私の決意

支援センターメンバー 中島洋司



(原稿より)

 皆さん、こんにちは。私はほびき園土浦サテライトと土浦共同作業所に在籍している、中島洋司と申します。17歳で統合失調症を発病して、今年で丁度25年経ちました。最初の症状は被害妄想に悩まされていました。いちいち人の言葉尻に敏感になり、神経がピリピリしていました。頭の中が錯乱状態になり、地獄のような苦しみでした。「もう嫌だ!頭だけノコギリで切ってしまった方が余程楽だ。」と思っていました。今振り返って覚えている具体的な症状をお話します。
 私の名前は洋司です。太平洋の洋に司ると書きます。太平洋の様に大きい広い心に育って欲しいという親の願いが込められています。私はこの名前をすごく気に入っているのですが、ここで私のこだわりが起こり、私の強い思い入れの太平洋に、誰かが毒をまくのではないかと心配で仕方なくて、家族の者に「絶対太平洋に毒をまかないでくれよ!」と命令していました。そんな私を心配した母が、私の通院日に付き添ってくれました。そこで医者は、「君の心配している事は、有り得ないよ。」と諭して下さり、「そうかなぁ?」と思い家に帰りました。その晩のことです。テレビのNHKニュースで、太平洋航行中の大型タンカーが座礁して重油が海に流出し、海上に魚やイルカの死体が沢山浮いているのを見ました。私は家族に言いました。「ほら見ろ!太平洋に毒まかれたじゃないか!」その時の母の困惑した表情が今でも私の頭に焼き付いています。

 この被害妄想は20代半ばで消えていきましたが、今度は誇大妄想へと形を変えて症状は進みました。おそらく、自分が偉くなって精神障害者というレッテルを帳消ししたい、という心理。社会を見返してやるという気持ちから、天才願望が芽生えてしまったのです。医者は「超人願望だった。」と語っています。具体的に白状します。私が歴史に名を残す為には「ノーベル賞を受賞するしかない。いや、受賞してみせる!」と固く決意していました。強気の時は自信満々なのですが、ちょっと勉強してみて、理想と現実のギャップを思い知らされた時などは、ノーベル賞なんて気の遠くなるお話でした。よく父親が「お前は夢を見てるんだ!」と怒り、私は「違う!僕は本当に天才なんだ!信じてくれよ!父さん。」とよく口論したものです。こんな調子ですから家の中は修羅場でした。今思い出すと恥ずかしくなります。この誇大妄想は30代半ばで消えてくれたので、その後は大分気持ちが楽になりました。

 以上2つの種類の妄想が消えていったのも、作業所・ほびき園土浦サテライトと、毎日出かけるべき所があった御蔭だと思います。作業所へは30歳から41歳迄、11年間通所していました。指導員さん達は厳しいです。速く、正確に、美しく作業をこなすことをたたき込まれました。それでも、深い悩み事の相談にも乗ってくれる優しい方達です。また、作業所は、作業だけではなく、年一回の県民フォーラム参加。研修旅行。スポーツ大会、など、様々な精神的リハビリも行っています。私も、何回か、会合の司会とか体験発表をさせて頂き、度胸が鍛えられ、訓練になりました。

 サテライトは3年前から利用しています。様々な個性を持った人達が集まっていて、良い刺激になります。
  やはり、この病気の回復に一番大事なのは人間関係だと思います。私は作業所に通所する30歳位迄は一人ぼっちでした。でも、この12年間で随分多くの、同じ障害を持った友人を作ることができました。彼等との人間関係で楽しい事もあれば、辛い出来事もありました。その人間関係の苦労の中で、今の私の人格が形成されていきました。やはり、私達当事者は外へ出た方が良いのでしょう。人の、ど真中へ飛び込んでいくべきです。一人一人、全く違った価値観の人間同士の中で、私は考えさせられ、少しずつ角が取れていったと思います。そして人と接していると、自分が以下に愚かで器が小さい人間であるかを思い知らされ、もっと自分を磨こうと努力しています。

 今現在は、土日のほびき園土浦サテライトのみを利用しています。サテライトのメンバーさんたちは、就労意欲が旺盛で、何人かがアルバイトに挑戦していて、いい意味でライバル心が起こります。特に男性の場合、生活がかかっているので、病気を押して仕事をしている根性の男達が居ます。

 もう一つ、病気の回復に絶対必要なモノが有ります。それは服薬です。私は発病から一日も欠かさず服薬して来ました。主治医がおっしゃるには、最近10年間で、抗精神病薬は劇的に進歩し、私が発病した頃とは比べ物にならない位の新薬が発明され、精神分裂病と呼ばれていた頃の、暗い、人格崩壊のイメージはなくなり、これからの精神医学に私達当事者は希望を持てるのです。だから、薬は絶対飲むが勝ちなのです。

