日本周遊紀行

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紀行(123)館山 「房総・安房神社」

安房は、阿波に通じる、古代の阿波一族が房総地方から武蔵を拓いたとされている。

その房総一ノ宮が「安房神社」であるが・・、

「房州」は、房総半島の海側の方から上総、下総と呼ばれている・・、


古来、古代から中世の交通機関は船が中心だった。 
その房州は古くから関西との関係が強く、「勝浦」や「安房(阿波)」、「白浜」など、克っての故里(ふるさと)の地域の名を付けたところも多い。

又、九十九里には、鰯・イワシを追って大阪や和歌山の人々が移住して来ている。
銚子市の人口の何割りかは、醤油の製法などを伝えたとされる和歌山県人達の末裔で、今でも夏になると先祖の墓参りに戻る人がいるという。


安房一宮の安房神社は、四国・阿波から古代の「忌部族」(いんべぞく:大和朝廷成立に大きな役割を果たした阿波忌部氏:農耕、植栽の民)が渡来し創建したもので、四国の「阿波」と房総半島の「安房」が何れも「あわ」と読むのは忌部氏が阿波から安房に行った際に命名されたとも言われている。

忌部氏は更に、当地に「麻」(あさ)を植えたところ良く育ったことから、「総」(麻の糸を束ねること、ふさ)の名が付けられ、上総、下総の名が生まれたとも言われている。

更に、現在の西東京の一帯を「武蔵野」と呼ぶが、一昔の東京地方は「武蔵」といったのは周知である。

「武蔵(むさし)」の地名は、かつて南関東一帯が「総(ふさ)」という国名だったことに由来しているという。 
現在でも千葉のことを房総、下総と称しているのは前述のとおりであるが、その名が残る「総の国」は、特に現在の東京一帯を総の下、つまり「総下(ふさしも)」とも呼ばれていたそうで、その「総下」が年月と共に「ふさしも→ふさし→むさし」に変化したという一説もあるという。

その阿波忌部氏といわれる一族が、黒潮ルートに乗って房総半島に渡来し、房総から関東一円を開拓したとされてる。  



その起因とされる話は、四国・阿波に飛びます・・、


阿波の国には、日本の国が拓かれる当初からの「古社」である「忌部神社」(徳島市内、忌部族すなわち徳島県民の祖神を祭り古来阿波の国の総鎮守の神社)と「大麻比古神社」((おおあさひこじんじゃ:徳島県鳴門市・阿波国一宮)が鎮座している。
共に古代の忌部氏に縁り(ゆかり)の神社である。

神社古書には・・、
「 当社は麻植神と称し、あるいは天日鷲神(あめのひわしのかみ:阿波忌部氏の祖)と号す 」と注記してある。 

忌部というのは、「斎部」ともいわれ、大和朝廷で中臣(なかとみ:藤原氏)氏と並んで祭祀をつかさどった一族であり、平安初期には忌部を斎部とも改称している。
つまり、斎部(いみべ、いんべ)は神祇祭祀に携わる部民のことで、それを統率したのが忌部氏であった。


平安初期の文献に「古語拾遺」(こごしゅうい)というのがある。 

官僚・斎部広成が807年に編纂したもので、忌部氏が伝承する記紀(古事記、日本書紀)神話と祭祀の問題点を示した文書である。 
内容は、天地開闢(てんちかいびゃく:記紀内容)から奈良期・天平年間(729年〜749年)までが記されていて、古事記や日本書紀などの史書には見られない斎部氏(忌部氏)に伝わる伝承も取り入れられているという。

元々、斎部氏は朝廷の祭祀を司る氏族であったが、「大化の改新」以降、同様に祭祀を司っていたのは中臣氏(藤原姓を与えられたが、後に別流は中臣姓に戻された)であり、政治的な力を持ち、祭祀についても役職は中臣氏だけが就いているという状況だった。
この書は斎部氏の正統性を主張し、有利な立場に立つために著されたものであるともいわれるが。

以降、斎部氏は伊勢神宮の奉幣使の役職を司っている。 
奉幣使(ほうへうし)とは、勅命、つまり天皇からの進物または礼物を山陵・神宮・神社に奉献する使者のこと。

忌部氏の祖は、天岩戸で活躍した天太玉命(アマノフトダマノミコト)であるとされる。 

今日の神道で行われるさまざまな神事を統括し、そこで使われる一切の神祭用具を管理する神、というのが天太玉命(神)の本来の役割であるという。


記紀(古事記、日本書紀)では、天岩戸に隠れてしまった天照大神(アマテラス)を誘い出すため、天太玉神は、洞窟の前で卜占(ぼくせん、占いのこと)をし、太玉串を作って捧げ持ち、祝詞(のりと)を奉じて、大神の出現を祈ったとされる。 

