日本周遊紀行

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紀行(108)仙台 「東北・楽天チーム」




東北人は、巨人より「楽天チーム」を応援しよう・・!!、


この東北の都・100万人都市の仙台に近年一大歓心事が発生した、プロ野球球団を誘致したのだ。 球団名は「東北楽天ゴールデンイーグルス」・・!!。 


2004年のプロ野球界は激動・激変の一年だった。 
パ・リーグ球団は長年、経営不振の赤字に悩んでいた。そんな中、近鉄球団が解散しオリックスに吸収合併すること発表したため、各球団オーナーはセ・パのバランス上11球団の1リーグ制を支持した。 

一方、プロ選手会側が合併問題を一年間先送りすることを主張、要求拒否の場合にはストライキの可能性をも示唆した。  
この時、或るオーナーが「たかが選手の分際で無礼な事を言うな、分をわきまえろ・・」と言い、物議をかもしている。
しかしその後、球団と合併凍結を求める選手会の会合が何回か行われたが決裂となり、プロ球界初となる9月18・19の両日、セパ両リーグでストライキが決行された。

後に両球団のバランスを保つために、パ・リーグにおいて新球団を設立することを決定する。 
この時、IT企業のライブドアが新球団設立に参加し、本拠地を宮城県仙台市の宮城球場にすると発表するが、同じくIT企業の「楽天」が新球団の設立に名乗りを上げ、本拠地をライブドアと同じ仙台にすると発表した。 

プロ野球オーナー会議が開かれ、近鉄・オリックスの球団合併を承認し「オリックス」とする。
また来季パ・リーグに新規参入する球団として「楽天」を承認、ここに「東北楽天ゴールデンイーグルス」が正式に誕生したのである。


「東北楽天ゴールデンイーグルス」は初代オーナーに楽天社長の三木谷氏を当て、監督に田尾氏、主な選手に投手は岩熊、一場、川尻・・、内野手は野村、吉岡、星野、高須・・、外野手は磯部、飯田、関川・・、等々が新規球団入りした。 

尚、「ゴールデンイーグル」は英語で「イヌワシ」のこと。イヌワシは東北6県の深山に棲息し、陸上の食物連鎖の頂点に立つ猛禽類で、国天然記念物に指定されている。 
『優雅に飛んで狙った獲物は逃がさない』という意味を込めて球団が名付けたという。

因みにこの年、、王監督の「ダイエーホークス」はやはりIT企業のソフトバンクが買収し「ソフトバンクホークス」となっている。 

東北人は、「楽天・イーグルス」を応援しよう・・!!

頑張れ・・!! 「楽天・イーグルス」・・!!。




楽天イーグルスの過去の成績・・、


2005年度(初代監督:田尾安志)
38勝97敗1分(勝率.281)で最下位。 
5位・日本ハムと25ゲーム差、優勝したロッテから47ゲーム差、首位のソフトバンクからは51.5ゲーム差。

2006年度
(2代目監督:野村克也)
2年連続最下位に終わったものの、前年より9勝多い47勝(85敗4分)を挙げ、5位・オリックスとは4.5ゲーム差。

2007年度
(監督:野村克也)
球団創設3年目にして初めての最下位脱出を決め、単独4位。
最終成績は67勝75敗2分勝率.472で4位。
優勝チーム日本ハムとの差は13.5差、3位ソフトバンクとのゲーム差7.5であった。


【速報追記】 2009年度成績(監督:野村克也)、

5年目にして初めて本拠地クリネックススタジアム宮城でオープン戦を開催(対オリックス戦と対西武戦)された。
札幌ドームでの対日本ハム戦で公式戦開幕。 これに勝利すると、その後開幕4連勝。
4月を首位で終え、5月3日には最多貯金記録を8まで伸ばしたが、交流戦では6連敗するなど最終的には9勝15敗の10位に終わる。
7月に入っても8連敗するなど低迷したまま前半戦を終える。
後半戦に入り8月に最大6連勝するなど17勝7敗と大きく勝ち越すと、9月12日の対ソフトバンク戦で球団初となるクライマックスシリーズ(以下「CS」)進出のマジックナンバー「19」が点灯した。
その後、2度の消滅を経験するが、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)でCS進出(Aクラス入り)が決定。

