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紀行(110)いわき湯本 「徳一と長谷寺」


高僧・「藤原徳一」と長谷寺について・・、
 

湯本の駅から1.5km、歩いても15分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」がある。 
今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、「徳一」が開基した寺とされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。

長谷寺の本尊である十一面観音(県重文)は鎌倉末期の仏像であるが、その胎内には長文が記されていて、その中に『奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也』とあって、徳一建立が明記されている。 

この古書は古寺の第一級資料に当たるとされ、内文によって『神明鏡』(14世紀後半頃、神武天皇から後花園天皇までの年代記。
時代ごとに仏教や合戦などの特色が説明文で記載されている)と比較すると、平城御願長谷寺、つまり平城天皇(第51代の天皇・在位806年〜809年頃で、桓武天皇の長男)の意思で建てられたか、或はそれに準ずる格式のある寺である。
つまりは、中央政権下の藤原氏の強力な支援があったとされ、そのことが歴史的に大きい意味合いを持つとも言われる。

徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・?、 それは、正面に拝謁できる「湯の岳」を目にしたからに他ならないといわれる・・。
徳一の故郷・奈良の都には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。

湯嶽、湯の岳(ゆのたけ)は先にも記したが、神代の昔から地元民から尊崇された御神体山であり信仰の山であった・・、標高593m、湯本の町を一望におさめる名峰である。
古代、湯嶽(湯岳)を三箱(さばこ)山(三函山)とも称したらしく、徳一は、この神霊なる湯の岳を仰ぎ見て、「三学の箱(函)」を納入したことから、この地名が付いたといわれる伝説もある。

中世には既に、この山は「サハコ山」ないし「サハク山」と呼ばれており、それに因んで山麓地域は「三函」という名もあり、温泉もまた三函(サハコ)の湯あるいはサハクの湯と称されていたという。

「三学」とは戒・定・慧(かい・じょう・え)のことで、仏教の実践の三大綱要で戒学・定学・慧学の仏道修行の根本を三学をいう。
つまり善を修め悪を防ぐ戒律と、精神を統一する禅定と、真理を悟る智慧をいう。
湯の岳の中腹に、その所伝の観音堂跡があり、この観音堂こそが徳一の根本道場の一つだったことを物語っているし、この山全体が徳一観音信仰の霊場だったようにでもある。 
徳一開祖の会津の磐梯山・恵日寺、筑波山の中禅寺などと同じように、徳一開創観音寺とする伝えは、きわめて真実味があり由緒あるものといえる。


三函(サハコ)の地名は、今も湯本の町内に住所名として存在するが、「長谷寺」の所在地は上湯長谷である。 
読みは「かみゆはせ」ではなく、「かみゆながや」と称している。
「湯長谷(ゆながや)」の「長谷(ながや)」は、当然、長谷寺の「長谷(はせ)」に由来する。 

因みに、隣地に「下湯長谷」もある、湯の岳に向かって近いの方、つまり上の方が長谷寺の在る上湯長谷であり、遠く下の方が下湯長谷地区である。


次に、先に温泉神社の由来については先に触れたが・・、


奈良期の7世紀頃、神体山である「湯の岳」より降臨(神仏などの天下ること)して里宮として遷座したもので、後に、大和国・三輪神社(現、大神神社:現在奈良県桜井三輪)の主神を勧請し、祭祀されたとものいわれる。

三輪山は、奈良盆地をめぐる山でも高さ467メートルの一際形の整った円錐形の山であり、いわき湯本の「湯の岳」と類似形をしている。 
そして太古より神宿る山で、そのものが神体であり、原始信仰の対象であったとされるのも酷似しているのである。

奈良盆地の大和国は、奈良期の仏教伝来後、最も盛んに根本仏教が栄えたところであることは周知である。
奈良時代の仏教が波及するようになって間もなく、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という神道と仏教を両立させるための信仰行為が成立する。
神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とも言われる。

仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からであったが、実は天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、100%仏教とは行かなかったようである。 
つまり、仏教は、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。 

そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきて、歩み寄ったのは神様の方であり、因みに、その一番手が八幡神(宇佐神宮・応神天皇、大分県宇佐市)だったとされている。

日本において神仏習合思想に基づいて、神社を実質的に運営する仏教寺院が設けられ、この寺院を「神宮寺」と称した。

そこで三輪神社の神宮寺は、大神寺、通称、大御輪寺であった。
(現在は、神仏分離で三輪若宮神社になっているらしい)この寺院には天平国宝の十一面観音が祀ってある・・、観音信仰の菩薩である。