 次に、私が就労を目標に準備していた事を3つお話します。まず家事手伝いを率先してやっています。私は4人兄弟の末っ子で家族が多かった為、小学生の頃から洗った食器類を拭いて片付けるのが私の役目でした。今では両親共年老いているので、食器類を洗って片付ける。洗濯物を干したり取り込んだり。布団の上げ下げ。重たいお米などの買い物。ゴミ出し、などが私の仕事です。よく家族から誉められますが、「私は、家事を手伝う!」とまず決めて行っているので、どんなに私用で忙しくても、決めた家事をこなすことに面倒臭さは感じなくなりました。

 2つ目は生活リズムを確立することです。歯磨き・食事・入浴・携帯灰皿の始末・服薬など、細かな点にも気を付けて順番にこなしていくのです。頭の中で物事を数字で捉えて、クリアする毎に数字を減らしていきます。誰でもやっている事でしょうが、私の場合、数字的に行動すると、頭の中が整理整頓されてスッキリし、生活にメリハリができるのです。

 3つ目は読書です。私は、自分が納得する人生を歩みたくて、最近は哲学書に手を付ける様になりました。その中でも、京セラ名誉会長の稲盛和夫さんが著された「生き方」が私の一書になっています。足るを知る。利他の心。今日を限りと必死懸命に生きる。彼は仏教的な考えで、日本人の有るべき姿勢などにも触れています。そして人間の最大の幸福は仕事に没頭することではないか、ともおっしゃっています。そして人生の成功はシンプルに、小学校の時に習った道徳心を守ることであるとも書いています。私はこの本から、どれ程勇気と希望をいただいたか、感謝してもしきれないです。

 もう一冊御紹介します。アメリカ人弁護士さんの書いた「集中力」という本です。一部引用しますと、最初の願望を達成せずして二番目の願望達成は有り得ない。物事に優先順位を付けて一つずつ望みを叶えていくビジネスマン向けの本です。但し、間違った考えで、間違った目標を設定すると、人生は狂ってしまうとも書いてあります。人生全て宇宙の道理に従って進んでいくものだ、と彼は述べています。

 私は、本来は本が嫌いな少年でしたが、病気を患ってから、人間とは何か?自分とは?人生とは?と悩む様になり、答えを求めて本を読む様になり、励まされて来ました。

 さて、仕事のお話をします。私が一番長続きした仕事は、清掃を4年間続けたにすぎません。それ以外にも50社位は仕事を変えてきました。中には一日でリタイヤしてしまった会社もありました。辞めるたびに、会社側から「ひやかしか。」「根性が足らん。」とののしられる有様でした。私としては全力で仕事に打ち込んでいるつもりなのですが、薬の副作用のせいか、頭が働かず、意欲低下で根気が続かなかったのです。それで私は決意しました。「今、就労しても同じことの繰り返しだ。3年位は作業所でジックリ自分を鍛えよう。」それから私は、作業所生活の中で、目に入る物、耳から入って来る言葉に注意を集中し、全ての物事から学ぼうと意識して来ました。

そして、平成18年の2月、障害者就職面接会に臨みました。ほびき園スタッフの有澤さんという男性が面接会のお知らせをして下さった時、私は何となく「参加してみようかな。」という程度の気持ちでしたが、有澤さんが面接に付き添ってくれることになり、履歴書の書き方から模擬面接などを指導してくれました。私は事前に送られてきた求人票を調べ、ほぼ準備を磐石にして当日を迎えました。私は数ある企業の中から、東京精密という大手の精密機械メーカーの製造部だけに挑戦しました。面接会で主催者の開会の言葉の中に、平成18年度から自立支援法が施行されるに当たり、それからは企業側も精神障害者を雇用する動きがあるとおっしゃり、「これはもしかしたら」という期待を抱きました。