玉串とは、榊の枝に紙垂をつけた神に捧げる供物のひとつで、太玉串は「立派な玉串」といった意味であり、古代には紙でなく「布」を使っていたらしい。

この天太玉命には五つ神が従っていたとされ、そのうちの一神が天日鷲命(アメノヒワシノミコト・天太玉命の弟ともされ、阿波国を開拓した)であり、その子孫が阿波忌部氏であるという。 


氏は、「布」の元となる穀や木綿・麻布などを植えて作り、朝廷に貢上して祭事に供された。 
阿波の国のことを「麻植郡」とも称していて、現今でも、徳島県の地域には「麻植郡」の名が残る。

阿波忌部氏の一派は後に東国に渡り、麻や穀などを植え、当地に「安房社」を建てた。 
その地は、やがて安房郡となり、のちに安房国となったと伝えられる。


因みに、戦国の覇者・織田信長は、古代忌部氏の子孫であるともいう。
祖先は福井県丹生郡越前町織田にあって劔神社の神官である関係から、越前忌部(斎部、)氏の支流であり古代豪族の忌部氏で、後に平氏を称したとされている。

その「安房神社」は、房総地方の総鎮守であり、安房国一宮となっている。

「安房神社」は、阿波の国から阿波忌部氏の一部を率いて房総半島に渡り上陸した際、そこを安房の郡(こうり)と名附けて天太玉命を祀る「社」を創建したとされている。
朝廷・武門から篤い崇敬を受け、特に領主の里見氏は社領の寄進や社殿の修造を行い、そのときの寄進状も残っている。 祭神は、天太玉命を主神とする。 

安房国は忌部氏が開拓した土地であり、天太玉命はその祖神であり、相殿に「天日鷲命」など忌部五神が祀られている。
古代、安房の国(阿波の国でもある)の建国当時の神々が祀られているわけである。



「安房神社」・上の宮(本宮)


「安房神社」・上の宮(本宮)拝殿


安房神社は、国道410号が洲崎方面に分岐する相浜地区の山中、その名も館山市大神宮という町名をも戴いている。 

JR内房線では、館山駅から南へ約10kmの吾谷山の麓に安房神社が鎮座している。 
鬱蒼とした大樹に囲まれ、堂々とした拝殿と檜皮葺の本殿が立ち、森閑としている。 
参道の右手に「下の宮」があり、その近くに摂社・琴平社。 参道奥を右に曲がると「上の宮」があり、その前に摂社・厳島社(磐座)がある。

この地域は、房総先端部に当たり、黒潮の潮流に乗った古代海人族が上陸した地点としては最適の位置であろう。 
関東進出の第一歩となった阿波忌部の記念すべき上陸地「館山」と「阿波・徳島」とは、現在でも交流が続いているという。

引続き「館山」

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紀行(123)館山 「里見氏の盛衰」



白浜で房総の実権を奪った里美氏は「館山」に根拠をもつが・・、

温暖な気候に恵まれてる館山も、千倉同様「花の街」である。

相浜からは再びフラワーラインがはじまり、両サイドを季節の花で飾られたほぼ直線の道が続く。 
可憐に咲く色彩鮮やかな花々に思わず見とれるほどで、この平砂浦海岸通りの途中には「館山ファミリーパーク」、「南房パラダイス」、「白浜フラワーパーク」と、特殊な熱帯性の花も楽しむことが出来るスポットである。

次には、果てしなく広がる大海原、岩礁に散る白い波、荒々しくも雄大な風景の中、間もなく洲崎へ到着した。


大きくカーブする細い道へ入ると洲崎灯台が立つ。 
対岸にある三浦半島の剱崎灯台とともに東京湾の入り口を守る。 
ここは、房総半島の先端で、三浦半島の剣崎とともに東京湾・浦賀水道の入口にあたるところである。 
また、内房総、外房総の境目となっているところでもある。

灯台には入れないが、敷地内からは天気が良ければ、対岸の三浦半島が手に取る様に見え、そして、相模灘越しに富士の秀麗な姿が見事に見渡せるはずである。
尚且つ、ここは初日の出と、初富士とを同時に見ることができる絶好のポイントでもある。 
しかし、今日は小雨混じりのドンヨリとした日で、望むべきもない。 


子供が幼少の頃何度か訪れたことのある、館山国民休暇村を横に見る。
その向こうは濃い大洋の蒼が広がっている・・。この大洋を時折眺めながら、ゆったりと車を進める。
内房の東京湾を眺めると、いよいよこの旅も終焉に近づいていることを実感しながら。

厳しい(いかめしい)海上自衛隊の基地を過ぎると、館山市街である。
何故か、館山の西口駅前の海岸に出てしまった。 

この海岸も何ともいえない風情が漂う。
JR内房線「館山駅」より館山湾を望めるこの荒井、北条地区は、「白砂青松100選」「日本の道100選」にも選ばれている美景のポイントでもあった。