観音信仰の中心は「長谷寺」であるが、その根本御堂が三輪神社・三輪山の東に位置する大和・初瀬(泊瀬)川の「長谷寺」であることは周知である。 

初瀬川は聖なる川といわれ、初瀬が生じて「はつせ」・「はせ」・「長谷」になったとされる。 
初瀬川は長谷川でもある。

三輪山の神に仕える巫女、彼女たちが禊ぎをするのが初瀬川であり、長谷寺の興りはこの三輪山と初瀬川であるとも想像できるのである。

三輪山のご神体が、初瀬川で生まれた「龍神」であり、龍神信仰と結びついたのが長谷信仰の根本である「十一面観音」であった。


大和の王城について・・、


三輪山の神に囲まれた大和は王城の地であった。
ではそれ以前は・・? 旧態豪族の住む地であったとされる。

神武天皇が九州の地(日向・美々津)から紀の国へ上陸し奈良盆地を平定するとともに、この地域全体を「大和」と呼ぶようになった。
さらに日本全土を大和と呼び習わすようになったといわれる。 
「大和朝廷」の都の成立であり、その信仰の中心的支柱が「三輪山」であり、歴代大王=歴代天皇家の地となった。

三輪山の神は本来、旧来の豪族たちの神々(大国主神・国造りの神など)であったが、大和朝廷以降は天皇家の神々を祀った。
このため大国主神は出雲へ追いやられるのである。 
しかし、後に三輪の神も伊勢の地に遷宮され、次の三輪の神になったのが「大物主神」であった。 

移ったのは皇祖神である「天照大神」が伊勢の神(伊勢神宮)であり、出雲では「出雲大社」であった。
三輪山の新たな主に収まった大物主神は、大国主神の別霊とされているが、これは大国主神の方こそが大物主神の別霊であるともいわれる。 
三輪山は最大最高の神霊地(豪族としての大王家氏神:大国主神)なのであり、それが反転したのが「大物主神」なのであるとされてる。

次回は、 「徳一と藤原氏」

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紀行(110)いわき湯本 「徳一と藤原氏」


前回まで奈良の三輪山、大和の国、そして大和朝廷の来歴を述べてきたが・・、


ここで、「藤原氏」が登場する・・!。

これら大和朝廷及び天皇家を擁護し、画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。 
製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 
「旧秩序」、「旧勢力」、「旧豪族」を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。


常陸の国に「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市宮中:常陸国一の宮)が壮大に鎮座している。 
香取神宮と並ぶ東国の大社であり、霞ヶ浦を中心とする大水郷地帯の歴史的中心である。

藤原氏の祖・藤原鎌足(中臣・なかとみのかまたり)は、この鹿島の地で生まれたと伝えられ、やがて大和の都に「春日大社」を分社遷宮し創祀したといわれる。 
この地鹿島は中臣(藤原)氏本流の地で、海人族であったとも言われる。

鹿島神宮は、「常陸国風土記」や「延喜式神名帳」などに多くの記載があり、武甕槌命(タケミカズチ)とその子神の天足別(アマタラシワケ)命を祭神としている。 

武甕槌命は通常、記紀では迦具土神(カグツチノカミ)の血から生まれた神とされるが、藤原氏が奉斎する鹿島神宮の祭神・武甕槌命は、元より天孫降臨・天照大神の一族とされ、出雲の国の「国譲り」では、かの諏訪大社の大神・建御名方神(タケミナカタ)と相争い、これが日本における「大相撲」の起源ともされているのは有名な話である。

藤原鎌足は飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖にあたる。

大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍するのは歴史上でも有名である。
その子「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が実質的な「藤原姓」を名乗り、藤原氏の祖と言っても良い。 その孫に藤原仲麻呂がいて、仲麻呂の第11子が「徳一」とされている。 
つまり、徳一は偉大なる不比等の曾孫にあたるのである。



ここまで、だいぶ話が飛び飛びになったが・・、


徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 
しかし、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として活躍したと思われる。

石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。 

常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 
つまりは、早くから開けていた・・というより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。
ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていた。


九州から畿内へ、更に中部、関東と大和朝廷の新勢力が広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが・・、この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが「徳一」であり、道具は武器でなく、仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。

仏教の普及が、古代からの信仰と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段が活躍したのは言うまでもない。

「藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥の常陸の国・筑波山であり、又、蝦夷の進出地とされる陸奥の南端では西の街道の会津地方であり、東の街道が「石城」であったのである。

徳一は、筑波山に中禅寺を、磐梯山に恵日寺を、そして「石城」には湯の岳山麓に長谷寺を置いて根本道場としたのである。 
その時、藤原家の相当なる経済的政治的な側面援助があったことは言をまたない。 

徳一は、藤原家の活躍地である大和の国・三輪山を念頭に、筑波山や磐梯山を開き、石城に湯の岳を開いたのである。 
領民のために、大和の三輪山を紹介して「サハコ神社」(温泉神社)を造らせたのかもしれない。


徳一が創建した有名寺院・・、


因みに筑波山については、『筑波詣』の記録に「本尊観世音坂東の札所なり。大堂巍々雲を貫き、結構美々たる荘厳は、中々言語に絶したり」とある。 
又、『筑波山縁起』によれば「近国他国より参詣の輩、袖を連ね裾をからげ、昼夜の堺も無く、山の繁昌時を得たる有様であった」と記されている。 
何れも大繁盛として記録されている。筑波山・中禅寺は、筑波神社との神仏習合の地であった。