同9日の対オリックス戦でレギュラーシーズン2位が確定し、CS第1ステージ地元開催権を獲得。
最終的には77勝66敗1分(勝率.538)の好成績を残した。
鉄平が首位打者を獲得している。
その後、野村監督の勇退決定。



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紀行(109)相馬 「野馬追」


相馬家と野馬追について・・・、 


仙台東部道路から国道6へ出る、別名「陸前浜海道」ともいう。
交通の要衝・岩沼市、歴史の街・亘理町を過ぎる。 

山元町は亘理町と合併し「亘理市」として発足する見込みであり、そして、ここは県境いでもある。 
いよいよ福島県だ・・!、我が故郷の県である。

国道6号が相馬市内に入って、その一角に中村神社・城跡が在る。 
相馬氏代々の氏神と居城であり、 17世紀、相馬18代藩主・相馬義胤(そうま よしたね)公により建立されている。 
始めは平安初期、坂上田村麻呂が蝦夷遠征の際に、北の守りを固めた「砦」として造営されたと言われる。


元々、相馬家は下総国(千葉県流山市)の住人で千葉氏の一族であった。
源頼朝の奥州平泉の藤原征伐、いわゆる、奥州合戦に従軍し、その功績によって奥州行方郡(今の鹿島町・原町市・小高町辺り)地を与えられ、これが奥州・相馬家の成立の起因となった。

相馬氏の居城は、元は小高城であったがこの頃、対立抗争を続けてきた伊達政宗が仙台城に移ってから、これに呼応して伊達氏に備えて中村の地に築城移転したともいわれる。
相馬・中村神社は別名「お妙見さま」とよばれ親しまれている。 
相馬氏の中村移城にともなって、同時に妙見宮を小高から移して祀った。 
妙見信仰は相馬武士の精神的支柱であり、今でも「相馬野馬追」の総大将はここ「妙見宮」から出陣している。


さて『相馬野馬追』のこと・・。


相馬氏の祖国、下総国相馬郡小金原に野生馬を放し、敵兵に見たてて軍事訓練をしたことに始まるといわれている。 
捕えた馬は神への捧げ物として、相馬家の守護神である「妙見様」に奉納した。

奥州・相馬氏の祖・相馬義胤が陸奥国行方郡にこの神事を移して以降、戦国時代には伊達氏をはじめとする奥州諸豪に備えるための訓練として、又、「妙見宮」へと奉納する神馬の神事として続けられた。

相馬・中村藩時代には現在の原町市街地の南部一帯を「妙見神馬の牧場」として馬を放牧しながら、甲州・武田流の兵法を野馬追に応用し、その陣立てによる騎馬の訓練をも行っていた。 
併せて、野馬を追い駿馬を捕らえて「妙見社」に奉納する行事をも兼ねたといわれる。

明治以降は、妙見三社(小高神社・太田神社・中村神社)による祭礼行事として定着していたが、明治5年頃には野馬原の野馬はすべて狩り獲られ、旧来の「野馬追」は消滅したという。 
その後、相馬三妙見の一つである太田神社(原町市)中心となって野馬追祭の再興が図られ、それが今日の「相馬野馬追」祭礼の原型になっているといわれる。


現在は、相馬野馬追執行委員会(委員長=原町市長)が中心となり、新地町、相馬市、鹿島町、原町市、小高町、浪江町、双葉町、大熊町、葛尾村、飯舘村が支援する祭りとなっている。 
祭礼は毎年の7月23日〜25日の3日間に亘って行はれ、特に最終日、原ノ町郊外の「雲雀ケ原」で行はれる、甲冑競馬や神旗争奪戦は見物である。


