日本周遊紀行

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紀行(11)出雲崎 「金と良寛」



出雲崎は、出雲の国と交流があったことから名づけられたとか・・


地名の由来は、出雲の「大国主命」が当時の「越の国」(古代北陸地方の名)まで遠征したとき、出雲の国との交流が始まった事に因むものと言える。

今は、日本海に面した小さな町ではあるが、かつては北国街道の宿場町で、往時を偲ぶ家並みが6kmも続いていたという。 
現在、その北国街道の名残りである出雲崎の「妻入り住居の町並」が歴史国道として、歴史的町並保存地区に指定されている。

「妻入住居」とは・・、 
建物の正面出入口を屋根の三角部分を正面とする様式である。これに対して、建物の正面出入口を屋根と直角方向に設けること「平入り」(ひらいり)という。


海を隔てて佐渡ヶ島まで50km余り、出雲崎は佐渡金山の金の陸揚げ港としても栄えた・・、 

道の駅に「越後出雲崎・天領の里」というのもあり、江戸時代においては出雲崎は、佐渡への黄金の道、御奉行船などが出入りするための地で、幕府の直轄地を「天領」と称した。

江戸時代に佐渡金山で産出した金銀は、現代に換算して凡そ2000億円にのぼるとされ、その何割かが江戸城に送られた。 佐渡奉行所(佐渡・相川町)の御金蔵から運び出される金銀の荷は木箱に入れて封印し対岸の出雲崎まで運ばれた。 
官船は「御座船」とも呼ばれ、船のまわりには幔幕が張られ白地に紺色の葵の御紋の幟が舳先に、また船尾に立てられたという。

出雲崎からは陸路で江戸までの距離はおよそ92里(368`)、出雲崎では支度のため2泊、それからは鉢崎、高田(新潟県)野尻、屋代、小諸(長野県)、坂本、高崎(群馬県)の順で、埼玉県に入って熊谷と浦和、板橋となり、1日37`のペースで早ければ10日間かかって江戸へ着いたという。

その道を「金の道」と称した。 

現在の国道352号、18号で北国街道ともいい、加賀藩前田家をはじめとした北陸諸大名の参勤交代の道として、そして越後最大の高田藩と江戸を結ぶ街道としても賑わった。


出雲崎は良寛(りょうかん)(1758〜1831)生誕の地としても知られてる・・、

良寛は芭蕉よりも百年あまり後の人で、歌を詠み、書をしたため、一生清らかに暮らした和尚として有名である。
江戸末期・長岡藩家老の「河井継之助」(司馬遼太郎の『峠』の主人公)が曰く、越後の生んだ英雄は「上杉謙信と釈・良寛」だという。 

良寛は1758年、出雲崎の名主(なぬし:大庄屋の下で一村内の民政をつかさどった役人、身分は百姓)の長男として出生しているが、名主が性に合わず突然、寺で髪を切って出家し、名を「良寛」とあらためている。
岡山・玉島(現在の倉敷市)の円通寺で十数年修行し、その後、諸国行脚し20年修行につとめ、越後に戻ったのは39歳であった。

越後に帰っても、寺も持たず、説教などもせず、貧しい庵をつくって住んだという。 
名・利を離れて村童たちと天真らんまんに遊び戯れ、詩歌を詠じ、心のままに一生を送った。 

その歌は万葉調を好み、用語や格調にとらわれることがなかったという。
良寛の名は、子ども達を愛し、積極的に遊んだと云う行動が人々の記憶に残っている。 良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈している・・、

  『 子供らと 手毬つきつゝ 霞たつ
                 長き春日を 暮らしつるかも 』

  『 霞立つ 長き春日を 子供らと
               手まりつきつつ この日暮らしつ 』

と詠う。

良寛は又、戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わしたという。 
唯一の女性弟子の「貞心尼」に対して、ほのかな恋心を抱いていたとも云われている。

『 禅師.常に酒を好む.然りといえども量を超えて酔狂に至るを見ず.また相手は田夫(でんぶ)、野翁(やろう)たりとも互いに銭を出し合いて,酒を買い,呑むことを好む.しかも汝(なんじ)一杯,吾一杯という風に,盃(さかずき)の数,彼我(ひが)幾多少(いくたしょう)なからしむを常とす 』

良寛は決して世捨人、隠者をもって自認していたのではなく、 人を恋い、人と相会うことを喜ぶ。  
以外と好き嫌いが激しく、「真にして偽りなき」性(さが)を愛した。
それは子供たちであり、きこりや漁夫たちであった。

老いても木石のようにならず、生きる喜びを謳歌し続け、一人でいるのが好きで、一人でいても四六時中が充実していた。 手先も器用で結構ユーモアがあり、嘘が言えない愚直さ、放浪性、孤独性、庶民性と貴族性と特異性を併せ持った性質であったという。

