昭和50年前後を境に魚影が薄くなり、つい近年まで大間沖からの水揚げは殆どなかったという。 
その原因については、海流や水温の変化など諸説がいわれているが、 漁師の一部には青函トンネル工事が原因ではないのかと指摘する者もいた。
県の調査では「影響はない」とされた。

最近になっての好漁になってきたらしいが、併せて、マグロの生態系については、まだまだ不明な点も多いという。

魚影が消えて凡そ10年ぶりに、「マグロが来た・・!」と浜が活気づいたのが平成5年(1993)のことであった。


平成6年には440キログラムの超大物が捕れた記録もある。
以来、毎年100〜300キログラムクラスのマグロが水揚げされるようになり、平成7年は、100キロを超える大物が200本も水揚げされたこともあり、以降順調に水揚げされているという。

大間のマグロは、大間崎沖1〜3キロメートルで釣れる近海物だけに、東京築地市場でも値が高く、外国産の冷凍マグロが1キロ当たり7000円前後なのに対し、軽く数万円の値がつき、高値のため大物はほとんど東京方面の大市場(築地ほか・・)へ直送される。

「地元でおいしいマグロが捕れるのに、なかなか口に入らない」と嘆く声もあるという。


こうした命懸けにも近い大間のマグロ漁に生きる漁師を題材にして書かれた、作家・吉村昭氏の小説「魚影の群れ」が映画化された。
昭和58年、主演の故夏目雅子やマグロ漁師に扮した緒形拳ら全スタッフが当町に泊り込んで話題となった。


又、2007年の正月TVに放送された新春スペシャルドラマ『マグロ』(テレビ朝日系)があった。 
ドラマは、マグロの一本釣りに人生を懸けた漁師・竜男(渡哲也)が主人公で、撮影中、渡らが大間の津軽海峡で約220キロもある大物マグロを実際に釣り上げ、成功したというのは有名な話である。


数年前、お上さんと車で北海道・函館へ渡る前、大間港の岸壁の民宿に宿を取った折、偶々(たまたま)マグロの水揚げに遭遇し見物する事ができた。
接岸された漁船は、岸からクレーンでマグロを吊り上げるところであったが、聞くところ体長2.5mくらいで200kg以上はらくに有ったいう。 
これからトラックで東京・築地まで直行するとのこと、大間から八戸へ出て高速道を一気に走るらしい。

因みに、「値段は数百万は付くだろう」と、地元猟師が自慢げに話していた。


大間から真近に見える北海道からは、TVやラジオの放送が地元青森の放送より良く受信出来るし、大間の人々は買い物等をするにも青森に行くより函館に行く方が普通だという。 
青森までは車でも3時間以上は掛かるし、大間町民にとっては函館は身近な都市なのである。


「大間崎」は、コンクリートやレンガ積みされサッパリ綺麗に整備された岬である。
岬の先端部には「本州最北端の地」と掘られた銘碑や、巨大なマグロを模ったモニュメントが威容を誇っている。


青海の向こうには「弁天島」と、そう遠くない距離に、これから訪れる大地、蝦夷地・北海道が鮮明に見えている。

北の猟場』  唄・北島三朗

いのち温めて 酔いながら
酒をまわし飲む
明日の稼ぎを 夢にみて
腹にさらし巻く
海の男にゃヨ 凍る波しぶき
北の漁場はヨ 男の仕事場サ



16時20分定刻、フェリーは大間を出て函館へ向かう。

津軽海峡はまずまず穏やかな様である。


船中、仏ヶ浦で一寸会話してすれ違った栃木・今市の家族が同室だったので「 どうでした仏ヶ浦は・・」 「イヤー、家族に年寄りがいたので、上から眺めて、帰って来ましたヨ」と言う。 

(・・・実に惜しかったナー!!)



船は定刻の18:10に、雨にけぶる「函館」に到着した。 

この函館へは、北海道を一周した後、いずれ戻って来るが、それは何日になるかは、全く今は判らない。  

市内は時間帯のラッシュでやや渋滞気味、先程予約しておいた本日の宿「湯の川温泉」へ向った。

次回からは 、  観光編へ   第6日目へ

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