 面接開始。私は一番で東京精密の面接を受けました。私の横では有澤さんが援護射撃をして下さいました。面接官からの質問の中で覚えているのは「わが社が創っているの商品は何ですか?」というものでした。私はあらかじめ会社研究をしておいたので「測定器です。」と答えました。いくつかの質問に答えて、最後に「中島さんから何か質問は有りませんか?」と聞かれたので、「御社は、やはり理工系出身者を採用していると思いますが、全くのシロウトの私にもできる仕事でしょうか?」と質問したところ、面接官はニッコリして「大丈夫です。貴方からはヤル気が伝わってくる。」とおっしゃって下さり、私の面接会は終わりました。それから3週間後に一次通過の知らせがあり、今度は会社に出向いて最終面接に臨みました。この時もスタッフの有澤さんが付き添って下さいました。今度は3人の面接官の質問に答えました。「自己PRして下さい。」との要求に、私は作業所の袋詰めの最終チェックを任されていること。典型的A型で、ミスを発見した時の快感は何とも嬉しいと申し上げたところ、「君は製造部よりも生産管理に向いている。」と面接官はおっしゃいました。最後の質問で「貴方の嫌いなモノは何ですか?」と聞かれて面食らってしまいましたが、一瞬考えて「嫌いという訳ではないのですが、苦手なモノは気性の荒い人です。でも私は大分打たれ強くなりました。」と答えたところ、「大丈夫。うちはそういう人は雇っていないから。」とニッコリおっしゃいました。その面接から一週間位経って採用通知が来て、私は念願の東京精密に就職を勝ち取ることができました。

 去年の4月5日に入社して、現在11ヶ月を過ぎたところです。私は面接官の言葉通り、生産管理チームに配属されました。最初は物流倉庫という部署の受け入れをやりました。現在は私一人、出庫伝票の要求する部品の払い出しという仕事を任されています。この仕事は私の性格にピッタリ合っており、実に楽しいです。また社員の皆さんは、男性も女性もとても優しく私に接してくれます。一時期、雑念に悩まされて体調を崩しましたが、すぐ主治医に相談して薬を追加してもらってからは快調に仕事を進めています。また先程述べた「集中力」の本の威力もあったのでしょう。

 今、感じる事は、私は障害者枠で入ったとういだけで、与えられる仕事にノルマが有り、指示日迄に間に合わなかったり、ミスをすることもある。そして同じ質問を何回もすれば注意されます。やっている仕事内容は他の社員と変わりません。いい意味でも、厳しさの面からも全く差別がない、ということです。ビジネス書に書いてある通り、速く、正確に、美しく、安く、楽に、安全に仕事をこなす教育が社内で徹底して守られています。私が作業所時代に指導員さん達から厳しい訓練を受けさせて頂いたことが、今の職場の厳しさとのギャップを縮めていたのだな、と改めて指導員さん達に感謝します。

 お金を稼ぐということは大変な事です。生産管理の先輩達の、取り引き先との電話のやり取りが聞こえて来ますが、本当に仕事とは責任と信用が一番大事なんだと、つくづく実感します。仕事は頭と体を使うだけでなく、心こそ最大に使わなければ、という事を学びました。お金の為だけではなく、今、目の前にある仕事そのものに没頭しなければ本当のプロではない!ということにも気付かされました。今度更に努力し、私は少しでも会社の発展につながるように貢献していきたいと思います。

 先月16日に課長面接があり、「君の前向きな姿勢、見ていて分かるよ。これからもっと仕事を覚えてもらう。この会社にずっと居て欲しい。」とおっしゃって下さり、私は感激しました。こうして私が毎日の会社生活を楽しく過ごせるのには、何より母の陰の力のおかげだと思っています。病状が悪く入院していた私に励ましの手紙を書いてくれた母。現在出勤する時に「車に気を付けてね。」と優しく送り出してくれる母は、昔も今もちっとも変わらなくて温厚で平らな人です。だから私は、そういう淡々とした母の姿に安心して進んで来られたのだと思います。会社から帰宅して、夕食後に、母からの御褒美のダイエットコーラ500mlの味をかみしめながら、「よし、明日も頑張ろう!」と決意の連続です。

 最後になりますが、自分にはこれからやらなければならない事が山ほど有ります。それは、人生は何が起こるか分からない。そして私も家族も周りも皆歳をとる。人生は無常という言葉も最近は骨身に沁みます。正直言って不安です。先行きの分からない日本国家にも恐怖心さえ感じます。だからと言って怖い怖いと思っているだけでは前に進みません。私の考えですが、まず自分の身の周りを守り、それを大前提として一歩ずつ進むしかないのではないか。そして最終的には、本当に満足して死を迎えられるかどうかだと思います。だから私は毎朝、今日が臨終だという思いで出発します。そして一日にやるべき事柄をまず決意して何が何でも今日中に終わらせる。それができない時もあります。三日坊主で終わってしまう時もあります。でも三日坊主も10回やれば通算して一ヶ月やったことになります。毎日決意、決意の連続が自分を成長させると思います。私は今日も新たな決意をして、臨終只今なり、の精神で生きて行きます。

 御清聴、有難うございました。

精神障害者家族教室
 土浦保健所保健指導課主催で、平成19年3月9日に美浦村中央公民館で行われた。
中島洋司氏が昨年に引き続き体験発表を依頼され行った。

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