良寛の特に嫌いなもの三つ、詩人の詩、書家の書、料理人の料理。
型にはまった、技巧を弄したものを嫌ったようである。   

町と日本海とを見下ろす丘陵上に「良寛(りょうかん)記念館」は建ち、良寛の書画やゆかりの品々が展示されている。

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紀行(12)新潟 「信濃川と上杉家」


新潟市内へ入って間もなく、信濃川に架かるかの有名な「万代橋」を渡る・・、

万代橋は昭和4年の構築にしては美観溢れる橋である。それもそのはず、この橋は国の重要文化財なので、 文化財の橋としては、あの「日本橋」に次ぐ2番目だそうである。

橋の下流は、充々と満たされた水流が間もなく日本海に達しようとしている。


信濃川は全長367kmで日本で一番長い川であることは周知であるが、長野県に遡ると千曲川や犀川(さいがわ)と名称が変わることは余り知られてはいない・・?。

実は、新潟の信濃川と呼ばれている部分は153キロメートルなのに対し、長野県の千曲川と呼ばれている部分214キロメートルと千曲川の方が長いのである。
千曲川の流域である佐久や小諸市周辺は、島崎藤村の「千曲川旅情」でも有名である。


千曲川旅情』  島崎藤村
小諸なる 古城のほとり
雲白く 遊子(ユウシ)悲しむ
・・・
千曲川 いざよう波の
岸近き 宿にのぼりつ
濁り酒 濁れる飲みて
草枕 しばし慰む


又、犀川は上流の「安曇野・押野」に到って「梓川」と「高瀬川」が合流する。 
この両河川のことを安曇節が詠っている。


『安曇節』
  長野県民謡
槍で別れた梓と高瀬
巡り会うのは 巡り会うのは 
押野崎 チョサイ コラサイ


小生、山歩きが好きで北アルプスを何度も巡ったことがあり、「槍ヶ岳」にも登頂したこともあり、頂上より東へ「東鎌尾根」というのが延びている。
この分水尾根を左右、北と南に分けた水域が「梓と高瀬」なのである。

南の槍沢へ下った渓流は、やがて、梓川となって「上高地」を潤し、又、北の天上沢へ降りた水流は、高瀬川となって大町へ到っている。

千曲川と犀川が合流する地点が長野市の川中島で、「川中島古戦場」であり歴史的な名所である。現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。

武田信玄(晴信)と上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いで、いずれの戦いも千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地を中心に行われたことから、川中島の戦いと総称している。 
延べ10年位をかけて5回も行うことになるが、結果として戦い以後も武田信玄が北信濃を支配し続けたため、信玄が戦略的勝利をおさめたと評価しうる。 
一方、上杉軍は北信濃をほとんど奪うことができなかったものの、謙信も信濃飯山城を守りきったため、ある程度の成功を収めた、そのため両者痛み分けとする見方も有る。


この後、信濃川河口においても動乱があった・・、


天正6年(1578年)越後の虎・上杉謙信は脳卒中で死亡する。
謙信は生前に後継者を決めていなかったため、二人の養子である景勝と景虎が後継跡目を争うことになってしまう、この跡目争いを「御舘の乱」といい、上杉家のお家騒動である。 

謙信は内心では、関東管領職と上杉家の跡目を景虎に、越後国主の座と越後上杉家を景勝に、それぞれ継がせるつもりであったというのが一般的な説となっている。

その前に、長尾景虎が上杉謙信と名乗ったのは、元々、越後の長尾氏と上杉氏は姻戚関係にあり、上杉氏は関東管領職にあって、その家督と職を謙信が継いだことから上杉姓を名乗ったのである。その後、仏門に入って謙信と名乗った。

関東管領」というのは、室町幕府における職名で関東地方一帯を統治する役職をいい、鎌倉に設置されていて足利将軍家が任命することになっている。 
管領職は上杉氏の世襲で、鎌倉管領ともいう。

この「御館の乱」は、結果として家中の支持を集めた景勝が、景虎を攻め滅ぼすことになる。
この時、新発田城主・新発田重家は謙信に仕えていて、謙信の死後に起こった「御館の乱」では上杉景勝の重臣として勝利を得ている。 

しかし重家は、織田信長と気脈を通じ、上杉家において謀反を起こすのである。原因の一つに御館の乱での恩賞が不満であったらしい。 
重家は信長の支援のもと上杉氏に対して攻勢を強めたが、景勝軍と戦って敗れ、自害して果てている。