そして、磐梯山・恵日寺(慧日寺)は会津地方最古の寺で、磐梯山の大噴火の翌年(807年)に開いたとされている。 
磐梯恵日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部をその境内とするほど広大な敷地を有し興隆をきわめたという。
無論、藤原一族の援助もこれあり、一時は寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたという。 
恐ろしい天変地異の後なので、農民達はあっさり入信したといわれ、会津地方に仏教文化が大きく花が開いた。 
今でも厚い信仰と優れた仏教遺産が残っている。 
広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、将来に向けて復元整備が図られようとしている。 慧日寺は、磐梯神社との神仏習合の地でもある。


そして、地元・湯本の長谷寺は・・?、


「宇治山・長谷寺」は、湯の岳をいただく裾野のいわき市は湯本にある。 
正確には、いわき市上湯長谷堀の内地区で・・、湯本温泉地から歩いてもすぐのところである。

長谷寺の現状は、上記の二院ほどの華やかさは今のところは無い。 
徳一が、蝦夷開発の基地とし、隣国の常陸にも近く、藤原家の後押しがされたと思しき長谷寺は、往時は壮大無比の大寺院を想定されるが、今のところ、そのような痕跡はまったく無いのか、或いは発見されてはいないのである。

だが、霊峰・湯の岳を仰ぎ、霊験あらたかな温泉神社を配し、道後温泉、有馬温泉とともに三大古湯といわれる、サハコの湯の古湯に漬かれば良しとし、これも徳一の思し召しと思えば良しとしよう。

陸奥の国・「いわき湯本」が大きく拓けるのは平安中期以降の頃で、藤原家の御人々や源家の武人が、勿来の関で歌を詠み、サハコの湯に漬かって風雅に過ごしたとされる。 

戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として 文人芸人の来遊が絶えなかったという。

次回は、 いわき湯本・「徳一と新興仏教」

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紀行(110)いわき湯本 「徳一と新興仏教」


「徳一」に関連する東北における奈良期から平安初期における仏僧について・・、


仏教界で大きく飛躍するのは、奈良から平安にかけてで、特に、新興宗教である「真言宗」と「天台宗」が、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。 

従来は、奈良仏教と言われ「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、平城から平安に京が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を吹き込み、これが平安二宗と呼ばれるものであった。

その時期、徳一というこれまた偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その南都六宗の中心にいたのが彼であった。 
当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては、最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったといわれる。

最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。 
徳一は、その最澄に反撃を加えて五カ年間にわたる理論闘争(三一権実諍論)を行い、その結果において最澄は徳一(法相宗)に勝てなかったとされている。 

最澄は、徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一に遮られて成功しなかったという。


一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 
会津において磐梯恵日寺の建立時、空海は徳一に手紙を書いている。
『 聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。 初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重・・・
 

筑波山、湯の岳、大和の三輪山、そして相模・大山の類似共通性・・?、


小生拙宅(神奈川・厚木市)の二階の窓から、丹沢山系の一つ「大山」(おおやま・1252m)が見渡せる。 
山好きな小生が手軽に日帰りで行ける山であり、年に数度はトレーニング代わりに登山している山でもある。
思えばこの山も、筑波山、湯の岳、強いては大和の三輪山に類似しているのである。 

この大山も、神の山で古来より崇められ、江戸期にもなると「大山参り」といって近郷近在をはじめ遥か彼方より参詣にこられた由緒ある山なのである。

820年、「空海」47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。
山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は、富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。 

現在は神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊が配してある。



同時期、東北にはもう一人偉大な人物がいた・・、


これが最澄の弟子といわれるのが皮肉で面白い。 慈覚大師・円仁である。 

小生が東北を巡った際もお目にかかったが、東北の北端に三霊山と称される恐山・円通寺、瑞巌寺、それに中尊寺、山形市の立石寺(山寺)など、これら有名仏閣の開祖である。

坂上田村麿の往くところ、「円仁」の蔭があるともいわれ、東北文化の成立に大きな役割を果たした高僧なのである。 
円仁は最澄を超え、空海を超え、徳一を超えたともいわれ、円仁が布教活動にもっとも力を入れたところ、それが東北地方であった。 

「円仁」は、わが国が誇るべき世界の偉人であるともされている。


「徳一」の偉大で、且つ特異さは貴族の出でありながら、それまでの貴族中心の布教に対し、民衆に接しての救済を熱心に努めた大人物であった。

その徳一が開祖した「いわき湯本の長谷寺」は、2007年(平成19年)で丁度、開建1200年の記念の年に当たる。

過日、この寺院を訪ねる機会を得た・・、それは次回でどうぞ。

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