国の重要無形民俗文化財 千葉県流山市とは姉妹友好都市。
歴史の街,・相馬は全国的に知られた民謡のふるさとでもある、この地方だけで十数種の民謡が残る。名の通った曲は今日でも全国的に愛唱されている。    
「相馬流れ山」は、相馬藩主が下総の「流山」から移ってきたために命名された。元は軍事陣立の唄であり、今でも勇壮な「相馬野馬追い」の祭りには必ず唄われる。

相馬流れ山」 (福島県民謡)
相馬流れ山ナァーエ ナァーエ
習ゐたか ござれナァーエ
五月中の申ナァーエ ナァーエ
アノサお野馬追ナァーエ♪♪
     (以下囃子略
青い野馬原 一夜の中に
花が咲いたよ 騎馬の花
手綱さばきも 一際目立つ
主の陣笠 陣羽織

「流れ山」は、相馬藩主が下総の「流山」から移ってきたために命名された。
元は軍事陣立の唄で、今は勇 壮な「相馬野馬追い」の祭りには必ず唄われる。

歴史の街,・相馬は全国的に知られた民謡のふるさとでもある、この地方だけで十数種の民謡が残る。
名の通った曲は今日でも全国的に愛唱されている。

「新相馬節」
ハアーア 遥かかなたは 相馬の空か
ナンダコラヨート チョーイチョイ
相馬恋しや なつかしやナンダコラヨート
ハアチョーイチョイ♪♪(以下繰り返し)
秋の夜寒に 針の手とめて
主の安否を 思いやる

当座の花なら なぜこの様に
かたい私を 迷わせた

「相馬盆唄」
ハアアーアイョー
今年ゃ豊年だよ アコーリャコリャ
穂に穂が咲いてよヨー コラショット
ハアアー道の小草にも
ヤレサナ米がなるヨ アヨイヨイヨーイトナ
道の小草に 米がなるときは
山の木萱に 米がなる

揃った揃ったよ 踊り子が揃った

稲の出穂より よく揃った

踊りつかれて 寝てみたものの

遠音ばやしで 寝つかれぬ



国道6号線・陸前浜街道を南下する。 
沿岸地ではあるが、やや内陸部を走り海面は見渡せない。 

丘陵地の裾には田園地帯が連なり、いかにも東北の温暖地と言える風景である。
「陸前浜街道」の名称はすでに8世紀初頭、陸奥の国の国府 として多賀城(宮城県)が置かれ、そこに通じる官道「海道」として開かれた事に始まる。 
JR東日本の常磐線が並行して走り、常磐高速道は富岡町まで延びていた。

次回は小生の故郷・「いわき湯本」をチョット詳しく。

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紀行(110)いわき湯本 「炭鉱と温泉」



我が故郷はいわき湯本、「炭鉱と温泉」の街である・・・、
 

我が故郷が近付いたため、常磐道・富岡I・Cで一気に「いわき」へ向かう。
「いわき湯本」が小生の故郷である。
生まれは満州国・奉天市(今の中国東北部・瀋陽)であるが、終戦後、引揚げてきて父の故郷である「いわき湯本」へ住み着き、20代前半までこちらで、営々としていたのだが。


先ず、常磐炭鉱について・・、

「湯本」は文字通り古い温泉の街である・・、
そして、克ってはあの「常磐炭鉱」で賑わった炭鉱の街で、日本のエネルギー産業の柱であった「黒いダイヤ」と云われた「石炭」の街であった。


明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためでもある。 

しかし、硫黄分の多い炭質という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲(堆積当時は水平であった地層が、地殻変動のため波状に曲る現象)を受けているため、掘削は石炭層を求めて地下へ地下へと掘り下げるため、特別な技術を要する炭鉱でもあった。
このため、次第にコスト的に負担がかかり、各鉱は採算が次第に悪化していった。 
しかも、この石炭を掘り出す際、この湯本地区は同時に温泉が湧き出てきて、相当に難儀をしたらしい。