重家は、その戦乱中に新潟・信濃川の中洲に砦(築城)を築いている。
しかし、4年後には景勝によって落城してしまう(廃城)が、この時の廃城遺構は現在は残っておらず、実際の場所も分かっていないという。 
その理由は、当時は信濃川と阿賀野川の河口が一帯となっており、その「中の島」に築いた城の為に、後の洪水等の河口変動により土地(島)が消滅してしまった為とされている。 

現在は川底なのか陸上なのかも不明だが、市内白山公園付近(信濃川の昭和大橋のたもと)ではないかとの推測もある。
信濃川の「中の島」と言う事で上杉方も簡単には攻められず、水上交通の要所の為、水利権を得た新発田側が物流を掌握するなど一時は優勢であった。 

一方、上杉方は地元の商家と組み、商船に武器を俵に詰めるなどして乗せ、内通者を通じて場内に入り込み城主を討ち果たし、あえなく落城させたといわれる。
その後の新発田側は、劣勢に追い込まれ、次々と城も落ちて 、遂に本城の新発田城も落城し、新発田氏は滅亡する。 結果、重臣・直江兼継を以って、越後には「上杉景勝」時代が到来する・・!!。

尚、「新発田」と言う名称は新発田氏が滅んだ後もその名は残り、現、新発田市、そして新発田藩、新発田城として江戸末期まで存続している。 
慶長2(1597)年に上杉景勝が会津若松移ると、秀吉の家臣・溝口秀勝が新発田城に任じられ、その後は代々溝口氏の居城となった。その秀勝の「秀」は秀吉から授かったとされ、曾孫にあたるといわれる人物に赤穂浪士・「堀部安兵衛」がいる。

溝口氏の江戸期、河口上流部での河川改修により阿賀野川が信濃川に合流(水路で繋がれている)するようになってから水深も深くなり、新潟は河川水運、日本海海運の「新潟湊」として発展してゆく。
幕末、修好通商条約によって新潟は函館、横浜、神戸、長崎ととも日本海側ではただ一港の「官港」として開港し発展してきた。

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紀行(13)温海 「義経と鼠ヶ関」」


道程は「山形県」に入った・・、




史蹟・念珠関址


国道7号線が新潟県から山形県への境を過ぎたところ、羽越本線が交差するあたりに「史蹟・念珠関址」(鼠ヶ関・ねずがせき))が在る。

実は、この地・鼠ヶ関(鶴岡市鼠ヶ関・旧念珠関村)には関所跡が二ヶ所あるという。 
江戸開府から明治初期まで設置されていた「近世念珠ヶ関」と、ここから南方至近の県境にある古代の関所址である「古代鼠ヶ関」とである。

鼠ヶ関は古代より陸奥国(東北)への入国に際しての関所であり、勿来関(太平洋岸の陸前浜海道・国道6号)に、白河関(中通り・陸羽海道・奥州街道・国道4号)のとともに「奥羽の三関」の一つであった。 
国道沿いにある「念珠関址」は近世の関所址ということで、江戸期には「念珠関御番所」と呼ばれていた。 
最上氏の時代に地元鼠ヶ関の領主が関守として国境を警護し、酒井氏の時代には藩士も上番として国境警護にあたったとされてる。
一方古代の「鼠ヶ関」は鼠ヶ関駅の南、現在の山形県・新潟県県境付近にあったという。 
古跡は現在は石碑のみの形で残されているが。 


古代「鼠ヶ関」について・・、


源義経が奥州に逃れる際「勧進帳」の様な姿形で、この地へ上陸して、この関を通過したとされる。
古書には文治5年(1189年)、源頼朝の奥州征伐軍が越後から出羽「念種関(ねずがせき)」を通って合戦に及んだことが記されている。
この戦は奥州の覇者・藤原一門と義経を滅ぼす為だったのだが。


義経の下りであるが・・、

平安後期の1185〜1186年、兄頼朝から追われた源義経は、武蔵坊弁慶などのわずかな家来を従えて、北国路を北に進み、温海町鼠ヶ関から鶴岡市に入り、羽黒山に立ち寄り、立川町清川に出て舟で最上川をさかのぼり、戸沢村を経由し新庄市の本合海に至り、ここから亀割峠を越して最上町に入り、宮城県との県境の境田を経て岩手県平泉に逃れたという。

義経一行は越後の馬下(村上市)まで馬で来るが、ここからは船で海路を辿り鼠ヶ関の浜辺に船を着け難なく関所を通過した。
そして、関所の役人の世話する五十嵐治兵衛に宿を求め、長旅の疲れを癒し、再び旅たって行ったという。
この鼠ヶ関の通過の条は、歌舞伎の「勧進帳」の劇的場面として描かれているが・・??。