一方、やや内陸部には小山のような丘の上に城山公園があり、戦国時代の武将、里見氏の居城・「館山城」(模擬天守)が新装なって聳え立っている。 
古城は天正6(1578)年、里見義頼が重臣に築城を命じ、その子義康が天正16(1588)年に大規模な改修を行い、天正18(1590)年に完成している。

城郭から晴れた日には市内と館山湾が一望できる絶好のビュースポットであり、公園内には、椿、梅、桜、ツツジ等の花木が小径をうずめ、四季折々の花が咲き、桜の名所としても知られている。


「館山」は中世の頃には・・


戦国武将・里見氏がこの地を統治、滝沢馬琴作の「南総里見八犬伝」の舞台にもなったところで、今でも、里見氏の史跡の数々や八犬伝のロマンが香る史跡が残っている。


平家が滅んだ後の鎌倉期、この「館山」は執権・北条氏一族の勢力も及んで、室町時代に入っても鎌倉が関東の中心で、その湾口に対岸する三浦半島即ち鎌倉と安房とは強いつながりをもっていた。

そのころ、鎌倉にいた足利氏(鎌倉公方)と上杉氏(関東管領)は対立しており、足利氏は側近の里見義実に命じて、安房から上杉氏を追い出そうとした。 
義実が安房の上杉勢力の追い出しに成功すると、やがて里見氏が安房の武士たちを従えるようになり、その後、六代義堯(よしたか)が房総半島全域に勢力を広げて、房総最大の戦国大名に成長している。

戦国末期・里見氏は、最大の敵だった小田原北条氏と敵対していた。 
里見家八代目当主・里見義頼の時、北条氏の勢力が上総にまで及び、家督を継いだ九代目当主・里見義康はその意思を継いで館山城を築き本城としていた。 
天正十八年(1590年)の秀吉の小田原攻めの後、里見氏は安房の地を安堵される。

だが、徳川将軍家の江戸初期になって、里美家に衰落の変化が訪れる。 

父の死により忠義が家督を相続するが、その後内粉、内乱で治世は困難を極め、縁あった大久保忠隣(ただちか:相模・小田原城主、忠義は忠隣の娘を妻に娶っている)の失脚事件(大久保長安事件)にも連座したとされて改易されてしまう。 

忠義は更に、嗣子が無いとされて大名家としての里見氏は滅亡するのである。
この時、失意のうちに死んだ里見忠義公に殉死した八人らが、時代設定は異なるが、かの有名な「南総里見八犬伝」のモデルになったとされている。


現在、模擬の館山城が市街南方に立つが、その城下の「慈恩院」の境内に、九代里見義康公の墓、忠臣の墓・「八遺臣の墓」がある。



市街地の目抜き通りにて、海産品のお土産を購入して、先へ急ぐ。
館山の市街地を抜けると東方に大房岬(たいぶさ みさき)が突き出ている。 
房総には珍しく7〜80mの断崖の岬で、雄大な海と奇怪な海蝕景観にも恵まれ展望台も点在している。

県はこの岬を自然公園の拠点としてビジターセンターや園地、キャンプ場、宿舎等、各施設を造った。
又、この岬は高台で東京湾の入り口に当たるため、江戸及び東京の防衛拠点としての台場(要塞)の施設が整えられたという。

江戸時代の末には黒船来襲にあわてた幕府は、江戸の防衛のために10門の大筒が備えられた。
明治20年代に入ると日清・日露戦役に備えて日本海軍は兵員の訓練に励み、艦砲射撃の演習場として大房岬が選ばれている。

又、昭和3年、陸軍は東京湾防衛のため大房岬を買収し、要塞化する工事に着手している。
それは巡洋戦艦の艦砲(口径20cm)2門の砲塔が2基備えられ、1個大隊の兵士が東京湾の防衛に当たったとされている。
しかし、いずれも江戸末期の騒乱から昭和の大戦まで実際に使われることは無かったらしく、現在は、砲塔や弾薬庫の痕跡だけがのこっているという。


富山町は東京湾に面してはいるが、内陸奥山へ長広に延びている山岳の地域である。
町のほぼ中央に安房の名山といわれる「とみやま三山」(富山、伊予ヶ岳、御殿山)がある。 

ここは滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の舞台の発祥の地とされている。

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紀行(124)内房 「鋸山」



”乾坤一擲”の日本寺が「鋸山」にあった・・、


富山町を過ぎると、国道127は山間地を走る。

海岸線まで迫っているJR内房線としばらく並行してしていたが、やがて町並みに入った。 
駅前で気が付くと駅名は安房勝山になっていた、たしかここは鋸南町のはずであったが・・?