その後、化石燃料の変化にともない石炭は次第に斜陽の追い込まれ、経営的にも苦難を強いられ次々と閉鎖していった。 
最後まで残った常磐炭砿(後の常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、国内の石炭業自体も1985年に全面撤退している。
今は、「石炭化石館」として、往時の常磐炭田の採掘の歴史や産出化石をはじめ、地球の歴史を物語るといわれる諸外国の化石資料などを展示している。  


そして「湯本温泉」である・・、
 

一方、炭鉱にとって煙たい(・・石炭だから・・??)存在だった湧出する温泉は、逆に脚光を浴びた。

元より「湯本温泉」は、平安初期には開湯されたと言われる。
湯本温泉は「三箱の御湯」と呼ばれ道後温泉、有馬温泉と共に日本の三古泉として名が知られていた。
中世には戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として、来遊が絶えなかったという。


炭鉱閉山の後は、同経営母体・常磐興産が大量湧出する温泉に眼をつけ、常磐ハワイアンセンター(現、スパリゾート・ハワイアンズ)なる常夏の大温泉レジャーセンターを設立し、全国にその名を知らしめた。

「スパリゾートハワイアンズ」は遊び感覚いっぱいの温泉リゾート施設であ、ウォーターパークといわれる大プール、流れるプール、ワンダーホルンなどの施設があり、特に、中央メーンステージでは、ここの一番の呼び物のその名の如く「フラダンスショー-」が定時的の演ぜられる。 

建物は、鉄骨ガラス張りの大ドームが特徴的である。主な施設としては、水着で入るスプリングタウンには中世の南ヨーロッパ風ドームの男女別共同風呂を中心にジャグジー、ミスト、打たせなど各種の風呂もある。 
屋外へも繋がっていて、そこには温泉の川や洞窟プロムナード、パノラマサウナがあって木々や岩などが配され南国ムードを一層盛り上げている。
又、「江戸情話与市」は、ギネスブックに登録されたといわれる世界一広い露天風呂であるとのこと・・。


その絶え間なく噴き出る源泉は、レジャー・保養施設、宿泊施設のみならず、今は一般家庭にまで引湯され、昨今の温泉ブームにのって街は活況を呈しているとか。

湯本温泉で最も古い記録は、平安中期の延長5年(927年)、延喜式神名帳に「陸奥国石城郡小七座・温泉(ゆ)神社」(通称・おんせん神社)と記してある。 
しかし、奈良時代に石城国が設置された時に、その名が記されていることから、開湯はそれ以前の奈良時代に遡るとも言われる。

当時、岩城、佐竹、田村氏などの戦国領主が湯本に湯治に来ていたことが記録されている。
また、江戸期には鳥居・内藤氏の所領であった時期、浜に街道が整備されたとき唯一の温泉宿場として栄え、年間約2万人前後の浴客で賑わったともいう。 

当時の温泉は、地表に勢い良く湧出していたとされる。 
だが、明治期になると常磐地区で大規模な石炭採掘が始められ、坑内に湧出する温泉を汲み上げため温泉面の低下を来し、大正期には湯脈が断たれ温泉町として機能を失ってしまったという。
そして石炭産業が斜陽になってからは、再び、温泉揚湯会社を設立し、毎分5トンの揚湯を確保したという。


幸いなことに現在は揚湯にも拘らず、年々温泉面は上昇しているとのこと。
源泉は、石炭採掘の為の後遺症で現在自噴箇所はないが、推定で水準海面下約40mぐらいまで湯面が上がってきていると思われ、 揚湯量は毎分5トンを超え、町内の地下パイプを通し各施設に配湯し、浴槽の吐湯口で50度以上を保っているという。 
今で言う、「源泉純粋かけ流し」であろう・・!。