一方、加賀の小松(石川県)の「安宅関」の項でも・・、

山伏姿で「安宅の関」にさしかかり、関を越えようとしたその時に、関守・富樫左衛門丈泰家に見とめがられ、詮議の問答が始まる。

勧進帳」とは、寺院建立(東大寺)などの資金集めの趣意をしたためたものである。
弁慶は白紙の勧進帳を読み上げて、強力に身をやつした義経をかばう。 
なお顔が似ているという関守の前で、 “義経に似た貴様が憎し” と主人を打ちすえする。
その忠義の心に感じた富樫は、義経と知りながらも一行を解放したとある・・??。

因みに、安宅という土地は海岸線にあって、大昔から異国の襲来に悩んでいたようであるが、国内の関所としての役目を果たしていたかどうかは疑問で、まして、平安期、鎌倉期に、この安宅関が実際に在ったかどうかは疑わしいともいわれる。 

元より、謡曲や歌舞伎でおなじみの安宅関であるが、実は「義経記」などには「安宅の渡し」(現安宅関跡は海岸近くの悌川の畔にある)とあり、「安宅関」とは出ていないらしい。


また、義経を敬愛していたとされる松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で、加賀にやってくるが、「安宅関」に立ち寄ったことは記載されておらず、芭蕉の時代には、「安宅関」はなかったか、意味をなしてなかったとされる。 

江戸後期の加賀の地誌などに、ようやく「安宅関」の記載が見られるという。

この頃の天保11年(1840)3月、河原崎座でた謡曲『勧進帳』が初演され、更に歌舞伎でも上演され、「安宅関」の名は全国的に広まったようで、その後一般的な小説やドラマになったとされる。


尚、2005年、NHK放送の大河ドラマ「義経」放映において、基本的に「安宅関」に関わる場面は当然登場し、出演者の熱演に見入ったが(富樫泰家:石橋蓮司、 武蔵坊弁慶:松平健、 源義経:滝沢秀明)・・、義経一行が「安宅」を通ったのか、通らなかったのかというのは「史実」の世界ではなく、物語の世界であるようだ。

ただ義経が、「判官びいき」と言う言葉を生んだ大きな要素の一つに「安宅の関」の出来事が発端といわれる。
「歴史の史実」は大切で重要ではある・・が、「言い伝えられてきた」ことも傾聴すべきではあると思う。


これは余計なお世話だが・・、
小生が想像(創造・・?)するに、「安宅の関」と「鼠ヶ関」を両方登場させ、物語として構成すると、更に面白くなるのでは・・?。 

それは、加賀・「安宅の関」は都(京都)からもまだ近く、当然、頼朝臣下の目が届きやすく手配も充分であったろう。 
関守・富樫左衛門丈泰家が義経一行を咎め、捕らえようと待ち構え、厳しい詮議も当然行はれたと観るべきである。

一方の出羽・「鼠ヶ関」の方は、頼朝の目から最も遠く、陸奥の国の入り口でもあるので、ここは藤原秀衡の息がかかっていたことも想像される。関所の役人・五十嵐治兵衛は秀衡の意向に添って義経らを丁重に歓迎し、懇ろ(ねんごろ)にもてなして世話をする。

という両関所の対比、対極が面白いと思われる。



国道の先端岩盤に「鼠ヶ関灯台」が立ち、赤い鳥居が印象的である、鳥居は厳島神社らしい。 
今日の目的地、温海町(あつみちょう)の温海温泉と「道の駅」へ。

国道7より、温海温泉へは標識と共に分岐所に、10mもあろうか大きなコケシが道案内をしてくれる。 

温海川に沿って2kmも行くと、温泉街に着く。
キラキラした土産店などは全くなく、シットリとした、落ち着いた佇まいを見せてる雰囲気のある温泉街だ、いかにも歴史を感ずる。 
三箇所ある共同湯のうち、「正面湯」に浴いろうとしたが、駐車場が無く、やむなく観光協会の案内でグランドホテルの湯に浸かった。 

大きな内湯にソコソコの露天風呂も有り快適であった。 
泉質は含硫黄-ナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩温泉、無色透明のサッパリした湯、飲むと、やや塩っぽい味がした。 露天風呂に浸かっている時、俄かに大雨がやってきたが、そのまま浸かっている、、、これもまた一興。

温海温泉は湯野浜温泉、湯田川温泉とともに庄内三楽郷に数えられるという。
その由来は807年に手負いの鶴が傷を癒しているのを見つけたという話や平安初期の849年の大地震で温泉が湧き出したという話がある。 

記録から戦国以前には湯治場として成立していたと考えられ、江戸期には庄内藩が湯役所を置いて代々の藩主が訪れたという。
現在の朝市の場所に湯役所、源泉があったとされる、その名物・朝市は東北最古とされ、温泉神社も再建された。

温泉街を後にして、途中コンビニで軽い夕食をして、「道の駅」まで戻り、 今夜の宿・車中の人となる。

次回は
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