道中、「菱川師宣」の案内板を見る。

菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)は江戸時代の浮世絵師で、安房国・保田(鋸南町)出身である。
浮世絵を単なる挿絵ではなく、鑑賞絵画の一ジャンルにまで高めたという点で師宣の絵画史上における位置は重要で、しばしば「浮世絵の祖」とも称されている。 
特に、筆浮世絵の「見返り美人図」は有名・・。一方の側面として「春画」も数多く描いた話題の人でもあった。 
故郷の千葉県鋸南町には菱川師宣記念館がある。



「鋸南町」の町名は、一昔前(1959年)勝山町と保田町が合併して新たに出来たらしく、「鋸山」の南に位置しているので名づけたのだろう。

神奈川に住む小生は三浦半島の久里浜から金谷のフェリーを経て、この鋸山周辺へは何回か遊覧に来たもんでである。
鋸山はこの地から眺めても、文字どうり鋸の歯のようなギザギザの断崖絶壁が連なっている岩山である。

この鋸歯のギザギザは、かつて「房総石」といわれる凝灰岩(ぎょうかいがん:火山から噴出された火山灰が地上に堆積してできた岩石)の産地であり、その跡を留めているのである。

幕末から明治、大正、昭和にかけて主に横須賀軍港や横浜の港湾設備、東京湾要塞の資材として利用され、また靖国神社や早稲田大学の構内にも利用されているという。 
採石は昭和50年代を最後にとだえている。


現在の「鋸山」は観光資源として利用されている。 

標高は329m、海岸近くのため山頂からの東京湾や対岸の三浦半島の景色、眺めは抜群である。金谷の町からはロープウエイが、又、自動車道も頂上付近まで延びている。歩くんであれば、約3.5時間、日本一の石参道を2639段登る事になる。 
頂上にはオーバーハングした岩の上に「地獄のぞき」という地獄の名勝もある。


又、鋸山には“乾坤一擲”の「乾坤山・日本寺」がある。

本尊は薬師三尊で、薬師如来の大仏(日本寺大仏)があることで知られる。
山頂部のほとんどの部分を境内にしていて、スケールの大きな見所いっぱいの寺であり、1300年前に行基菩薩(奈良時代の名僧)によって開かれた関東最古の勅願所で、由緒有る古刹でもある。(勅願寺は勅命・天皇によって国家鎮護・皇家安穏を祈願した社寺)

山の頂でお薬師さんが瞑想して鎮座しているのに、足元でカンカン、トントンと石切の音を響かせているのには、さぞかし落ち着かなかったことだろう・・?、
しかし、民衆の為と思えば静かに黙認してもいたのであろう・・!。


因みに、この日本寺の石窟群は、バーミヤン遺跡を彷彿させる・・、 


あちらはアフガニスタンの古代都市バーミヤンの町を中心とする山中の渓谷地帯に6〜7世紀、刻削された石窟の寺院である。 
石窟の数は1000以上にものぼり、仏教美術の優れた遺産としてユネスコ世界文化遺産にも選定されている。近年、タリバン政権によって一部破壊されたが、ユネスコにより修復と保存が実施されている。

日本寺の薬師如来坐像は、高さ31mの日本一の石窟大仏であり、他に百尺観音、大野甚五郎の系統、あるいは末裔により彫ったとされる石仏、世界第一の羅漢霊場・千五百羅漢など全山に石窟彫刻群が並ぶ。



浦半島へフエリーが航行している金谷港から,「内房なぎさライン」を北上する。 

ここは既に「富津市」である、もっとも鋸山あたりが町界らしいが。 

佐貫の信号で国道465へ左折すると間もなく富津岬の基部を通る。
富津岬は富津公園を中心に、海のレジャー満載の地である。
その中でも「アサリの潮干狩り」は有名である。 
岬先端の南側が、遠浅のアサリ養殖地域で、シーズン中(3月〜8月頃)は首都圏から大勢の漁客で賑わう。

富津岬は西へ長くのびていて、浦賀水道を経て真向かいの三浦半島の観音崎とは僅か数キロの地で海路の最狭部にあたる。
江戸期、外国船が通商を求めて度々やってくるようになると、海防上、非常に重要な地点の一つとなった。 
そのため、富津市域(佐貫藩)の海岸線に防備のための砲台が築かれた。 
嘉永6年(1853)ペリー来航時は、日本の政治を大混乱に陥らせることになったが、この時の佐貫藩の人々のも大いに動揺したという。

明治期から太平洋戦争まで軍の砲台基地や陣地になっていて、現在もその跡が残っている。

国道465は富津岬の基部から国道16号線になる。
国道16は首都外廓幹線道路で埼玉、東京郊外から神奈川の横須賀まで達している首都圏の大動脈である。

JR内房線の大堀駅前を通過すると「君津市」である。 

海よりに広大な新日鉄の工場群を見ながら進むと、あっという間に「木更津市」に入ったようだ。

次回は、君津、  PART(5)へ


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