泉質は全国的にも珍しい「含硫黄−ナトリウム−塩化物・硫酸塩温泉」俗称、硫黄泉で、「美人の湯」(美肌作用・解毒作用・末梢血管拡張作用)、「心臓の湯」(血圧を低下させる〜動脈硬化、高血圧に効く)、「熱の湯」(高齢者向き〜保温効果が高い)を始め数々の効能を併せ持っているといわれる。


いわき湯本温泉は、かっての「常磐市」(じょうばんし)、現在の「いわき市」の一部である。 
常磐の名称については、常陸(ひたち)と磐城(いわき)の頭文字を合わせたものであり、(常磐線、常磐自動車道など) この経緯に由来して茨城県と福島県浜通りの県境周辺(北茨城市・いわき市南部)を、「常磐地区」、「常磐地方」と呼ばれる事もある。 

更に、「いわき市」成立までは常磐市が存在し、かつてはこの地域の正式な地名でもあり、そしてこの市の中心が湯本温泉地区であった。

前記したが、湯本町内・旧炭鉱敷地内には「石炭・化石館」 というのがあり、ここにいわき地方で掘り出された三葉虫などの古生代からの多様な化石が陳列されている。 
特に中生代の「フタバスズキリュウ」という、海に住んでいた首長竜の化石がこの町から出土し、原形を復元された姿での化石が展示されている。

又、常磐炭田は江戸中期から採掘が行われていて、埋蔵量が豊富で明治期の産業を支えた。
採算面から昭和60年に閉山したが、今なお豊富な石炭が埋蔵されているようでもある。

「いわき湯本」は温泉は出るし、石炭は出るし、恐竜まで出るしで・・、昔から地下の恵みに支えられているこの地方、これも佐波古神・温泉神社のお陰であり、そんな土地柄なのである。


三函湯
写真:温泉施設「さはこ湯」


我が家の檀家・白鳥山龍勝寺へ・・、


途中、温泉街の中心にある立寄り温泉・「さはこの湯」に浸かった。 
やや硫黄の臭いが漂う掛流しの天然自然温泉の湯で、身も心もリラックスできた。

そして、湯本の隣の地区・白鳥町の親戚宅(父の生誕地)へ立ち寄り、従兄と談笑した後、拙家の菩提寺「白鳥山・龍勝寺」へ向かった。
たびたび訪れて見慣れた風景であるが、いかにも田舎の静観な山間に境内・寺院が在る。子孫の繁栄健勝と旅の安全を祈願参拝する。 
龍勝寺は、旧湯長谷藩の菩提寺でもあった。

参道から山門をくぐった左手に「阿弥陀堂」が在り、ご本尊は珍しく、胎内に納めた「腹ごもりの阿弥陀尊」という弥陀三尊が安置されている。 
阿弥陀堂の建立は明治42年といわれるので決して古くはないが、この小さな「胎内仏」は、作者、年代ともに定かではなく、かなり古いものだと推測されている。 

一般的に胎内仏は、亡くなった人の冥福を祈って仏像を造るとき、故人がいつも祈っていた小さい仏像をその中に納めるのであるが、この寺の胎内仏には、「見ると目がつぶれる」という奇異な言い伝えがあると言われる。
その訳は何となく判るような気もするが・・?。 やはりというか・・、普段は堂内の安置所は閉ざされ、仏像を見ることはできない。


阿弥陀三尊とは、阿弥陀如来を中尊とし、観音菩薩を左脇侍、勢至菩薩を右脇侍とする三尊形式である。
なお、この場合の「左」「右」とは中尊から見た「左」「右」を指す。

観音菩薩は阿弥陀如来の慈悲をあらわす化身であり、勢至菩薩は知恵をあらわす化身とされる。 
お寺は臨済宗妙心寺派で、本山は「京都・妙心寺」である。

その菩提寺・「龍勝寺」からほんの2km足らず、5分ほどで湯本名物・「スパリゾートハワイアンズ」が丘陵地の一角に、華やかな別世界を形造っている。 

この別世界を題材にした「映画」が近年製作されて話題を呼んでいる・・!!。

次回は映画・「フラガール」   PART(3)へ


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